狂宴の幕開け
「……以上が、帝国法務省の内部に潜伏していたオーレリア王国側の内通者三名、および彼らが裏金を受け取っていたダミー商会の全口座記録です。加えて、バルター伯爵が次に帝国領内へ月光草を運び込もうとしている秘密ルートの予測地図も添付しておきました」
分厚い書類の束をデスクに置き、私はルキウス皇帝に向けて静かに一礼した。
私が帝国に保護され、『特任財務官』兼『帝国伯爵』という異例の地位を与えられてから、およそ二十日が経過していた。
この二十日間、私は寝食も忘れて帝国の膨大な財務資料と、オーレリア王国側の過去数年分の交易記録とを照らし合わせる作業に没頭していた。私の記憶の奥底に刻み込まれたアシュクロフト領の裏帳簿の数字と、帝国側の不自然な金の流れ。それらを一本の線で結びつけるのは、私にとってさほど難しいことではなかった。
ルキウス皇帝は、私が提出した書類をパラパラと素早くめくり、その黄金の瞳に感嘆の色を浮かべた。
「たった二十日でここまで完璧に証拠を固めるとはな。我が帝国の優秀な文官たちが三年かけても尻尾を掴めなかった内通者どもを、こうも鮮やかに炙り出すとは。……お前のその小さな頭の構造は、一体どうなっているのだ?」
「私はただ、パズルのピースをあるべき場所にはめ込んだだけです。ピースそのものは、陛下とレオンハルト部隊長が既に集めておられましたから」
私が淡々と答えると、執務室の壁際に控えていたレオンハルトが、呆れたような、しかし深い敬意の入り混じったため息を漏らした。
「謙遜もそこまでいくと嫌味だぞ、セルリア卿。君が提示した裏帳簿の暗号解読法のおかげで、昨日、内通者の貴族三名を一網打尽にすることができた。奴らは君の作った完璧な立証記録を突きつけられ、一言の言い訳もできずにその場で崩れ落ちたよ。帝国法務省は今、君の神業のような手腕の噂で持ちきりだ」
「それは重畳ですね。オーレリアの害虫どもを迎え撃つ前に、帝国側の膿を出し切ることができて安心しました」
私が冷たく微笑むと、ルキウス皇帝は喉の奥でくくっと笑い声を上げた。
彼はデスクから立ち上がり、私の傍まで歩み寄ってくると、その大きな手で私の頭を無造作に撫でた。
「よくやった、セルリア。お前は本当に、私の期待を裏切らない」
彼の指先が私の髪を梳く度、その熱を帯びた感触に少しだけ胸が高鳴るのを感じた。
冷酷無比な覇王として諸国から恐れられるルキウス・ヴィル・ガルディナ。だが、この二十日間、彼が私に向ける視線には、常に奇妙なほどの熱と、ある種の甘やかな庇護欲が混じっていた。
彼は私の実力を誰よりも高く評価し、私が復讐のために存分に腕を振るえるよう、最高の環境を与えてくれた。私が食事を忘れて書類と睨めっこしていると、自ら執務室に現れて私を食事の席へと強制的に連れ出し、夜遅くまで起きていると、「私の大切な剣を刃こぼれさせるわけにはいかない」と強引にベッドへ向かわせた。
祖国で、両親を亡くした私を「僕が守るから」と甘い言葉で籠絡し、裏切ったカイゼルとは違う。
ルキウス皇帝の言葉には一切の嘘や虚飾がなく、ただ圧倒的な『力』と『有言実行』だけがあった。その事実が、凍りついていた私の心に、少しずつ不思議な安らぎをもたらしていることを自覚せざるを得なかった。
「さて」
ルキウス皇帝は私の髪から手を離し、鋭い鷹のような目つきで窓の外――帝都の大通りを見下ろした。
「いよいよ明日は、我が帝国の建国記念式典だ。すでに周辺諸国の使節団が続々と帝都入りしている。もちろん、あの『オーレリアの豚共』もな」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たい電流が走った。
グレイド第二王子。バルター伯爵。そして、カイゼル・フォン・レヴィン。
私の家族を奪い、領民を地獄へ突き落とし、私を惨い死の淵へと追いやった者たち。
「レオンハルトからの報告によれば、奴らは帝都の高級宿に滞在し、明日の夜会に向けて随分と上機嫌で過ごしているらしい。バルター伯爵は帝国の有力貴族に賄賂を配って更なる月光草の密売ルートを開拓しようと企み、グレイド王子は我が帝国からさらなる融資を引き出そうと皮算用をしているそうだ」
「……愚かですね。自分たちの足元が、すでに完全に崩れ去っているとも知らずに」
私が氷のように冷たい声で吐き捨てると、皇帝は獰猛な笑みを深くした。
「全くだ。奴らは、自分たちの悪事を知る『アシュクロフト男爵令嬢』はすでに野盗に殺され、この世から完全に消え去ったと信じ切っている。だからこそ、何の警戒もせずに敵国の心臓部にまでノコノコと足を踏み入れたのだ」
ルキウス皇帝は私の顎に手を添え、少しだけ上を向かせた。
至近距離で交わる黄金の瞳に、私の翠緑の瞳が映り込んでいる。
「明日、すべてが終わる。お前の憎しみも、悲しみも、すべて奴らの絶望という血祭りに上げて晴らしてやる。……私から目を離すなよ、セルリア」
「はい、陛下。私の魂は、すでに貴方と共にあります」
私が誓いの言葉を口にすると、皇帝は満足そうに微笑み、私の額に恭しく、誓印のような口付けを落とした。
それは、私という『死神』が、復讐の舞台へと解き放たれるための最後の儀式のようだった。
────
翌日の夜。
ガルディナ帝国の皇宮は、建国を祝う熱気と、大陸中から集まった権力者たちの思惑とで、めまいがするほどの華やかさに包まれていた。
黄金と水晶で飾られた巨大なシャンデリアが、何千本もの蝋燭の光を反射して大広間を昼間のように照らし出している。床には深紅の絨毯が敷き詰められ、壁際には世界中から集められた極上の酒と豪奢な料理が山のように並べられていた。
着飾った各国の王族や貴族たちが、グラスを片手に優雅な会話を交わし、楽団が奏でる壮麗な音楽がその空間を彩っている。
そんな中、私は大広間を見下ろす二階の隠しバルコニーから、冷徹な目で眼下の群衆を観察していた。
私の身を包んでいるのは、ルキウス皇帝が私のためだけに用意させた、夜空の星々を散りばめたような漆黒と銀の豪奢なドレスだった。上質な絹が私の体の線に沿って滑らかに流れ、首元には皇帝家の証である小さな紅玉の首飾りが輝いている。
以前の、質素な男爵令嬢としての面影はどこにもない。そこにあるのは、圧倒的な権力と自信に満ち溢れた、帝国の高位貴族としての威厳を纏った女の姿だった。
「……見つけたか?」
背後から声がし、振り返ると、正装に身を包んだレオンハルトが立っていた。彼の黒い軍服には、数え切れないほどの勲章が輝いている。
「ええ。あそこに」
私は扇で、大広間の中央付近でひときわ大きな顔をしている一団を指し示した。
オーレリア王国の使節団だ。
中心に立っているのは、金糸の刺繍が施された豪奢な白い軍服を着た男。グレイド第二王子だ。彼の顔には、自らの権力を疑わない傲慢な笑みが張り付いている。
その斜め後ろで、揉み手をするようにして他の国の貴族たちに愛想を振りまいている恰幅の良い男が、バルター伯爵。
そして――。
(カイゼル……)
グレイド王子の側近として、涼しげな顔でグラスを傾けている金髪の男。
蜂蜜色の瞳を細め、女性貴族たちに優雅に微笑みかけているその姿は、私が愛し、そして私のすべてを裏切ったあの男のままだった。
彼らは笑っていた。
私が冷たい地下牢で涙を流し、絶望の中で死の恐怖に怯えていた時も、彼らはあのように美酒を飲み、笑っていたのだろう。私の両親の命を奪い、領民たちを搾取して得た金で着飾りながら。
ギリッ、と扇の柄を握りしめる手が白くなる。
「落ち着け、セルリア卿。まだ舞台の幕は上がっていない」
レオンハルトが私の肩にそっと手を置き、静かに制した。
「わかっています。……ただ、彼らがどれほど滑稽に見えるかと思ったら、虫唾が走っただけです」
私が感情を押し殺して答えると、眼下の大広間で、ファンファーレの音が甲高く鳴り響いた。
楽団の演奏がピタリと止まり、人々のざわめきが波が引くように静まっていく。
「皇帝陛下、ならびに特任財務官閣下の御成り!!」
式典進行役の高らかな声が響き渡り、大広間の正面にある巨大な大階段の上の扉が、重々しい音を立てて開かれた。
全ての視線が、階段の最上段へと注がれる。
現れたのは、漆黒の軍服に豪奢なマントを羽織ったルキウス皇帝だった。
彼の圧倒的な覇気に当てられ、大広間に集まった数百人の権力者たちが、一斉にその場に膝をつき、深く頭を下げる。
もちろん、オーレリアの使節団であるグレイド王子たちも例外ではない。彼らは最も目立つ中央の場所で、恭しく平伏していた。
「面を上げよ。我が帝国の建国を祝う宴に集った者たちよ」
ルキウス皇帝の低く響き渡る声に、人々が一斉に顔を上げる。
私は隠しバルコニーから静かに移動し、大階段の陰に待機していた。私の出番は、次だ。
「今宵の宴は、ただの祝いの場ではない。我が帝国がさらなる飛躍を遂げるための、新たなる『刃』を諸君らに披露する場でもある」
皇帝の言葉に、大広間が微かにどよめいた。
「我が帝国を内側から蝕もうとする害虫や、国境を越えて不法な利益を貪ろうとする愚か者ども。それらを一切の容赦なく切り捨て、帝国の富を盤石なものとするための役職。……『特任財務官』。その重責を担う者を、これより紹介する」
ルキウス皇帝が階段の中腹で立ち止まり、背後へと右手を差し伸べた。
「出よ。我が帝国の懐刀、セルリア・ヴァン・アシュクロフト帝国伯爵」
その名が呼ばれた瞬間。
大広間の中央にいたオーレリアの使節団――グレイド王子、バルター伯爵、そしてカイゼルの動きが、文字通り完全に凍りついたのが見えた。
『アシュクロフト』。
その名前に聞き覚えがないはずがない。彼らがつい一ヶ月前に反逆の罪を着せ、密かに殺し、闇に葬り去ったはずの、哀れな男爵令嬢の名前なのだから。
「……え……?」
静まり返った広間の中で、カイゼルの間の抜けた声が微かに響いた。
信じられないものを見るような、あるいは幽霊の到来を恐れるような目で、彼らが大階段の最上段を凝視する。
私はゆっくりと、ドレスの裾を揺らしながら大階段の上に姿を現した。
幾千もの蝋燭の光を浴びて、私が彼らを見下ろした時。
カイゼルの顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いていくのがはっきりと見えた。
バルター伯爵は目をひん剥いて口をパクパクとさせ、グレイド王子は驚愕のあまり手に持っていたワイングラスを床に取り落とした。
ガチャン、というガラスの割れる音が、静寂の大広間に痛々しく響き渡る。
「……ば、馬鹿な……」
「な、なぜ……なぜ、お前が……生きて……っ!?」
彼らの絶望と恐怖に歪んだ顔。
それこそが、私がこの一ヶ月間、毎夜毎夜夢にまで見た最高の光景だった。
私はルキウス皇帝の差し出した手を取り、その隣に並び立つと、オーレリアの使節団たちに向けて、この上なく優雅で、そして氷のように冷酷な微笑みを浮かべた。
「ごきげんよう、オーレリア王国の皆様」
私の凛とした声が、大広間の隅々にまで響き渡る。
「私の顔をご存知ないとは言わせませんわ。一ヶ月前、私に国家反逆の濡れ衣を着せ、暗殺しようとした貴方たちが、まさか私の顔を忘れるはずがありませんものね?」
その言葉に、周囲の他国の貴族たちがざわめき始めた。
「暗殺?」「濡れ衣?」「どういうことだ、オーレリアの使節団に向かって……」
疑念の視線が一斉にグレイド王子たちに突き刺さる。
「な……っ! き、貴様、何を血迷ったことを! 帝国皇帝陛下の御前で、そのような妄言を吐くとは……!」
バルター伯爵が顔を真っ赤にして叫んだが、その声は恐怖で震えていた。
「妄言かどうかは、これから証明して差し上げますわ」
私は扇を閉じ、彼らを虫ケラのように見下ろしながら宣告した。
「我が帝国への麻薬密輸、不正な資金洗浄、および我がアシュクロフト家への不当な搾取と殺人教唆。……それらすべての罪を、この私が、帝国特任財務官の権限において裁いて差し上げます」
カイゼルが、ガクガクと膝を震わせながら、縋るような目で私を見ていた。
かつて私に向けたあの甘い嘘の瞳はどこへやら、今そこにあるのは、自らの破滅を悟ったみっともない男の無様な姿だけだった。
「さあ、狂宴の幕開けです。貴方たちが私に与えた地獄の痛みを、骨の髄まで味わっていただきましょう」
皇帝の隣に立つ死神からの宣告は、彼らの退路を完全に断ち切る、絶対的な絶望の始まりだった。




