『銀色の、置き忘れ』
食堂の食卓の上で、踏破くん八号機が、小さな両手で、朝刊の新聞を、几帳面に、四つ折りにしていた。
レオンが、管理人に就任して、六日目。そして、ギルドに踏破くんたちが来て、二日目の朝である。昨夜の時点では十二体だった踏破くんは、今朝、数えたら、なぜか十四体になっていた。「また、増えた」と、ルルは、冷静に、観察日誌に、書き込んでいた。
「——おはよう、みんな」
レオンがスープ鍋を運んでくると、食卓の上で、八体の踏破くんが、一斉に、ちょこん、とお辞儀をした。残りの六体は、それぞれの仕事場——シエラの頭、アイリスの膝、ルルの工具箱、玄関の蜘蛛の巣、洗濯物、中庭——に配備されている。
アイリスは、すでに、食卓についていた。
今朝は、いつもより、少しだけ、顔色が良かった。雨は昨夜のうちに上がり、窓の外は、すっきりと晴れている。
「——レオン」
「はい」
「今日、午後、街に出る」
「お出かけですか」
「組合の、月例の、報告日だ。ギルドマスター全員、出頭義務がある」
「はい」
アイリスは、パンをちぎりながら、淡々と続けた。
「本来は、お前の仕事だ。管理人兼ギルドマスターとして」
「え」
「知らなかったのか」
「聞いてないです」
「セレナ殿が、引き継ぎ書類に、書いていたはずだ」
「叔母さんの、引き継ぎ書類は、半分くらい、『頑張れ』って、走り書きなんです」
「……あの人らしいな」
アイリスは、小さく、苦笑した。
「まあ、いい。初回だから、私が、案内する」
「ありがとうございます」
「組合の、月例報告は、その、ギルドの収支と、直近の活動実績を、提出するだけの、事務的な集まりだ。昼過ぎに着いて、書類を出して、顔を見せれば、二時間で済む」
「事務的なんですね」
「ただし、全ての、ギルドマスターが、集まる」
アイリスの、スプーンが、ほんの一瞬、止まった。
レオンは、気づいたが、気づかないふりをした。
「——『天界の盾』も、出るんですね」
ぽつり、と、訊いた。
アイリスは、パンをちぎる手を、しばらく、止めた。
それから、静かに、答えた。
「——出る」
「はい」
「顔を、合わせるかもしれん」
「はい」
「別に、大したことじゃない」
「はい」
「大したことじゃ、ない」
アイリスは、もう一度、自分に言い聞かせるように、呟いた。
レオンは、スープを、よそい終えて、席についた。
「アイリスさん」
「なんだ」
「一つだけ、いいですか」
「言え」
「顔を、合わせるのが、嫌なら、僕一人で行きます。初回でも、書類の出し方だけ、教えてもらえれば、大丈夫です」
アイリスは、スプーンを、握った手を、少しだけ、強くした。
それから、ゆっくり、首を振った。
「——いい」
「はい」
「行く。私が、お前を、連れていく」
「はい」
「——今日を、避けたら、来月は、もっと、嫌になる」
アイリスは、前を、向いたまま、短く、そう、言った。
レオンは、頷いた。
それ以上、訊かなかった。
---
午後、二時。
ギルドの玄関で、レオンとアイリスは、書類の入った革鞄を抱えて、外出の準備を整えていた。
アイリスは、いつもより、少しだけ、髪を、丁寧に、結い直していた。銀髪の三つ編みは、背中の中ほどまで、きれいに流れている。制服は、さっき、踏破くん四号が、袖のほつれを、縫い直してくれた。
「——いってらっしゃい、お兄ちゃん、アイリスお姉ちゃん」
シエラが、玄関まで、見送りに来てくれた。肩には、踏破くん二体。彼女は、今朝、踏破くんたちに『くらら』『ろしう』と、独自のあだ名を、つけ始めていた。ルルは「合理的では、ない」と、渋い顔をしていたが、止めはしなかった。
「組合で、手間取ったら、夕食、遅くなるかも」
「うん、お留守番する。エレーナお姉ちゃんも、今日は家にいる、って言ってたから」
「エレーナさん、珍しいね」
「なんかね、『今日は、占星台から、面白い星が、見える』って、言ってた」
レオンは、少しだけ、首を傾げた。
エレーナが、街に出ていく日と、家にいる日の判断基準は、未だに、誰にも、分からなかった。けれど、彼女が『面白い星』と言う時、——きっと何かを、見ている時、なのだろう、と、レオンは漠然と感じ始めていた。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい!」
ステラ・レギアの丘を降りて、石畳の坂道を、二人で歩いた。
午後の光は、柔らかかった。街路樹のライムの木が、黄色く色づき始めている。冒険者らしき数人連れが、大きな背嚢を担いで、坂を、登ってくる。迷宮へ、これから向かう、新米たちだった。
「——秋だな」
アイリスが、ぽつりと、言った。
「そうですね」
「街の空気が、冷たくなると、迷宮の浅層の、魔物の動きも、変わる。次の依頼を受ける時、注意しておけ」
「はい」
「一層の、スライムの種類が、冬型に、変わる」
「スライム、種類あるんですね」
「夏型は、酸性。冬型は、寒冷耐性が、上がる代わりに、動きが鈍い」
「勉強になります」
「五浪した、お前より、私の方が、知識がある分野も、あるということだ」
アイリスは、ふん、と、少しだけ、得意げに、鼻を鳴らした。
レオンは、ちょっと、笑った。
アイリスは、今日、少しだけ、饒舌だった。
それが、彼女なりの、気合の入れ方、だったのかもしれない。
---
冒険者組合は、石造りの、がっしりとした建物だった。
大広間には、すでに、いくつかのギルドマスターたちが、集まっていた。
中年の男のギルドマスターが、数名。四十代の女のギルドマスターが、一人。若い、四十にはまだ届かない男のマスターが、二人。——そして、奥の席に、一際、目を引く、純白の制服を着た、三人連れ、の集団が、いた。
純白の制服の、胸元には、翼を広げた、金の紋章。
『天界の盾』。
名門中の、名門ギルド。
レオンの隣で、アイリスが、ほんの少しだけ、息を、深く、吸った。
「——行こう」
彼女は、先に、足を、踏み出した。
組合の受付に、月例の書類を提出する。対応してくれた担当官は、『ステラ・レギア』の名前を聞いて、少しだけ、驚いた顔をした。
「——先月、三十万ルナあった、未払借金が、今月、残り一万五千ルナですか」
「そうだ」
「これは、かなり、の、進捗ですね」
「新任の管理人が、優秀だ」
アイリスは、すっと、レオンを、示した。
担当官が、レオンを見た。レオンは、にっこり笑って、頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「……はい。よろしくお願いします」
担当官は、書類を受理し、承認印を、押した。
事務的な手続きは、それで、終わった。あっけないほどに、すぐ、終わった。
アイリスは、鞄を肩にかけ直して、踵を返そうとした。
——その時、だった。
「——アイリス?」
凛とした、若い、女性の声が、レオンたちの背中に、かかった。
アイリスの足が、ぴたり、と、止まった。
彼女の肩が、一瞬で、強ばった。
レオンは、気づいた。——この声に、アイリスは、『覚えがある』。
ゆっくりと、アイリスが、振り返った。
大広間の、奥の席の方から、『天界の盾』の、白い制服を着た、一人の女性が、こちらに向かって、歩み寄ってきていた。
年の頃は、二十歳前後。波打つ栗毛を、リボンで結い上げ、真鍮の胸当てを、きらりと、光らせている。すらりとした身体。澄んだ、青緑の瞳。顔立ちは、気高く、整っていた。
彼女が近づくにつれ、アイリスの顔から、少しずつ、血の気が、引いていくのが、レオンには、分かった。
けれど、アイリスは、逃げなかった。
「——リーゼ」
アイリスが、かろうじて、相手の名前を、呼んだ。
相手の女性——リーゼは、ぱあ、と、笑顔を、作った。
「やっぱり、アイリスだ! 三年ぶり! 元気だった!?」
「——」
「私のこと、覚えててくれて、嬉しい」
「……当たり前、だろう」
「アイリス、全然、変わってないね。髪も、綺麗なまま」
リーゼは、まっすぐに、アイリスに、近寄ってきた。そして、少しだけ、遠慮がちに、アイリスの肩に、触れようとして——途中で、手を、止めた。
二人の間に、三年の、空白があった。
その空白の中に、何かが、あった。
それを、リーゼは、まだ、越えかねていた。
アイリスは、じっと、リーゼを、見ていた。
そして、ぽつりと、言った。
「——大きく、なったな、お前」
「うん。あれから、毎日、修練してる」
「いい剣士に、なれたか」
「アイリスほど、じゃ、ないよ」
「……そうか」
リーゼは、アイリスの、後ろに立っているレオンに、視線を、移した。
「こちらの方、は?」
「——レオン。ステラ・レギアの、新任の、管理人だ」
「はじめまして、レオンです」
レオンは、丁寧に、頭を下げた。
リーゼは、にっこり、笑った。
「はじめまして。『天界の盾』、剣士のリーゼ・ヴェラントと申します。アイリスの、昔の——」
一瞬、彼女は、言葉を、選んだ。
そして、にっこりと、柔らかく、続けた。
「——後輩、でした」
---
リーゼは、年下の少女だった。けれど、礼儀正しく、落ち着いた、剣士、だった。
「アイリスさん、少しだけ、お時間ありますか」
彼女は、二人に、申し出た。
「組合の向かいに、いいお茶屋があるんです。お茶だけでも、ご一緒させてください」
「——」
アイリスは、短く、迷った。
けれど、レオンの横顔を、ちらり、と、見た。
レオンは、穏やかに、微笑んだ。
「僕は、組合の、掲示板を見に行っていいので、アイリスさんは、お話ししてきてください」
「……」
アイリスは、少し、躊躇った後——頷いた。
「レオン。一時間ほど、時間をくれ」
「はい」
「終わったら、組合の前で、合流する」
「はい」
リーゼが、ぱあ、と、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます、管理人さん。アイリスさんのこと、少しだけ、お借りしますね」
「どうぞ」
アイリスは、レオンを、一瞬、振り返った。
何か、言いたそうな顔だった。
けれど、結局、何も言わずに、リーゼに、従って、組合の扉から出ていった。
レオンは、大広間に、一人、残された。
——アイリスさんが、自分で、決めた。
それで、良かった、と、レオンは思った。
今日、彼女は、過去と、正面から、向き合おうとしている。
それを、自分が、横で、邪魔する理由は、なかった。
---
お茶屋の個室は、静かだった。
窓から、午後の、柔らかい光が、差し込んでいる。テーブルの上には、湯気の立つ、琥珀色のお茶と、蜂蜜漬けのナッツの小皿。
アイリスは、湯気の立つカップを、両手で、包んで、じっと、見下ろしていた。
リーゼは、向かいの席で、優しい目で、彼女を、見ていた。
「——アイリスさん」
「——」
「やっと、会えた」
「……」
「三年、ずっと、探してた」
アイリスの、カップを握る指が、ほんの少しだけ、強くなった。
リーゼは、静かに、続けた。
「あの日、ギルドを、飛び出してから——アイリスさんが、どこで、何をしているか、私、誰にも、聞けなかったの」
「……」
「当時、私は、まだ、銀級になったばかりの、末席の新人で。誰に、どうやって、連絡をつけたらいいか、分からなかった」
「——」
「ユーリスさんが、退任した時も、誰も、アイリスさんの、その後のことは、話してくれなかった」
アイリスは、カップに、視線を落としたまま、答えなかった。
「でも、一年くらい前にね」
リーゼは、穏やかに、続けた。
「組合の、冒険者登録の一覧で、『ステラ・レギア』の名前を、見つけたの」
「——」
「昔のアイリスさんが、話してた、『いつか、いるかもしれない場所』。そこに、アイリスさんの名前が、あった」
「——」
「でも、私、会いに行けなかった」
「……なぜ」
アイリスが、初めて、顔を上げた。
リーゼは、少し、目を伏せた。
「——私に、会いたくない、って、思ってるかも、しれない、と思って」
「——」
「あの時、アイリスさんを、守れなかったのは、私だから」
アイリスは、しばらく、リーゼを、見つめていた。
それから、ゆっくりと、首を、振った。
「——お前が、悪いんじゃ、ない」
「でも」
「——お前に、守られる立場じゃ、なかった、私が。新人の、お前に、守らせようと、した、ギルドの、運営が、悪いんだ」
リーゼの、青緑の瞳が、潤んだ。
「アイリスさん」
「——」
「あのね、私、あの日からずっと、思ってたこと、一つだけ、言ってもいいですか」
「……言え」
リーゼは、一度、息を、吸った。
そして、真っ直ぐに、アイリスを、見た。
「——アイリスさんが、ユーリスさんと、喧嘩して、ギルドを、飛び出したのは」
「——」
「『間違い』じゃ、なかったよ」
アイリスの、息が、止まった。
「——」
「あの時、アイリスさんが、ユーリスさんに、言った言葉——『冒険者の命を、数字で、計算するな』って」
リーゼの瞳から、一筋、涙が、流れた。
「私、あれを、今でも、忘れないの」
「——」
「ユーリスさんが退任したのは、アイリスさんが、飛び出した半年後、だけど——あの人が、辞めた本当の理由は、アイリスさんの、あの言葉、だったと、思ってる」
「——」
「『天界の盾』は、あの日から、少しずつ、変わった」
リーゼは、涙を、そっと、拭った。
「今のマスターのオスローさんは、アイリスさんの、言葉の、意味を、ちゃんと、分かってる人です」
「——」
「だから、今の『天界の盾』は、たぶん、アイリスさんが、あの日、目指していた、ギルドに、近づいている」
アイリスは、唇を、噛んだ。
手のひらの中で、琥珀色のお茶が、揺れた。
「——リーゼ」
「はい」
「——一つだけ、訊いてもいいか」
「なんでも」
アイリスは、目を、伏せた。
「——先生は、私のこと、恨んで、退任したか」
リーゼは、ゆっくりと、首を、振った。
「ユーリスさん、退任の時、私にだけ、一言、言い残していったの」
「——」
「『あの娘は、正しかった。自分が、もっと早く、気づくべきだった』——って」
アイリスの、両目に、一気に、涙が、こみ上げてきた。
けれど、彼女は、それを、こぼさなかった。
ぎゅ、と、目を閉じて、こぼさずに、留めた。
それが、アイリスの、矜持、だった。
「——そうか」
「はい」
「——そうか」
もう一度、彼女は、呟いた。
---
一時間後。
レオンは、組合の前の、石段に腰かけて、掲示板でメモしてきた薬草の、最新の相場を、ノートに書き留めていた。
午後の光が、街路樹のライムの木を、柔らかく、照らしていた。通りを、馬車が、一台、のんびりと、通り過ぎていく。
——アイリスさんが、帰ってくるまで、あと、どれくらい、かな。
と、考えていた、ちょうどその時、石段の向こうから、ゆっくりとした、足音が、聞こえてきた。
振り向くと、アイリスが、一人で、歩いて、戻ってきていた。
リーゼは、いなかった。お茶屋で、別れたのだろう。
アイリスの、目は、少しだけ、赤かった。
頬も、ほんのりと、赤い。けれど、彼女は、泣いては、いなかった。泣かずに、しっかりと、前を見て、歩いていた。
レオンは、立ち上がった。
「——おかえりなさい」
アイリスは、レオンの、前で、立ち止まった。
しばらく、二人は、無言で、向き合っていた。
やがて、アイリスは、ぽつりと、言った。
「——お茶を、飲んできた」
「はい」
「悪くない、茶屋だった」
「はい」
「リーゼは、いい子に、育っていた」
「そうですか」
「——三年前より、ずっと、いい、剣士に、なっていた」
アイリスは、空を、見上げた。
午後の、澄んだ、秋の空だった。
「——レオン」
「はい」
「——少しだけ、寄り道、してもいいか」
「はい。どこへ、ですか」
「——近くの、公園に」
「はい」
二人は、無言で、並んで、歩き始めた。
---
公園は、組合から、歩いて十分ほどの場所に、あった。
木の多い、小さな広場。中央には、古い石造りの、噴水があった。水は、枯れていた。噴水の周りの、石のベンチは、この時間、ほとんど、空いていた。
アイリスは、噴水の縁に、腰を下ろした。
レオンは、少しだけ、距離を置いて、隣に、座った。
しばらく、二人は、無言だった。
木々の葉が、風に、さわさわ、と、揺れる音だけが、聞こえた。
「——ここ」
やがて、アイリスが、ぽつり、と、言った。
「昔、よく、来ていた」
「そうなんですか」
「『天界の盾』の、修練場の、帰り道に。リーゼと、二人で、この噴水の縁に、座って、その日の反省を、した」
「はい」
「師匠が、——ユーリス、先生、と言うんだが」
「はい」
「——先生が、私とリーゼを、この噴水の水で、冷やしてくれたことがあった」
「冷やす?」
「修練で、二人とも、拳を、痛めて、腫らしてな。先生が、ここの噴水の水に、手ぬぐいを、浸して、私たちの手に、巻いてくれた」
アイリスは、自分の、右手を、見下ろした。
銀色の、すらりとした指。指先には、小さな、古い、傷痕が、いくつか、残っていた。
「——先生は、私の師匠で、リーゼの師匠でも、あった」
「はい」
「厳しい人、だった」
「はい」
「けれど、背中を、最後まで、預けられる人、だった」
「はい」
アイリスは、ふう、と、深く、息を、吐いた。
「先生は、三年前の、冬の任務で、亡くなった」
「——」
「ユーリス先生の、死の、直前——『天界の盾』は、大型の、未踏層の探索依頼を、受けた。二十一層」
「はい」
「二十一層は、まだ、誰も、正確な地図を持っていない層だった。当時の『天界の盾』は、銀級以上の精鋭を、先行させて、地図を、作成させる予定、だった」
「はい」
「——けれど、私と先生が、反対した」
「反対」
「『銀級でも、未踏層は、危険すぎる。金級を、最低二人は、同行させるべきだ』と」
アイリスの、指が、少しだけ、震えた。
「当時のマスター、ユーリス先生の、上司に当たる、執行部のアルフレート殿は、これを、却下した」
「却下」
「『探索日数が、伸びれば、ギルドの損失になる。銀級だけでも、地図は作れる』——と」
「——」
「先生は、激怒した」
アイリスは、静かに、続けた。
「『数字で、冒険者の命を、計算するな』——先生が、こう、アルフレート殿に、言った」
「——」
「でも、通らなかった」
「はい」
「結局、銀級のメンバーだけで、二十一層に、入った。——私と、先生も、一緒に」
アイリスは、目を、閉じた。
「先生は、私たちを、連れて、最前列を、担当した。落とし穴、仕掛け、未確認の魔物——ぜんぶ、自分の背中で、受け止めた」
「——」
「先生が、最後の一撃を、受けた時、——私の盾が、間に合わなかった」
「——」
「『アイリス、盾を上げろ』って、先生が、叫んでくれた。私は、上げた。遅かった」
アイリスの声が、少しだけ、震えた。
けれど、彼女は、止めなかった。
「先生は、私の盾の、一瞬手前で、崩れた。魔物の爪が、先生の、肩から、腰まで、斬り下ろした」
「——」
「先生は、最後の、最後に、私に、言った。——『いいか、アイリス。強さとは、攻撃の威力じゃない。味方の背中を、最後まで、預けられることだ』、って」
「——」
「——そして、亡くなった」
レオンは、黙って、聞いていた。
風が、ひと吹き、二人の間を、抜けていった。
噴水の縁の、枯葉が、くるり、と、一枚、舞った。
アイリスは、目を、開けた。
「帰ってから、私は、執行部に、詰め寄った」
「はい」
「『先生の死は、未然に、防げたはずだ』と、——『あの、人員配置は、間違っていた』と」
「はい」
「アルフレート殿は、——私を、黙らせるために、先生の死を、『無謀な突出』として、記録した」
「——」
「『ユーリスは、自分の判断で、突出した。執行部の、責任では、ない』——そう、ギルドの、公式記録に、残された」
「——」
「——私は、それを、認めなかった」
アイリスは、両手を、膝の上で、ぎゅ、と、握った。
「師匠の、最後の言葉は、『お前の盾が、遅かった』ではなかった。『味方の背中を、預けろ』——だった。でも、ギルドの記録では、『ユーリスが、勝手に突出した』と、なっている。——それは、先生の、最後の言葉を、否定することだ」
「——」
「私は、アルフレート殿に、言った。『冒険者の命を、数字で、計算するな』——と」
「はい」
「——半年、喧嘩した」
「半年」
「けれど、通らなかった。アルフレート殿は、執行部の、筆頭で、マスターのユーリス先生は、もう、いなかった。記録は、変わらなかった」
アイリスは、空を、見上げた。
「——私は、ギルドを、辞めた」
「はい」
「荷物も、持たずに、出ていった」
「はい」
「あの日から、三年。——私は、誰の、背中も、信じられずに、いた」
アイリスの、目が、静かに、遠くを、見ていた。
そこには、ユーリス先生の、最後の、背中が、映っていたのかもしれない。
アイリスは、しばらく、黙った。
それから、ふ、と、レオンを、見た。
「——けれど」
「はい」
「——お前は」
アイリスは、ぽつり、と、言った。
「お前は、あの日、雨の玄関先で、——私の、『銀色の誓い』の、ずっと、向こう側に、立っていた」
「——」
「——私の、師匠と、同じ、場所に、立っていた」
レオンは、しばらく、黙っていた。
それから、穏やかに、微笑んだ。
「——アイリスさん」
「なんだ」
「ユーリス先生に、お会いしたことはない、ですけど」
「はい」
「その先生は、きっと——アイリスさんが、今、『ステラ・レギア』に、いることを、喜んでくれてる、と思います」
アイリスは、目を、見開いた。
「——」
「僕、そう、思います」
アイリスは、しばらく、レオンを、見つめていた。
それから——
ぽつり、と、涙が、一粒、落ちた。
今日、彼女が、こぼさずに、留めていた、最後の一粒、だった。
アイリスは、慌てて、それを、袖で、拭った。
「——お前は、ほんとうに、時々、」
「はい」
「——びっくりすることを、言う」
「すみません」
「謝るな」
「はい」
「——もう、一度、私を、泣かせるところだった」
「はい」
「——でも、泣かない」
アイリスは、空を、見上げた。
午後の、澄んだ、秋の空だった。
噴水の縁には、秋の、穏やかな、光が、差していた。
「——先生」
アイリスは、空に、向かって、小さく、呟いた。
「——私は、今、『ステラ・レギア』に、います」
「——」
「借金を、返しています。——ちょっとずつ、ですが」
「——」
「背中を、預けられる、仲間も、いるんです」
彼女は、そっと、微笑んだ。
それから、ゆっくりと、立ち上がった。
「——帰ろう、レオン」
「はい」
「シエラと、ルルが、待っている」
「はい」
「踏破くんたちも」
「はい。——ついでに、たぶん、エレーナさんも」
「——」
アイリスは、ふっ、と、少しだけ、笑った。
「——そう、だったな」
「はい」
二人は、並んで、公園を、出た。
秋の夕暮れが、街並みを、柔らかく、染め始めていた。
---
ギルドに、戻ると、玄関に、シエラが、踏破くんを頭に乗せて、立っていた。彼女の隣には、ルルも、珍しく、煤のない顔で、立っていた。
そして——。
玄関の、扉の、内側、の石段に。
エレーナが、ワインボトル片手に、ガウン姿で、座り込んでいた。
「——おかえり、二人とも」
エレーナは、にやり、と、笑った。
「今日は、ちょっと、遠い星を、見てきたようだね」
アイリスは、目を、瞬いた。
「……エレーナ」
「んん?」
「——なぜ、玄関に?」
「今日は、この場所から、帰ってくる二人を、見るのが、一番、面白い星だったんだよ」
エレーナは、ワインを、一口、啜った。
「アイリス。あんた、少しだけ、顔が、軽くなったね」
「——」
「それは、三年分の、重たい荷物を、一つ、下ろした、顔だ」
アイリスは、しばらく、無言だった。
それから、ぽつりと、言った。
「——エレーナ」
「ん?」
「——私の、師匠の、話を、したな」
「ほう、してきたのか」
「——」
「で、泣いたかい?」
「——一粒、だけ」
「上出来だ」
エレーナは、ふふ、と、笑った。
「覚えときな、アイリス。——泣くのは、一粒、こぼせば、充分なんだよ」
「——」
「こぼせば、少しだけ、軽くなる。それ以上は、こぼさない方がいい。残った分は、まだ、あんたの、大切な、重みだから」
アイリスは、目を、伏せた。
「——そうだな」
「そうだ」
エレーナは、立ち上がった。
ふらりと、足元が、揺れた。酒が、いつもより、少し、回っていたのかもしれなかった。彼女は、アイリスの肩を、ぽん、と、軽く叩いた。
「いい『一日』だった。さ、夕食にしな。あたしも、今日は、食べる気分だ」
「——珍しいな」
「珍しいだろう?」
「うん」
エレーナは、にっこり、笑って、奥の食堂へと、歩いていった。
シエラが、ぱちぱちと、目を瞬いて、アイリスに、駆け寄った。
「アイリスお姉ちゃん、おかえりなさい」
「——ただいま、シエラ」
「お、お姉ちゃん、——もしかして、少し、泣いた?」
シエラの、栗色の瞳が、心配そうに、アイリスを、見上げた。
アイリスは、しばらく、シエラを、見ていた。
それから、ぽん、と、シエラの頭に、手を置いた。
「——泣いてない」
「ほんとう?」
「——」
「泣いたなら、泣いたって、言って、いいよ?」
「——」
アイリスは、また、しばらく、黙った。
それから、ほんの小さな声で、言った。
「——一粒、だけ、泣いた」
シエラは、ぱあ、と、顔を、明るくした。
「それ、すごい、ちょうどいい、泣きかただね、お姉ちゃん!」
「——」
アイリスの、頬が、ほんのり、赤くなった。
ルルが、背後で、ぼそり、と、観察結果を、報告した。
「——データ。アイリス。——目の下、ほんの少し、赤い。帰還時の、肩の張りが、朝よりも、三割、緩んでいる。——心身の、軽さ、検出」
「ルル、観察するな!」
「合理的、な記録、だ」
「ルル、うるさい!」
アイリスが、ぷい、と顔を背けた。
けれど、その口元は、ほんの少しだけ、ほほ笑んで、いた。
レオンは、その光景を、見ていた。
ゆっくりと、微笑んで、そして、玄関を、くぐった。
「——ただいま」
彼は、家の中に、向かって、言った。
「——ただいま、お兄ちゃん! おかえり!」
シエラの、元気な声が、返ってきた。
秋の夕暮れが、ギルド『ステラ・レギア』の、古い石壁を、ほんのりと、橙色に、染めていた。
---
夕食の席は、今夜は、いつもより、少しだけ、にぎやかだった。
エレーナが、いた。
彼女が、夕食の席に、ちゃんと座っているのは、レオンが管理人になってから、初めて、だった。
「——ふむ、これは、美味いねえ、少年」
エレーナは、シチューを、一口啜って、満足そうに、頷いた。
「普通に、美味い。——奇をてらわず、素材の味を、殺さず、塩梅が、上手い」
「ありがとうございます」
「料理、誰に、習った?」
「五浪中の、下宿のおばさん」
「ほう。その、おばさんに、感謝だねえ」
「はい」
「あたし、気に入った。あんたの料理」
「ありがとうございます」
「今度から、夕食の日に、出たら、ここで、食べるよ」
「毎日、どうぞ」
「毎日は、無理だ。酒場の、友達との、約束も、ある」
「そうですか」
「でも、——週に、三日くらいは、出てやる」
「ありがとうございます」
アイリスは、その会話を、黙って、聞きながら、パンを、ちぎっていた。
膝の上には、今日も、踏破くんが、一体、乗っていた。——今日の踏破くんは、いつもより、ちょっと、アイリスに、くっついているような、気がした。まるで、主人の、今日の、心の軽さを、察知しているみたいに。
食卓の真ん中には、デザートに、焼き林檎の、蜂蜜がけが、並んでいた。
シエラが、大きなスプーンで、一口、ぱくり、と、食べて、「うんまい!」と、声を上げた。
「——お兄ちゃん、今日のお兄ちゃん、お料理、とっても、美味しいね!」
「ありがとう、シエラちゃん」
「お姉ちゃんも、食べた?」
「——食べた」
アイリスは、短く、答えた。
「どう?」
「——美味い」
アイリスは、顔を、上げて、レオンを見た。そして、ほんの少しだけ、笑った。
「——今日のは、とくに、美味い」
「——」
レオンは、にっこり、笑い返した。
アイリスの、隣のシエラが、そのやり取りを、きょとん、と、見ていた。それから、ちょっと、顔を赤くして、目を、逸らした。
ルルが、ぼそり、と、観察結果を、報告した。
「——データ。アイリス。——本日の、味覚評価値、三日間の、平均値より、十五パーセント、上昇」
「ルル、だから、観察するな!」
「食卓の、総合満足度、過去最高」
「だから——!」
「——合理的、な、結果、だ」
エレーナが、ワインを、ひと飲みして、にやり、と、笑った。
「——ほんとに、ルルの言う通りだねえ。——今日のステラ・レギアは、いい、空気、だ」
食堂の、暖炉の火が、ぱち、と、小さく爆ぜた。
踏破くんたちが、食卓の周りで、ちょこちょこと、働いていた。
窓の外で、秋の夕陽が、スターフォール・アビスの青白い光と、重なって、紫と橙の、美しいグラデーションを、空に描いていた。
ギルド『ステラ・レギア』の、六日目の夜は、静かに、温かく、ふけていった。
---
夜。
レオンが自分の部屋に、戻ったとき、ドアを、こん、こん、と、軽く、叩く音がした。
「——どうぞ」
ドアが、そろりと開いて、アイリスが、顔を出した。
手には、小さな、漆塗りの、箱が。
「——少し、いいか」
「はい」
アイリスは、入ってきて、ドアを、静かに閉めた。そして、レオンの、ベッドの端の、少し離れたところに、立った。
「——ありがとう」
彼女は、ぽつりと、言った。
「今日」
「はい」
「——お前が、公園で、私の話を、黙って、聞いてくれたこと」
「——」
「——泣かずに、済んだのは、お前が、隣に、いてくれたから、だ」
「——」
「——これは」
アイリスは、漆塗りの箱を、そっと、両手で、差し出した。
「——受け取ってほしい」
「——」
レオンは、箱を、受け取った。ゆっくり、開けた。
中には——
小さな、銀色の、お守りが、入っていた。
翼を広げた、金の紋章。『天界の盾』の、紋章、だった。
「——これは」
「——私が、ユーリス先生から、最後に、頂いたものだ」
アイリスは、静かに、言った。
「——先生が、亡くなる、一週間前。誕生日だった私に、『お前の、銀色の誓いに』、と、渡してくれた」
「——」
「——これを、持ち続けて、三年。ずっと、私の、肌身から、離さなかった」
「——」
「——けれど、今日、リーゼと、お茶を、飲んで、思った」
アイリスは、ほんの少しだけ、目を、伏せた。
「——これを、ずっと、私一人で、持っていることが、先生への、償いのように、思っていた」
「——」
「——違う、と、気づいた」
「——」
「先生が、願ってくださったのは——私が、『銀色の誓い』を、誰かに、預けて、仲間と、支え合うこと、だった」
「——」
アイリスは、レオンを、まっすぐに、見た。
「レオン。——あの日の、雨の、玄関先から、——私は、あなたに、背中を、預けられる、と、思った」
「——」
「——どうか、受け取ってほしい」
レオンは、しばらく、沈黙した。
手のひらの中で、銀色のお守りが、温かく、輝いていた。
「——アイリスさん」
「はい」
「——ありがとうございます」
「——」
「——大事に、します」
「——うむ」
アイリスは、短く、頷いた。
それから、ぷい、と、顔を背けた。
「——勘違いするな」
「はい」
「——これは、別に、特別な、意味では、ない」
「はい」
「——管理人兼、ギルドマスターに、——剣士として、挨拶したまでだ」
「はい」
「——それと」
「はい」
「——明日から、お前を、剣士『レオン・ヴェスパー』として、扱う」
「——え、姓、くれるんですか」
「——先生が、私に、くれた、ものだ。——お前には、名字が、なかったな」
「はい」
「——『ヴェスパー』、は、古い、西の言葉で、『夜明けの星』、という意味だ」
「——」
「——お前は、ギルドの、夜明けの星、だ」
アイリスは、ぷい、と顔を背けたまま、早口で、言った。
頬が、真っ赤だった。
レオンは、しばらく、アイリスを、見ていた。
それから、深々と、頭を下げた。
「——光栄です。大事に、持たせていただきます」
「——」
「——『銀色の誓い』、胸に、仕舞います」
アイリスは、振り返って、レオンを、一瞬、見た。
それから、小さく、頷いた。
「——では、おやすみ、レオン」
「おやすみなさい、アイリスさん」
アイリスは、ドアを、静かに、閉めて、去っていった。
レオンは、手のひらの中の、銀色のお守りを、しばらく、見つめた。
それから、胸元の、古びた、円環のお守り——幼い日、顔のぼやけた少女から、貰ったもの——と、並べて、そっと、内ポケットに、しまった。
二つのお守りは、微かに、触れ合って、金属の、静かな、音を立てた。
——『帰りたくなる家』に、また一つ、大切なものが、増えた。
レオンは、窓の外の、秋の夜空を、見上げた。
スターフォール・アビスの、青白い光が、夜空に、静かに、映っていた。
その深い底に、いつか、辿り着く日まで——
今日、ここで、積み重ねていく、この日々を、ちゃんと、守っていこう。
レオンは、そう、静かに、誓った。
---
第六話 了




