武将 島津義弘 第36話 開戦準備
天正四年(1576)九月下旬。
耳川南岸の段丘に夜が明け、
薄い川霧が漂っていた。
耳川は夜明け前後に霧が濃くなり、
視界が揺らぐことが多い。
義弘は本陣の前に立ち、
家久・歳久を呼び寄せた。
「配置を伝えよ」
短い言葉とともに、
各隊への命令が発せられた。
伝令が走り出し、
段丘の上を駆けていった。
鉄砲隊は段丘の縁に配置された。
射線が通る位置を確かめ、
家臣が火薬と弾薬の湿りを点検する。
耳川周辺は湿気が多く、
火縄が湿ると不発が増えるため、
乾燥箱から取り出した火縄が
束で配られた。
鉄砲隊は静かに準備を進め、
火皿の乾きを一つずつ確かめた。
段丘の縁は風が通りやすく、
煙が流れやすい場所でもあった。
伏兵を置くため、
家久が林と段丘の陰を見て回った。
伏兵隊は音を立てぬよう移動し、
草の濃い場所に身を沈めた。
隠れ場所を最終確認し、
旗と笛の合図を確かめる。
伏兵の足跡が残らぬよう、
草を戻す者もいた。
耳川の戦いでは、
伏兵の動きが勝敗を左右する。
義弘は伏兵の位置を
地図に細かく書き込んだ。
退路の確認も行われた。
南岸の段丘道は狭く、
荷駄隊が退避するには
順番を決めておく必要があった。
負傷者を運ぶ道も確保し、
障害物がないか見回る。
退路には目印として
小石が積まれ、
暗闇でも道が分かるようにした。
耳川は増水すると
退路が一気に狭まるため、
退避経路の確認は欠かせなかった。
先鋒隊が指定位置に整列した。
槍を持つ兵が前に出て、
弓・鉄砲の順に並び替えられる。
中軍は本陣周辺に整列し、
後詰は段丘後方に位置を取った。
兵たちは声を潜め、
甲冑の紐を締め直した。
槍の柄の節目を確かめ、
弓弦を張り直し、
火縄の火を調整する。
水と兵糧の最終補給も行われた。
伝令が各陣を走り、
命令を伝えていく。
隊長たちは短く返答し、
伝令は本陣へ戻って
次の命令を受け取った。
段丘の上では、
伝令の足音だけが響いた。
島津軍は二重伝令を用いることが多く、
命令の伝達は速かった。
義弘は段丘の上に立ち、
全体の陣形を見渡した。
家久は鉄砲隊の射線を確認し、
歳久は後詰の位置を確かめた。
義弘は地図を広げ、
最終配置を書き込んだ。
耳川の流れ、
北岸の大友軍の陣、
浅瀬の位置──
すべてが戦の形を決める要であった。
陣形の間隔も細かく調整され、
密集しすぎぬよう
家臣が兵の列を動かした。
陣内の焚き火が
小さく揺れていた。
川音が響き、
北岸には大友軍の灯りが
点々と並んでいた。
灯りの動きから、
敵が陣形を微調整していることが
うかがえた。
兵たちは声を潜め、
槍を握りしめて待機した。
風が川面を渡り、
焚き火の煙を流していった。
義弘は段丘の上から
耳川の流れを見つめた。
川霧が薄く漂い、
北岸の灯りが揺れていた。
戦は、もう目前だった。




