『肉壁と、銀の誓い』
雨で、始まった。
窓の格子の外、庭のアザミが、重たい雨粒を頭に乗せて、うなだれている。灰色の空の向こう、スターフォール・アビスの青白い光が、いつもより少しぼやけて見えた。
レオンは、食堂の窓辺で、外を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「……今日は、洗濯、難しいかな」
「外で干すのを、諦める天気、だ」
隣に、いつの間にか、ルルが立っていた。
煤だらけの顔に、今朝は珍しく、煤がついていない。シエラに叱られ続けた成果か、最近の彼女は、食堂に来る前に、ちゃんと顔を洗っている。
「おはよう、ルルちゃん」
「おはよう、マスター。雨音のリズム、不規則。今日の工房作業、環境音としては、落ち着く」
「それはよかった」
「踏破くん三号機の、起動テストに、向いている」
「あの、ルルちゃん」
「なんだ」
「その三号機、爆発、するやつ?」
「爆発は、想定の範囲内だ」
「うん、つまりするってことだね」
ルルは、ふん、と鼻を鳴らして、食卓の一番端の席についた。レオンは、苦笑しながら、朝食の仕上げに戻った。
食堂のテーブルには、今朝は、四人分の温かい朝食が、並んでいる。
オートミールを、ミルクと少しの蜂蜜で煮たもの。昨日街で買ってきた黒パンを、薄切りにして軽く炙ったもの。それから、デザートに、昨日残しておいた甘いパンの、最後の一切れ——シエラが小さな声で「お昼に食べる」と取っておいた分の、半分だ。
「——おはよう」
階段から、アイリスが降りてきた。
今朝は寝癖がない。髪をきちんと結って、純白の制服を着ている。ただ、顔色は、ほんの少し、いつもより白い気がした。
「——アイリスさん、おはようございます。体調、大丈夫ですか?」
「ん?」
「顔が、ちょっと白いかな、って」
アイリスは、ぴた、と足を止めて、自分の頬に手を当てた。
「……雨の日は、魔力が少し重くなる。私の体質だ」
「重くなる?」
「水の気が、空気中に多いと、火の気を扱う魔法は、発動しにくい。体の中で、火と水がぶつかる」
「ああ、なるほど」
「……気にするな。朝食を食べれば、治る」
アイリスは、ぶっきらぼうに言って、席についた。
レオンは、オートミールの器を、そっと彼女の前に置いた。蜂蜜の香りが、ふわりと立つ。
「これ、温かいうちに、どうぞ」
「……ああ」
アイリスは、器を受け取った。
そして、一口目を、ゆっくりと、口に運んだ。
「……甘い」
「はい」
「お前、蜂蜜、昨日買い過ぎてないか」
「アイリスさんが好きそうだったから、もう一瓶」
「——」
アイリスの耳の先が、ほんのり、赤くなった。
彼女は、ぷい、と視線を器に落として、黙って食べ始めた。
少し遅れて、シエラが、階段を降りてきた。今朝は自分できっちり三つ編みを結い直していて、「おはよう、お兄ちゃん!」と、昨日よりずっと元気な声で、挨拶してきた。
一昨日、迷宮で上位守護精霊を召喚できた——その成功体験は、彼女の背筋を、少しだけ、伸ばしてくれていた。
「今日は、何のお手伝いをすればいい?」
「雨だから、外の仕事が、ちょっと無理でね。中の掃除を、三階まで進めようかと思ってる」
「うん、やる!」
シエラが、ぐっ、と拳を握った。
食堂に、穏やかな朝の時間が、流れた。
窓の外で、雨音が、少しずつ、強くなっていった。
---
午前中。
三階の廊下を掃除していると、階下から、ばたばた、と足音が、聞こえてきた。
「——レオン! 管理人、いるか!」
アイリスの声だった。
声の調子が、いつもと違う。緊張を、強く含んでいた。
レオンは、箒を壁に立てかけて、階段を駆け降りた。シエラが、慌ててついてくる。
一階のホールで、アイリスが、窓の外を指差していた。
「門のところに、男が、五人」
「——」
「こちらを、見ている。笠を目深にかぶっているが、武装している」
レオンは、窓に近寄って、目を凝らした。
雨の中、門の前の道に、黒い外套を着た男たちが、確かに、立っていた。
五人。全員が、大振りの外套で、武器を隠している。けれど、腰のあたりが、ごつく膨らんでいるのが見える。剣か、斧か、それとも——弩か。
先頭に立っている男は、特に大柄だった。身の丈は、優に二メートルを超えている。外套越しにも、その筋肉の盛り上がりが分かった。
「……借金取り、じゃ、なさそうですね」
レオンは、呟いた。
「前に来た連中は、もっと、雑だった。今日のあれは——もっと、場数を踏んだ連中だ」
アイリスが、低く、答えた。
「名の通った、傭兵崩れか、——闇ギルドの、まともな実働員か」
「闇ギルド」
「前にも、刺したような奴らがいた、というのは、セレナ殿から、引き継ぎを受けている」
アイリスは、腰の剣の柄に、手をかけた。
その時、門の外の男たちの先頭——大柄な男が、ゆっくりと、歩き出した。
雨の中を、傘も差さずに、真っ直ぐ、ギルドの玄関へ向かってくる。
「——シエラ。二階に上がってろ」
アイリスが、低く言った。
「え、でも——」
「いい。レオンと私で、対応する。お前は、万一の時に備えて、精霊の召喚の準備をしておけ」
「……はい」
シエラは、ぎゅ、と拳を握って、階段を駆け上がった。
——途中で、一度だけ、振り返った。
レオンの目を、じっと、見た。
「——お兄ちゃん、心の中で、呟くから」
「うん」
「いっぱい、呟くから」
「うん。ありがとう」
シエラは、頷いて、二階に消えた。
レオンは、アイリスを見た。アイリスは、少しだけ、笑った。
「——いい子に、育ったな、シエラは」
「はい」
「……行くぞ」
玄関の扉が、重く、叩かれた。
---
「——ステラ・レギア、管理人殿」
玄関を開けた向こうに、大柄な男が、立っていた。
外套の頭巾を、後ろに払う。現れたのは、四十絡みの、顔に古い刀傷の走った男だった。鋭い目。黒々とした髭。耳には、鉄の輪が三つ。
「俺は、バドル。通り名は、『鉄槌のバドル』と言えば、分かる奴には分かる」
男は、ゆっくりと、頭を下げた。
礼儀正しい、ように見えた。
けれど、その目の奥には、冷たい火が、ちろちろ、と燃えていた。
「御用件は」
アイリスが、レオンの一歩前に、進み出た。剣の柄に手をかけたままだった。
バドルの視線が、アイリスを、じろりと舐めた。
「……おお。これはこれは、『紅蓮のアイリス』殿ではないか」
「知っているのか」
「三年前の、『天界の盾』時代を知らぬ者は、この街には、おらぬ」
アイリスの肩が、ほんの一瞬、強ばった。
バドルは、にやり、と笑った。
「『稼ぎ頭』が、こんなボロ屋に、まだいるとはなあ」
「用件を、言え」
「すぐ、済む話だ」
バドルは、懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。
「先日、ここの借金取りに、ご立派な『肉壁』をお披露目してくださったそうでな。俺の可愛い部下どもが、地面に転がされた」
レオンが、小さく、眉を動かした。
「ああ、あの時の」
「あの時の、だ」
バドルは、羊皮紙を、ひらり、と揺らした。
「——で、こちらの借用書。あれは、元々、俺が、前の管理人殿に貸したものだ。残りの借金、一万五千ルナ。これは、まあ、いい」
「——」
「今日は、別件で、参上した」
雨が、彼の肩を、濡らしていた。けれど、バドルは、微動だにしなかった。
「こちらの、雇用契約だ」
そう言って、羊皮紙を、ぴら、と広げてみせた。
墨で書かれた契約書だった。達筆だが、どこか歪な書体。そして、契約書の末尾に、『白銀の姫』と書かれた、署名欄。
レオンは、その『白銀の姫』の四文字を、じっと見た。それから、アイリスの横顔を見た。
アイリスの顔から、血の気が、引いていた。
「——どういう、つもりだ」
アイリスが、絞り出すように、言った。
バドルは、にやにやと、笑っていた。
「三年前、嬢ちゃんが『天界の盾』を、喧嘩別れで飛び出した時——処理されなかった、『移籍違約金』が、残っていてな」
「……」
「天界の盾から、俺の元に、債権が、流れた。闇の市場では、よくある話だ」
「——」
「金額は、八十万ルナ。嬢ちゃんの、三年前のランクでの、相場だ」
「八十万」
アイリスが、掠れた声で、繰り返した。
「そう」
バドルは、契約書を、軽く叩いた。
「このギルドの、残り借金一万五千ルナ。そして、嬢ちゃん自身の、八十万ルナ。合わせて——ざっと、百万ルナ」
レオンは、静かに、バドルを見ていた。
「払えなければ、どうしろと」
「嬢ちゃんの身柄を、俺のギルドに、移籍してもらう」
バドルは、にやり、と、笑った。
「『天界の盾』も、『ステラ・レギア』も、紅蓮のアイリスの本当の価値を、分かっちゃいねえ。俺のところなら、もっと、色々な使い道が、ある」
「——」
「嬢ちゃん。あんた、このボロギルドで、一生を終える気か?」
---
雨音が、急に、大きく感じられた。
アイリスの、剣を握る手が、震えていた。
怒りか、恐れか、あるいは、両方か——レオンには、すぐには、分からなかった。
けれど、アイリスが、何かを、言いかけた瞬間。
レオンが、先に、口を開いた。
「——バドルさん」
「ん?」
「その契約書、見せてもらっていいですか」
バドルは、少し、意外そうな顔をした。
「見せても、あんたに読めるのか?」
「五浪しました」
「……何の?」
「冒険者試験です。薬師試験も、錬金術師試験も、魔道具整備士試験も、全部、落ちました。契約法の基礎も、一応、かじってます」
「——」
「見せてください」
バドルは、しばらく、レオンの顔を、じっと見た。
それから、ひょい、と、契約書を、レオンに、差し出した。
「——面白いな、管理人殿。いいぜ、読んでみろ」
レオンは、雨に濡れないよう、軒下で、契約書を広げた。
達筆だが、歪な書体。内容は、確かに、『天界の盾』から、バドル率いる『鉄槌の牙』という組織への、債権譲渡契約だった。譲渡日付は、一年前。金額、八十万ルナ。対象は、元『天界の盾』所属、銀級冒険者アイリス・エスフィアの、『移籍違約金』。
——一行ずつ、レオンは、丁寧に、読んだ。
そして、末尾の、『白銀の姫』の署名の横の、小さな一文に、目を止めた。
「——これ」
「なんだ」
「『天界の盾、ギルドマスター直筆、認可印』とあります」
「ああ、それが、なんだ」
「アイリスさん」
レオンは、顔を上げずに、静かに、訊いた。
「アイリスさんが『天界の盾』を抜けた時、ギルドマスターは、誰でした?」
アイリスは、一瞬、戸惑った顔をした。
それから、訝しげに、答えた。
「——三年前は、ユーリス殿。私が抜けた後、半年で、別の方に交代したと聞いている。今は、オスロー殿のはずだ」
「このマスターの認可印、三年前のユーリス様のものですか?」
「——」
アイリスが、契約書を、横から覗き込んだ。
そして、眉を、ひそめた。
「……違う。これは、オスロー殿の印だ」
「つまり、一年前の、譲渡当時のマスターの印、ということですね」
「……ああ」
レオンは、顔を上げて、バドルを見た。
「バドルさん」
「なんだ、管理人殿」
「この契約、譲渡対象が『アイリス・エスフィアの移籍違約金債権』になっていますが」
「ああ、そうだ」
「『移籍違約金』は、三年前、アイリスさんが『天界の盾』を離れた時点で、発生するものですよね」
「そうだろうな」
「でも、三年前の時点で、ギルドマスターのユーリス様が、違約金を請求していないんです。アイリスさんは、『喧嘩別れで飛び出した』と、バドルさんは仰ってましたが、それでも、正式な違約金の請求書は、アイリスさんのところに、届いてないはずです」
「……届いてない」
アイリスが、小さく、呟いた。
「——そうだ。私は、『天界の盾』を抜けた時、何の書類も、受け取らなかった」
レオンは、頷いた。
「商法二十三条。違約金債権は、発生から一年以内に、債務者に対する正式な請求が行われない場合、『時効不完全債権』として、譲渡の効力が失われます」
「……」
「この契約書の譲渡日付は、アイリスさんが『天界の盾』を抜けてから、二年後です。つまり——」
レオンは、にっこり、笑った。
「この契約書、法的には、無効です」
雨音が、少し、静かになった気がした。
バドルの笑みが、凍り付いていた。
---
「——面白い、管理人だな」
バドルの声が、少しだけ、低くなった。
「そんな、薬師試験に五回落ちた男が、商法を諳んじるのか」
「勉強は、落ちた分だけ、してますから」
「——けっ」
バドルは、契約書を、レオンの手から、ひったくった。
そして、ぐしゃ、と、それを握り潰した。
「俺は、まあ、法律屋じゃない。だが、覚えとけ、管理人」
「はい」
「こちとら、法律で動く連中じゃあ、ないんだ」
バドルの外套が、はらりと、開いた。
内側に、三本の投げナイフと、鈍く光る鉄の棍棒が、見えた。
「——ならば」
アイリスが、剣を、鞘から抜いた。
赤い光が、刃に、灯る。
「力尽くで、処理する気か」
「まあ、それが、俺たちの流儀だな」
バドルの目が、一瞬、アイリスの後ろのレオンに、流れた。
「——そうだな、嬢ちゃん。俺は、あんたの身柄を、無理やり連れていくつもりは、ない」
「——」
「そこの、『肉壁』くん」
バドルの視線が、レオンに、真っ直ぐ、向いた。
「あんたが、俺と、三十秒、戦って立っていられたら——俺は、今日のところは、引き下がろう」
「——」
「あんたが、三十秒以内に、倒れたら——嬢ちゃんは、俺と一緒に来る。これは、男と男の、賭けだ」
レオンは、バドルの目を、見返した。
「アイリスさんに、触れないって、約束してくれますか」
「約束しよう」
「分かりました」
「待て、レオン——」
アイリスが、手を伸ばしかけた。
レオンは、軽く、彼女の手を、横にずらした。
「アイリスさん」
「なんだ」
「これは、雨のギルドの、玄関先での話です」
「——」
「誰の身柄も、売り飛ばす契約じゃ、ない」
レオンは、振り返らずに、告げた。
「肉壁の、仕事です」
---
バドルの、三十秒。
それは、レオンが、今まで受けた、どの攻撃よりも、重かった。
一撃目——腰のあたりから、鉄の棍棒が、横に薙いだ。
軽々と振るわれた棍棒が、レオンの脇腹に、炸裂した。ごずん、と、鈍い音が、体の中で、響いた。肋骨が、三本、確実に、砕けた。
レオンは、吹き飛んだ。玄関ホールの、石畳の上を、三メートルほど、転がった。
「——レオン!」
アイリスの叫び声が、遠く、聞こえた。
レオンは、歯を食いしばって、上体を、起こした。
——一回、倒れた。
耳の奥で、シエラの、声が、響いた気がした。
『いっかい、がんばれる』
レオンは、ゆっくり、立ち上がった。
「——ほう」
バドルが、にやり、と笑った。
「一発は、耐えるか」
二撃目——投げナイフ。バドルの腰から、三本の刃が、同時に、飛んできた。
避けられなかった。
肩、腕、太もも——三か所に、刃が、突き立った。血が、噴いた。
レオンは、また、膝をついた。片膝だけ、つけたが、倒れなかった。
——二回、倒れかけた。
『にかい、がんばれる』
シエラの声が、また、聞こえた。
レオンは、太ももに刺さったナイフを、自分で、引き抜いた。血が、どっ、と、床に、溢れた。
「——まだ、立ってるか」
バドルが、鉄の棍棒を、肩に担ぎ直した。
「見かけ倒しの、体だな。やはり、大したことはない」
「でも」
レオンは、血まみれの顔で、笑った。
「まだ、立ってます」
「——」
バドルは、肩の棍棒を、握り直した。
そして、今度は、突進してきた。
巨体が、雨の中を、まっすぐに、駆けてくる。棍棒を、両手で構え——全力の、振り下ろし。
これは、骨を砕く一撃ではない。
頭蓋を砕く、殺意の一撃だった。
「レオン——!」
アイリスが、剣を構えかけた。
けれど、雨の日。体内の火と水が、ぶつかる。彼女の詠唱は、半拍、遅い。
間に合わない。
——と、思った、その時。
二階の窓から、銀色の魔法陣が、吹き抜けのホールに、ゆっくりと、咲いた。
「——!」
シエラの声だった。
「——守護の、白狼さま——!」
白い狼が、魔法陣から、一足跳びに、顕現した。
そして、バドルの振り下ろしの軌道に、その気高い体を、割り込ませた。
棍棒が、白狼の肩に、命中した。
白狼の体が、光の粒になって、消えた。
——シエラの、防衛召喚。
相手の致命打を、精霊の消滅と引き換えに、一度だけ、肩代わりさせる、上位技術。
バドルの棍棒が、空を切った。体勢が、ほんの一瞬、崩れた。
「——今、だ!」
アイリスの、詠唱が、間に合った。
「——紅蓮の、剣星!」
赤い光が、バドルの胸元に、直撃した。
巨体が、玄関の石畳から、後ろへ——雨の中へ——吹き飛ばされた。
バドルは、門柱に、背中から、ぶつかった。
ずる、と、ずり落ちる。
意識は、ある。けれど、すぐには、立ち上がれない。
「——三十秒」
レオンは、血まみれの顔で、にっこり、笑った。
「まだ、僕、立ってます」
バドルは、雨の中で、呻いていた。
---
バドルの部下の四人は、親玉が吹き飛ばされるのを見て、腰の武器に手をかけた。
けれど——それを、止める、もう一つの声が、あった。
「——そこまでに、しておきなさいな」
玄関の、奥の廊下から、気だるげな、女性の声が、聞こえてきた。
レオンが、振り返る。
そこには、長い黒髪を、無造作に垂らした、一人の女性が、立っていた。
ガウン姿。片手に、ワインボトル。そして、もう片方の手で——小さな、水晶玉を、持っていた。
「今日の、星読みでね」
女性は、眠そうな目で、ふわ、と、欠伸をした。
「——『鉄槌のバドル』が、雨の日に、大怪我をして、三年、仕事を干される、と出ていたのよ」
「——あんたは、誰だ」
バドルが、呻きながら、顔を上げた。
女性は、気だるげに、笑った。
「占星術師、エレーナ。このギルドの、居候」
「——占星、術師」
「『鉄槌』の名と、傷の場所まで、一致したから、さすがに、出てこなきゃと思ってね。——あたし、当たりすぎる占いを、人に言いふらすのが、嫌いなんだ。けどまあ、仕方ない、今日は例外だ」
エレーナは、水晶玉を、軽く、揺らした。
「あんたの仲間、四人ね。そのうち二人は、北の酒場『赤鳥亭』に、借金がある。一人は、西の宿屋の娘に、養育費を踏み倒している。一人は、先週、組合に通報されそうになったのを、ギリギリで揉み消したばかり——」
「——っ!?」
バドルの部下たちの顔が、さあ、と、蒼白になった。
「どれも、組合に報告すれば、一発で、冒険者資格剥奪の案件だよ」
エレーナは、にこやかに、続けた。
「——さて、諸君、いかがする?」
玄関の前の、雨の中で、五人の男たちは、動かなくなった。
やがて、バドルが、呻きながら、立ち上がった。
「——撤収、だ」
「兄貴、でも」
「耳を貸すな。今日は、俺の負けだ」
バドルは、血の混じった唾を、雨の中に、吐いた。
そして、レオンを、じろりと、見た。
「——管理人殿」
「はい」
「覚えとけ」
「はい」
「——今日、あんたは、肉壁として、よく立っていた」
それだけ言って、バドルは、部下を連れて、雨の中を、踵を返した。
レオンは、血まみれの体で、バドルの背中を、見送った。
肩の刃傷が、肋骨の砕けが、じゅう、じゅう、と、音を立てて、再生していく。
---
「——無茶、するな」
アイリスが、剣を収めながら、低く、言った。
声が、少しだけ、震えていた。
「三十秒、立つとか、何を、考えてる」
「ちゃんと、立てましたよ」
「そういう問題じゃない、馬鹿」
アイリスは、ふらり、と、レオンの横に、歩み寄ってきた。そして、両手で、レオンの肩を、ぐっ、と、掴んだ。血まみれの肩だった。構わずに、強く、掴んだ。
「お前が、消えたら、どうする」
「消えません」
「消えるかもしれん」
「消えたら、ごめんなさい」
「——謝るな」
「はい」
「もう、あんな賭けは、受けるな」
「考えておきます」
「考えなくていい、『はい』と、言え」
「——」
レオンは、ちょっと、笑った。
「はい」
アイリスは、肩を掴んだまま、しばらく、俯いていた。
彼女の銀髪から、雨粒が、ぽた、と、落ちた。
その滴が、レオンの血まみれの胸元に、透明な染みを、作った。
やがて、アイリスは、顔を上げた。
「——レオン」
「はい」
「お前、さっき、契約書の話をした時」
「はい」
「『雨のギルドの、玄関先での話です』と、言ったな」
「はい」
「『誰の身柄も、売り飛ばす契約じゃない』と」
「はい」
「——」
アイリスの瞳が、ほんのり、潤んでいた。
雨のせい、かもしれなかった。
「——ありがとう」
「いえ」
「——本当に、ありがとう」
「いえ」
アイリスは、もう一度、ぎゅ、と、肩を掴んだ。
それから、ぱっ、と、手を離した。
「——血まみれだ、お前。風呂に入れ。シエラに傷の手当を手伝わせろ」
「はい」
「湯、沸かしてやる」
「ありがとうございます」
「——別に、お前のためじゃない」
「はい」
「血の匂いが、玄関に、漂っているのが、嫌なだけだ」
「はい」
アイリスは、ぷい、と、顔を背けて、奥の階段へ、歩き去った。
耳の先が、真っ赤だった。
---
二階から、シエラが、駆け降りてきた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん、お兄ちゃんっ——!」
そして、レオンの腰のあたりに、思い切り、体当たりした。血まみれの体に、小さな体を、ぎゅ、と、押し付けた。
「——うぇ、うぇえん、怖かった、怖かったよぉ、お兄ちゃん」
「ごめんね、シエラちゃん」
「あ、あ、あの、白狼さま、出したの、見えた?」
「見えたよ。ありがとう。助かった」
「う、うん、今度は、うまく、出せたよ、ね?」
「大成功だった」
シエラは、ぐしゃ、と、顔を歪ませて、泣き笑いをした。
「よ、よかった、です、お兄ちゃん、よかったぁ」
レオンは、血まみれの手で、シエラの頭を、優しく、撫でた。
「——あと、心で、呟いてくれた?」
「うん」
「いくつ?」
「いっかい、と、にかい、まで、ちゃんと、呟いた」
「三回目は?」
「——」
シエラは、しばらく、黙った。
それから、小さな声で、白状した。
「三回目は、呟くより、先に、飛び出しちゃった、から」
「そうか」
「ごめんね、お兄ちゃん、ルール、破っちゃった」
「シエラちゃん」
「はい」
「それは、破っていいルールだよ」
レオンは、にっこり、笑った。
シエラは、もう一度、ぐしゃ、と、顔を歪ませて、笑った。
---
少し離れたところから、エレーナが、ワインボトル片手に、その光景を、眺めていた。
彼女は、薄く笑って、ぽつりと、呟いた。
「——ふむ。役者は、揃ってきたねえ」
「エレーナさん」
レオンが、振り返った。
「あ、ようやく、ちゃんと自己紹介だな、少年」
「助かりました。ありがとうございます」
「ああ、あんたが風呂に入った後、ゆっくり話そうよ。あたし、今朝、あんたの話を、ようやく、ちゃんと、聞く気になったんだ」
「ちゃんと、聞く気、ですか?」
「三日間、寝てたからね」
エレーナは、にやりと、笑った。
「新しい管理人、しかも、死なない男、——星が、妙なざわめき方をしててね。ゆっくり、見定めるのに、三日、かかったってとこさ」
「——」
「まあ、今日の一件で、だいぶ、見えた」
エレーナは、水晶玉を、ガウンの懐に、しまった。
「あんた、少なくとも、このギルドを、『売る』側の人間じゃ、ないね」
「——」
「嬢ちゃんと、その小さいのと、一緒に、『残る』側の人間だ」
彼女は、そう言って、ゆっくりと、ギルドの奥へ、歩き去ろうとした。
途中で、一度だけ、肩越しに、振り返った。
「——少年」
「はい」
「肉壁、立派だったよ」
「ありがとうございます」
「ただ」
「はい」
「立ち続けるだけの肉壁は、いつか、誰かを、泣かせる」
「——」
「覚えときな」
そう言って、彼女は、奥の廊下へ、ふらりと、消えた。
ワインの匂いだけが、あとに、残った。
---
その夜。
風呂から上がり、シエラに手当てという名の「絆創膏をぺたぺた貼る遊び」をしてもらった後——傷は、既に、全部ふさがっていたけれど——レオンは、自分の部屋の、ベッドの縁に、座っていた。
胸元の、古びたお守りを、取り出す。
夢の中の、顔のぼやけた少女。
「——今日は、少し、怖かったよ」
レオンは、ぽつり、と、お守りに、話しかけた。
「でも、ちゃんと、立ってた」
三十秒、という、バドルの、あの賭け。
——最後まで、本当に、三十秒で、終わる賭けだったのか、レオンには、自信がなかった。
もし、あそこで、白狼の防衛召喚が、間に合わなかったら。
もし、アイリスの『紅蓮剣星』が、雨で詠唱が乱れていたら。
もし、エレーナが、奥の廊下から、出てこなかったら。
——自分の『絶対生存』の、再生の速度が、追いつかないほどの、連打を受けたら、どうなるのか。
正直、レオンは、自分の体のことを、完全には、把握していない。
今までは、運良く、再生が追いついた。
でも、いつか、追いつかなくなる日が、来るかもしれない。
その時——。
「——ねえ」
レオンは、お守りに、小さく、問いかけた。
「君との約束、叶えるまで、僕、ちゃんと、生きていられるかな」
もちろん、返事は、なかった。
ただ、古びた金属が、彼の手のひらの中で、ほんのり、温かかった。
——ドアを、軽く、叩く音が、した。
「——お兄ちゃん、入って、いい?」
シエラの声だった。
「うん、いいよ」
ドアが、そろり、と開いた。
シエラが、湯上がりの頬を、ほんのり染めて、トレイを持って、立っていた。湯気の立つ、蜂蜜を入れたホットミルクが、二つ、乗っている。
「もう、眠る前だけど、あったかい、飲み物、よかったら」
「ありがとう」
「アイリスお姉ちゃん、ちょっと前まで、ここの扉の前、行ったり来たりしてた」
「え、そうなの?」
「『入っていいか、悩んで、入らずに、戻って』を、二回、して、三回目で、諦めて、部屋に戻ってた」
シエラは、ぴょこん、と小首を傾げて、笑った。
「お兄ちゃんのこと、心配してたんだよ、きっと」
「……次に会ったら、ちゃんと、元気です、って、言うよ」
「うん、それ、きっと、言ってあげた方が、いいと思う」
シエラは、トレイを、ベッドの横の小さなテーブルに置いた。
それから、ちょっと、もじもじした。
「——あのね、お兄ちゃん」
「うん?」
「今日、お兄ちゃんが、庇ってくれた時、——」
「うん」
「シエラ、ね、こわかった。でも、『逃げる』って、一度も、考えなかった」
「——」
「それ、シエラにとって、初めてのこと、だったから」
レオンは、目を、瞬いた。
シエラは、両手を、きゅ、と、胸の前で握った。
「お兄ちゃんが、立ってるから、シエラも、立てた。ありがとう、お兄ちゃん」
「——うん」
レオンは、静かに、頷いた。
「僕の方こそ、シエラちゃんが、呟いてくれたから、立てたよ。ありがとう」
シエラは、にこ、と笑った。
それから、ぴょん、と、ドアの方へ駆けて、振り返って——
「——おやすみなさい、お兄ちゃん!」
「おやすみ、シエラちゃん」
ドアが、ぱたん、と閉まった。
部屋に、ホットミルクの、蜂蜜の匂いが、ふわりと、残った。
---
窓の外で、雨は、まだ、降り続いていた。
スターフォール・アビスの青白い光も、雨に滲んで、いつもより、柔らかく、見えた。
レオンは、お守りを、そっと、胸元に戻した。
そして、熱いホットミルクを、一口、啜った。
蜂蜜の甘さが、じんわりと、喉を、温めた。
——『立ち続けるだけの肉壁は、いつか、誰かを、泣かせる』
エレーナの言葉が、耳の奥に、残っていた。
その意味を、レオンは、まだ、完全には、分からなかった。
けれど、なんとなく、分かる気も、していた。
シエラの、湯上がりの、心配そうな目。アイリスの、部屋の前を、行ったり来たりする、足音。——ルルの、地下工房から、さっき聞こえてきた、「マスターが、生きていて、合理的だ」という、ぼそりとした呟き。
——誰かが、待っている。
誰かが、心配してくれる。
誰かが、自分のために、泣いてくれる。
それは、五浪して、ずっと一人で、立ってきた、レオンにとっては——まだ、慣れない、温度だった。
慣れていかなきゃ、いけない、温度だった。
「——おやすみ」
誰にでもなく、ぽつり、と呟いて、レオンは、ホットミルクを、もう一口、啜った。
雨の音が、夜の静けさの中に、ゆっくりと、溶けていった。
---
第四話 了




