『ぼくらの、家を直す』
レオンは、食堂の壁の前で、両手を、腰に当てて、立っていた。
朝の光が、割れた窓から、斜めに、差し込んでいる。その光の中で、食堂の壁の、剥がれかけた、古い漆喰の、ヒビの一本一本が、くっきりと、浮かび上がって見えた。
「——うん」
レオンは、小さく、頷いた。
「そろそろ、直そう、ここ」
踏破くん三号が、足元で、ちょこん、と、お辞儀した。賛同の意、らしかった。
アイリスが、食堂に入ってきた。今朝は、膝に、踏破くん四号を乗せていない。代わりに、彼女の肩の上で、踏破くん八号が、朝の三つ編みを、整えていた。
「——何を、見ている」
「壁、ですね」
「壁?」
「穴が、空いてます」
アイリスは、壁の前に、立って、じっと、見た。
確かに、窓の近くの漆喰が、ごそり、と、崩れ落ちていて、石の地肌が、露出していた。さらに、その隣には、ヒビが、蜘蛛の巣のように、走っている。
「これは——昨日、踏破くん六号が、蜘蛛の巣を払うのに、熱心になりすぎて、箒の柄で、突いた跡だな」
「……踏破くん、そんなことするんですね」
「合理的な、掃除の結果、らしい」
「合理的の、使い方、間違ってない?」
ルルが、食堂に、のそり、と降りてきた。今日も、顔に煤は、ついていなかった。「踏破くん五号が、ルルの顔を洗う担当になった」とのことで、最近、彼女の朝の身だしなみは、安定していた。
「——壁の穴、直すか?」
ルルが、ぼそりと、言った。
「直したいね」
「材料、必要」
「うん、昨日、組合に行ったついでに、帰りに建築組合を覗いてきた。漆喰の粉は、一袋、三千ルナ」
「安い」
「うん。他に、屋根の補修材、床板の修繕キット、窓ガラスの、予備のやつ——全部合わせて、二万ルナ、くらい」
アイリスが、少しだけ、目を、見開いた。
「——二万ルナで、全部、直せるのか」
「一度に、全部は、無理。でも、一つずつなら」
レオンは、昨日、組合の帰り道に、真面目な顔の、初老の大工と、世間話がてら、値段を訊いてきたのだった。話をしたのは、『職人組合』の看板の下で、パイプを吹かしていた、ガロンという名の、白髭の男だった。「ステラ・レギアかい、ありゃもう、半分廃墟だよなあ」と、ガロンは、笑いながら、細々と、値段を、教えてくれた。
アイリスは、腕を、組んで、壁を、見上げた。
「——今月の、ギルドの予算には、余裕が、あるのか」
「あります。昨日の、月例報告、覚えてますか」
「覚えてる」
「借金は、残り一万五千ルナ。今月中には、返し終わる目処が、立ってる」
「うむ」
「で、今月の、オルトロスの素材の、買い取り金の、まだ未使用分が、十二万ルナ、あります」
「——十二万」
「借金返済に、一万五千。生活費に、月四万。予備に、残りを置いておいて、——修繕に、二万、回せる計算です」
アイリスは、しばらく、黙った。
それから、ぽつり、と、言った。
「——お前、ほんとに、管理人、向いてるな」
「え、褒めてます?」
「褒めてる」
「ありがとうございます!」
「調子に、乗るな」
「はい」
ルルが、壁の穴を、ゴーグル越しに、じっと、観察していた。
「マスター」
「うん?」
「漆喰は、ルルが、練れる」
「そう、なの?」
「錬金術で、——簡易の、接合材を、作れる。市販の漆喰より、少し、高性能だ」
「おお、それは、ありがたい」
「手順、教えていいか」
「うん、お願い」
ルルは、ぽくぽく、と、頷いた。
シエラが、階段を、とととと、と、駆け降りてきた。
「——おはよう、お兄ちゃん! アイリスお姉ちゃん! ルル姉ちゃん!」
「おはよう、シエラちゃん」
「お、お兄ちゃん、今ね、壁の穴の話してた?」
「してた」
「な、なにそれ、シエラ、お手伝いしたい!」
「じゃあ、漆喰塗り、やろっか」
「うん!」
シエラは、ぐっ、と、小さな拳を、握った。
アイリスは、ふん、と、小さく、笑った。
「——いいだろう。私も、加わる。今日の午後は、修練を休んで、壁を、直そう」
「——アイリスさんも、手伝うんですか?」
「当然だ」
彼女は、腕を、組み直した。
「——これは、私たちの、家だ」
アイリスは、それを、ごくごく、当たり前のように、言った。
レオンは、ちょっとだけ、目を瞬いた。
アイリスが、ぷい、と、顔を逸らした。
「——『ステラ・レギア』の、話、だからな」
「はい」
「変な意味では、ない」
「はい」
「別に、——『帰りたくなる家』、とか、そんな、恥ずかしい、意味では、ない」
「はい」
アイリスの、耳の先が、ほんのり、赤くなった。
レオンは、笑いを、堪えながら、頷いた。
---
午前中、レオンとアイリスで、街に、買い出しに行った。
職人組合で、昨日の白髭のガロン爺さんに、もう一度、挨拶した。
「おお、昨日のあんちゃんか」
ガロン爺さんは、パイプを、ぷかぷか、と、吹かしながら、にやりと、笑った。
「本当に、買いに来やがった。——で、どれだ」
「漆喰の粉を、一袋。あと、屋根の補修用の、防水布、を」
「屋根も、やる気か」
「はい。今週中に、全部は、無理ですけど、できるところから」
ガロン爺さんは、レオンを、じっ、と、見た。
それから、アイリスに、視線を、移した。アイリスは、ちょっと、ぴくり、と、した。
「——あんた、紅蓮のアイリス、だろ」
「……そうだ」
「『天界の盾』、辞めて、こんな落ちぶれ城に、流れたって、聞いてたが」
「——」
「見違えた」
ガロン爺さんは、ぽつりと、言った。
「三年前は、もっと、尖ってた。今日は、ちっと、丸くなってる。いい顔だ」
「——」
アイリスの、頬が、赤くなった。
「言うな、ジジイ」
「ハハ、言うぜ、言いたくなるからな」
ガロン爺さんは、笑いながら、袋を、レオンに、差し出した。
「漆喰、三千。防水布、五千。——あと、これは、おまけだ」
「おまけ?」
「古い、刷毛。ウチの工房の、在庫整理で、余ってたやつ。使ってくれ」
「ありがとうございます」
「ただし、ちゃんと、塗れ。中途半端に、塗ると、来年、もう一度、呼びに来ることになるぞ」
「頑張ります」
ガロン爺さんは、また、パイプを、吹かした。
「——あの城、ちゃんと、直しな」
煙の向こうで、彼は、目を細めた。
「昔は、もう少し、真面目なギルドの、本拠地だったんだ。惜しい」
「昔、覚えてるんですか」
「三十年前の、話だぞ」
「うわあ」
「あんちゃんが、今直せば、あの城は、まだ、あと三十年、持つ」
「はい」
「頑張れよ」
「はい」
ガロン爺さんは、にやり、と、笑って、レオンの肩を、ぽん、と叩いた。
---
ギルドに、戻ったのは、昼前だった。
昼食には、踏破くんたちが、食卓に、パンと、簡単なスープを、用意してくれていた。シエラが、張り切って、「お兄ちゃん、私、下ごしらえだけ、やっておいたから!」と、得意げに、報告してきた。
「——助かるよ、シエラちゃん」
「えへへ」
「玉ねぎ、切ったの?」
「うん、泣きながら!」
「泣きながらか」
「ルル姉ちゃんが、『涙を流さない、玉ねぎの切り方』って、発明してる、って、言ってたけど」
「発明してる」
食卓の、一番端で、ルルが、ぼそり、と、答えた。
「まだ、試作中、だ。完成したら、食卓革命、起きる」
「完成、楽しみにしてる」
「合理的な、楽しみかた、だ」
午後、本格的な作業が、始まった。
食堂の壁の、穴と、ヒビ。これを、先に片付けることにした。
ルルが、錬金術で、簡易の、高性能漆喰を、練ってくれた。乳白色の、とろり、とした液体。少し、金属の粉が、混ざっているらしく、乾くと、普通の漆喰より、強く、固まるのだとか。
「——素晴らしい、ルルちゃん」
「合理的、だ」
踏破くんたちの、うち、三体が、漆喰の、運搬係に、なってくれていた。小さな、鋼の手で、小さな、バケツを、抱えて、とたとた、と、壁と、ルルの練り場の間を、往復している。
シエラは、刷毛を、両手で持って、壁の前に、立っていた。
「お、お兄ちゃん、こう、塗るの?」
「下から、上に、刷毛を、動かすんだ。こう、すーっ、と」
「すーっ」
シエラは、真面目な顔で、刷毛を、動かした。
しかし、力加減が、分からず、最初の一塗りで、ぼとり、と、漆喰の塊を、床に、落とした。
「わぁっ、ご、ごめんなさい、お兄ちゃん!」
「大丈夫大丈夫、こういうものは、最初は、誰でも、そうだから」
「う、うう、シエラ、不器用で、ごめん」
「不器用じゃ、ないよ。刷毛、初めてでしょ」
「うん、初めて」
「じゃあ、むしろ、普通、こんなもんだよ」
レオンは、にっこり、笑った。
そして、シエラの、後ろから、そっと、刷毛を持つ小さな手に、自分の手を、添えた。
「こう」
レオンの手が、シエラの手を、ゆっくり、導いた。
刷毛が、なめらかに、壁を、撫でた。
乳白色の、漆喰が、ぺたり、と、石の肌に、広がった。
「——わ、わぁ、できた、お兄ちゃん、できた!」
「上手だよ、シエラちゃん」
「うぅ、お兄ちゃんの、おかげ」
「シエラちゃんの、手も、頑張ってたよ」
シエラは、ぱあ、と、明るく、笑った。
その隣で、アイリスは、一人で、ヒビの、深い部分に、漆喰を、叩き込んでいた。
彼女は、剣士である。身体の、使い方が、うまい。一度、刷毛の使い方を、覚えると、すぐに、コツを、掴んだ。むしろ、レオンより、整った、仕上がりに、なっていた。
「——さすが、アイリスさん」
「ふん、刷毛くらい、剣の振りより、楽だ」
「そうなんですか?」
「——剣も、筆も、結局、手首の動きだ。やり方を、一度、体で覚えれば、応用できる」
「なるほど」
「——お前、刷毛、もっと、しっかり握れ」
「はい」
アイリスは、レオンの、不器用な、握り方を、じっ、と、見ていた。
それから、ふと、自分の隣で、シエラが、レオンに、後ろから手を添えてもらって、嬉しそうに、刷毛を動かしているのを、見た。
アイリスの、眉が、ほんの少しだけ、動いた。
そして、ぽつりと、言った。
「——私も、貸せ」
「え?」
「刷毛」
「あ、はい、どうぞ」
「違う。——お前の、握り方が、悪い、と、言っている」
アイリスは、レオンの、隣に、立った。
そして、ちょっと、躊躇った。
けれど、結局、——シエラに、したのと、同じように。
「——」
アイリスの、細い指が、レオンの、刷毛を持つ手の、甲に、そっと、添えられた。
「——こう、持つんだ」
「——あ、はい」
「手首は、固めない。柔らかく、——こう」
アイリスの手が、レオンの手の上で、ゆっくり、動いた。
刷毛が、壁の上で、なめらかに、走った。さっきまで、ぎこちなかった、レオンの、漆喰の塗り方が、急に、スムーズになった。
「……お、上手くなった」
「覚えたな」
「はい、ありがとうございます、アイリスさん」
「——」
アイリスは、ぱっ、と、手を、引っ込めた。
そして、ぷい、と、顔を背けた。
耳の先が、真っ赤だった。
シエラが、漆喰の刷毛を、両手に持ったまま、目を、ぱちくりさせて、アイリスを、見ていた。それから、にま、と、妙な顔で、笑った。
「——アイリスお姉ちゃん、顔、赤いねえ」
「うるさい、シエラ」
「えへへ」
「笑うな」
「えへへへ」
ルルが、壁の隅で、観察日誌に、何かを、ぴこり、ぴこり、と、書き込んでいた。
---
夕方。
食堂の、壁は、半分以上、直った。
残りは、乾いてから、もう一度、薄く、重ね塗りすれば、完成である。
四人は、壁を、見つめて、満足そうに、立っていた。あちこち、仕上がりは、まだ、粗い。シエラの塗った部分は、少し、でこぼこしている。アイリスの塗った部分は、妙に、気合の入った、筆跡が、見える。レオンの塗った部分は、一か所、漆喰を、厚塗りしすぎて、膨らんでいる。ルルの塗った部分は、——錬金術で、謎の、光沢があった。
「——職人の、目から見たら、失格、かもしれんな」
アイリスが、苦笑した。
「でも、昔より、ずっと、いいな」
「きれいになったよ! お姉ちゃん!」
シエラが、目を輝かせて、言った。
「家族、四人で、塗った、壁だ」
ルルが、ぼそりと、つけ加えた。
「——家族」
アイリスが、その言葉を、小さく、繰り返した。
そして、ちらりと、レオンを、見た。
レオンは、にっこり、笑った。
「——ですね。家族の、壁だ」
「——まあ、な」
アイリスは、ぷい、と顔を背けた。
けれど、口元は、ちょっとだけ、笑っていた。
---
夜。
食堂で、四人で、夕食を、食べた。
今夜は、エレーナは、街に出ていた。「占星術師の、寄合があってねえ」と、ワインボトル片手に、夕方、出かけていった。
夕食の席で、アイリスが、ふと、言った。
「——次は、どこを、直す?」
「うん、明日から、屋根を見る予定。今、防水布が、届いてるから、雨の当たりやすいところから、補修していこうと思って」
「屋根、か」
「うん」
「——お前、屋根には、登るな」
「え」
「高いところで、お前が、落ちたら、——今度は、さすがに、ちょっと、嫌だ」
「不死身ですから、大丈夫ですよ」
「不死身だろうが、落ちるのを、見るのは、嫌だ」
「——」
レオンは、しばらく、考えた。
そして、頷いた。
「——じゃあ、屋根は、僕は、補助に回ります」
「それでいい」
「登るのは、誰が?」
「私が、登る」
「アイリスさんが、ですか」
「身体能力は、私が、このギルドで、一番、高い。——踏破くんたちと、組み合わせれば、屋根の、細かい補修は、できる」
「ありがとうございます」
「——だから、お前は、下から、指示を、出せ」
「はい」
アイリスは、ぽつり、と、続けた。
「——指示を、出してくれ、な」
「はい」
「——お前の、指示は、——悪くない」
アイリスは、ぷい、と、スープを、啜った。
その頬は、今夜も、ほんのり、赤かった。
シエラが、席から、ぴょこん、と、顔を出して、言った。
「——あ、明日は、シエラも、お手伝いする!」
「シエラは、屋根に、登るのは、禁止だ」
「下で、運ぶ係、やる!」
「——それは、いいぞ」
「よかったぁ」
シエラは、にこ、と、笑った。
ルルが、スプーンを、ゆっくり、動かしながら、言った。
「——マスター」
「うん?」
「ルルも、明日、手伝う」
「おお、嬉しいな」
「踏破くんたちを、——屋根の、補修用に、改良する」
「改良?」
「今のままでは、滑る。足裏に、吸着材を、付ける」
「それは、助かる」
「爆発は、しない、はずだ」
「『はず』は、結構、怖いね、ルルちゃん」
「合理的な、予測、だ」
レオンは、笑った。
---
夜。
食後、片付けが、終わった後。
レオンは、自分の部屋には、戻らず、食堂に、残っていた。
食卓の、ランプを、一つだけ、点けて、椅子に、腰掛けて、壁を、眺めていた。
半分、直った、漆喰の壁。
光の加減で、いくつかの、波打ったような、筆跡が、ほんのり、浮かび上がって、見えた。
シエラの、小さな、でこぼこ。アイリスの、気合の入った、一本線。自分の、厚塗りの、膨らみ。ルルの、謎の、光沢。
「——ふうん」
レオンは、ぽつり、と、呟いた。
ふと、食堂の入り口の、気配に、気づいた。
見れば、アイリスが、そこに、静かに、立っていた。
白い、寝巻きに、ガウンを羽織って、手には、湯気の立つ、マグカップを、二つ、持っている。
「——まだ、起きてたのか」
「アイリスさんも」
「……お前が、まだ、起きてる気配がしたから」
「寝るの、遅いですね」
「お前がな」
アイリスは、食卓の、レオンの、向かい側の椅子に、腰掛けた。
そして、マグカップの、片方を、レオンの前に、置いた。
ホットミルク、だった。蜂蜜が、少しだけ、浮いている。
「——ありがとうございます」
「ん」
アイリスは、自分のマグカップを、両手で、包んだ。
しばらく、二人は、黙って、壁を、見ていた。
やがて、アイリスが、ぽつり、と、言った。
「——お前、ずっと、壁を、見てたのか」
「はい」
「どうして?」
「——なんかね」
レオンは、少し、照れたように、頭を、掻いた。
「生まれて、初めて、なんです」
「何が」
「——自分が、手を、入れた、家」
「——」
「僕、実家、ないんです。小さい頃、両親、亡くなって。親戚のところを、転々として。王都で、一人暮らしに、なってからは、下宿ばかりで」
「——」
「どこも、自分の家、じゃ、なかった。自分の手で、直したり、飾ったりしたこと、一度も、なかった」
「——」
「だから、ちょっと、不思議な、感じで」
レオンは、マグカップの、湯気を、見つめた。
「あの、壁の、僕の、厚塗り。——あれが、なんか、照れ臭いくらい、嬉しくて」
アイリスは、しばらく、沈黙した。
それから、静かに、言った。
「——お前も、そうだったか」
「え?」
「私も、実家は、ない」
「——」
「母は、私を産んで、すぐに、亡くなった。父は、——冒険者で、家に、ほとんど、帰って、こなかった。私が、十歳の時に、任務で、死んだ」
「——」
「それから、私は、『天界の盾』の、弟子入りだった。先生の、道場の、屋根裏部屋が、私の、住まいだった」
「はい」
「——だから、私も、自分で、『家』を、直した経験は、なかった」
アイリスは、湯気の向こうで、壁を、見つめた。
「今日、刷毛を持った時——ああ、これが、自分の家を、直す、ということか、って」
「——」
「ちょっと、——どきどき、した」
レオンは、ゆっくりと、笑った。
「——僕も、同じでした」
「——そうか」
「一緒に、ドキドキできて、よかったです」
「——お前は、ほんとに、時々、恥ずかしいことを、言う」
「すみません」
「でも、嫌じゃ、ない」
「——」
二人は、また、黙った。
ランプの、小さな灯りが、揺れた。
窓の外で、夜風が、さらさら、と、中庭の、アザミを揺らしていた。
「——レオン」
「はい」
「明日の、屋根」
「はい」
「——ちゃんと、下から、見ててくれ」
「はい」
「——」
アイリスは、マグカップを、そっと、傾けた。
「——お前の、声が、下から、聞こえていると、——たぶん、私は、落ちない」
「——落ちないでください」
「落ちない」
「——でも、もし、落ちたら、僕が、受け止めます」
「——」
「不死身の、肉壁、ですから」
アイリスは、ちょっと、笑った。
「——お前、そういうところは、安定して、お前だな」
「はい」
「——いい」
アイリスは、マグカップを、飲み干した。
そして、立ち上がった。
「——おやすみ、レオン」
「おやすみなさい、アイリスさん」
アイリスは、食堂の、扉の方へ、歩いていった。
扉の、敷居を、跨ぐ時、ふと、振り返った。
「——あのな」
「はい」
「——壁の、厚塗りの、膨らみ」
「はい」
「——あれ、お前の、癖、か」
「癖、ですか?」
「最初に、刷毛を、持つ手が、力みすぎるんだ」
「ああ、そうかも」
「明日も、気を、つけろ」
「はい、ありがとうございます」
「——それから」
「はい」
「——壁の、厚塗り、あそこだけ、明日、削らないで、残しておこう」
「え、でも、見栄えが」
「——家族の、癖だ」
アイリスは、ぷい、と、顔を背けて、そう、言った。
「——家族の、癖は、消さなくて、いい」
「——」
「——そういうものだ、たぶん」
それだけ言って、アイリスは、扉の向こうに、消えた。
レオンは、マグカップを、両手で、包んだ。
ミルクの、温かさが、手のひらに、じんわりと、広がった。
壁の、自分の、厚塗りの、膨らみが、ランプの灯に、照らされて、——少し、愛おしかった。
---
八日目の朝。
屋根の、補修作業が、始まった。
中庭から、梯子を、屋根に、かけた。踏破くんたちは、ルルの改良で、足裏に、吸着材が、付けられ、屋根の、急斜面でも、滑らずに、歩けるようになっていた。「爆発しなかった」と、ルルは、誇らしげに、報告した。
アイリスが、屋根に、登った。
レオンは、下から、指示を出した。
「アイリスさん、右の、瓦が、少し、浮いてます」
「——どれだ?」
「赤っぽい、小さいやつ、奥から、二枚目」
「——ああ、あった」
「そこに、補修材を、差し込んで、ください」
「——了解」
シエラが、下で、補修材の、バケツを、抱えていた。踏破くん三体が、バケツから、小分けに、材料を、運び上げている。
ルルは、中庭の隅で、道具の、管理を、していた。
——空は、晴れていた。
秋の、澄んだ、青空。ライムの木々が、黄色に、色づき、風に、揺れている。
屋根の上の、アイリスの、銀髪が、日の光に、きらきらと、光った。
彼女は、一度、下を、見た。
レオンと、目が、合った。
アイリスは、ちょっとだけ、笑った。
「——下から、ちゃんと、見てたな」
「はい」
「——よし」
アイリスは、また、屋根に、向き直った。
補修材を、しっかりと、差し込み、踏破くんに、手渡した。踏破くんが、それを、小さな金槌で、とんとん、と、固定する。
「——完了した」
「お疲れ様です」
「——次は、どこだ?」
「左の、煙突の、付け根。雨が、染みてる跡があります」
「——見つけた」
作業は、午前中いっぱい、続いた。
ギルド『ステラ・レギア』の、古い屋根が、少しずつ、少しずつ、綺麗になっていった。
その下で、ヒロインたちと、踏破くんたちが、一緒に、動き回っていた。
——家を、直していた。
みんなの、家、を。
---
昼過ぎ、エレーナが、街から、戻ってきた。
「——あっ、ずいぶん、賑やかな、音がするねえ」
ワインボトル片手に、中庭に、入ってきた彼女は、屋根の上のアイリスと、梯子のレオンと、バケツのシエラと、道具箱のルルと、走り回る踏破くんたちを、見た。
しばらく、彼女は、のんびりと、それを、眺めていた。
それから、ぽつりと、呟いた。
「——これは、これは」
彼女は、ガウンの袖を、まくり上げた。
「——あたしも、働こうかねえ」
「エレーナさん、何を?」
「占星台が、雨漏りしてるんだよ」
「え、大変じゃないですか」
「あたしの、頭の、ちょうど、真上に、ぽたん、ぽたん、と、水滴が、落ちてくる、夢を、三日、連続で、見たんでね」
「それは、だいぶ、漏れてますね」
「だろう」
エレーナは、にやり、と、笑った。
「一緒に、直してくれるかね、管理人」
「もちろんです」
「報酬は、今夜の、ワインだ」
「いりません」
「じゃ、あたしの、楽しい、居残りで」
エレーナは、楽しげに、笑った。
ルルが、ぼそりと、道具箱から、顔を上げた。
「エレーナの、占星台は、屋根の、最上部。一番、高い」
「そうだね」
「登るのは、——誰だ?」
「それは、あたしが、登るよ」
エレーナは、ひらり、と、手を振った。
「占星台は、あたしの、聖域だからね。他人に、登らせる、わけにいかない」
「——合理的、だな」
「ふふ、合理的だろう?」
エレーナは、梯子に、手を、かけた。
「——レオン、下で、見ててくれるかい?」
「はい、もちろん」
「万一、あたしが、足を、踏み外しても、——」
「受け止めます」
「ハハハ、頼もしい」
エレーナは、ワインボトルを、シエラに、預けて、ひょい、ひょい、と、梯子を、登り始めた。
足取りは、案外、軽やかだった。彼女は、占星術師であり、酒飲みであり、——そして、たぶん、若い頃、何か別の、足元の危うい職業も、やっていたのかもしれなかった。屋根の上で、彼女の足取りは、アイリスより、ずっと、慣れていた。
「——お、エレーナ」
「よう、アイリス」
「あんたも、登るのか」
「占星台の、雨漏り、直さんと、占えん」
「——そうか」
アイリスは、ふん、と、頷いた。
それから、屋根の上で、二人は、並んで、古城の頂点にある、小さな、八角形の、占星台の、修理を、始めた。
エレーナは、意外にも、細かい、手仕事ができた。アイリスは、その、意外性に、少しだけ、驚いているようだった。
レオンは、下から、それを、見ていた。
——初めて見た、エレーナの、『仕事』の姿、だった。
---
日暮れ。
屋根の、補修は、今日の分の、予定を、全て、終えた。
残った、細々した部分は、明日以降、順次、やっていくことになる。それでも、雨の日に、一番、漏れる、主要な箇所は、概ね、片付いた。
アイリスと、エレーナが、屋根から、降りてきた。
二人とも、少し、疲れた顔だったが、妙に、満足そうだった。
「——いい、仕事、したねえ、あたしたち」
「——そうだな」
「今夜は、ワインを、開けよう。祝いだ」
「——」
「ワイン、嫌いかい、アイリス?」
「——少しなら、いい」
「ふふ、大人の、お酒だねえ」
エレーナが、嬉しそうに、笑った。
シエラが、庭から、駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん! ちゃんと、直せた?」
「直した」
「すごい! アイリスお姉ちゃんも、エレーナお姉ちゃんも、かっこよかったよ!」
「——」
「お兄ちゃんも、下から、指示、ちゃんと、出せてた! かっこよかった!」
「ありがとう、シエラちゃん」
「今夜は、家族の、お祝い、だね!」
「家族」
アイリスが、その言葉を、また、繰り返した。
今度は、照れずに、少しだけ、笑った。
「——そうだな。——家族の、お祝い、だ」
---
夕食は、賑やかだった。
いつもの食卓に、エレーナも、加わった。ワインボトルが、二本、開いた。アイリスが、一杯だけ、ワインを、試みに、口にして、「——思ったより、甘くない」と、少しだけ、顔をしかめて、言った。
シエラは、ワインは、ダメだが、代わりに、甘い、ぶどうジュースで、乾杯した。
ルルも、ジュース。
レオンも、ジュース。
「——乾杯」
エレーナが、グラスを、掲げた。
「ステラ・レギアの、屋根と、壁に」
「壁と、屋根に」
アイリスが、続けた。
「家族の、癖に」
ルルが、続けた。
「えへへ、家族の、癖に!」
シエラが、嬉しそうに、続けた。
レオンは、しばらく、グラスを、掲げたまま、四人を、見ていた。
みんなの、顔を、一人ずつ、見た。
アイリスの、赤い頬。シエラの、満面の笑み。ルルの、少しだけ柔らかいゴーグル越しの目。エレーナの、楽しげな、酒焼けの頬。
そして、足元の、食卓の周りに、わらわらと、働いている、踏破くん十四体。
「——みんなに」
レオンは、ゆっくりと、言った。
「——家族に」
「家族に」
四人の、声が、重なった。
ガラスの、軽い、きゅ、という音が、食堂に、響いた。
暖炉の火が、ぱち、と、爆ぜた。
窓の外で、秋の夕空が、スターフォール・アビスの青白い光と、溶け合い、紫と、琥珀色の、複雑で、美しい、色合いに、染まっていた。
ギルド『ステラ・レギア』の、七日目の夜が、静かに、温かく、更けていった。
---
第七話 了




