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『臆病な少女と、地獄のピクニック』

ギルド『ステラ・レギア』の食堂は、昨日より少しだけ、賑やかだった。


「——お兄ちゃん、今朝は、おにぎり?」


シエラが、目を輝かせて食卓を覗き込んだ。


「うん。昨日の残りのお米で、塩にぎり。海苔は無いから、代わりにこの葉っぱで巻こうかな、って」


「葉っぱ?」


「中庭に生えてた、バジルっぽい香草。毒はないよ。匂いがいいんだ」


「お兄ちゃん、それ、本当に大丈夫なやつ?」


「大丈夫大丈夫、昨日ちゃんと確認した」


レオンは、にこにこしながら、米粒を手のひらでぎゅ、ぎゅ、と握っていく。薬師試験の勉強で覚えた植物知識が、こんなところで役に立っている。


アイリスが、寝癖のついたままの銀髪を直しながら、食堂に降りてきた。


「——また、匂いのするものを作っているな」


「あ、おはようございます、アイリスさん。今日は、塩にぎりと、昨日の残りのスープを温め直したものです」


「朝から、握り飯か」


「昨日の夜、ちょっとだけ、余分にお米を炊いておいたので」


「手回しがいいな」


「管理人ですから」


アイリスは、ふん、と鼻を鳴らして、席についた。


ルルは、今朝はまだ地下から上がってきていない。食卓に、彼女の分のおにぎりと、冷めた茶を置いておく。下りてきた時に、すぐ食べられるように。


「——で」


アイリスが、スープのお椀を受け取りながら、本題を切り出した。


「昨日の組合の帰り、貼り紙をいくつか見ておいた」


「依頼ですか」


「ああ。今日は、受注に行くべきだ」


彼女は、胸ポケットから、畳んだ羊皮紙を取り出した。レオンの前の食卓に、すっと広げる。三枚あった。


「——迷宮一層の薬草採取。報酬、五万ルナ」


「おお、高報酬」


「納期が急ぎらしい。王都の薬師ギルドから来た、特急依頼だ」


「なるほど、それで報酬が跳ねてるんですね」


「残り二枚も、似たようなものだ。浅層の素材採取、一層の魔物間引き」


アイリスは、三枚の依頼書を、トランプのように並べた。


「どれも、経験の浅い冒険者向け。ギルドの収入源としては、手堅い線だ」


「アイリスさんは、どれがいいと?」


「薬草採取が一番、報酬効率がいい。ただ」


彼女は、少し声を落とした。


「三人以上のパーティが、推奨されている」


「——三人」


レオンは、おにぎりを握る手を止めた。


アイリスが、食卓の向こうで、じっと、こちらを見ている。


彼女の視線が、ちら、とシエラの方に流れた。


シエラは、自分のおにぎりを、両手で持って、ちびちびと食べていた。アイリスの視線に気づいて、顔を上げ、目をぱちくりさせた。


「……な、なあに、アイリスお姉ちゃん?」


アイリスは、しばらく、シエラを見ていた。


それから、短く、言った。


「シエラ。お前も、来るか」


シエラの持っていたおにぎりが、手から、ぽろり、と落ちた。


---


「——む、むむむ、むりいいいい!」


シエラは、食卓に突っ伏していた。


落ちたおにぎりは、レオンが拾って、皿に戻した。シエラは、両手を頭の上に乗せて、ぶんぶんと首を横に振っていた。


「むりむりむりむり、シエラ、いけないよぉ、ぜったい、むりいい」


「声が、大きい」


「だって、だって、アイリスお姉ちゃん!」


シエラは、顔を上げた。涙目だった。


「シエラ、前のお任務で、召喚、失敗した! アレクさんのチームに、大迷惑、かけた! もう、あっちのお任務には、いっちゃいけないって、言われて!」


「その件は、もう済んでる」


アイリスは、素っ気なく言った。


「お前の力量を知らない冒険者と組めば、そりゃ迷惑もかかる。今回は、私と、レオンだ」


「うぅ」


「不測のことが起きても、私が処理する。お前は、ついてくるだけでいい」


「うぅぅ」


シエラは、また、食卓に突っ伏した。


レオンは、二人のやり取りを黙って聞いていた。アイリスが、シエラに対して、急に厳しく接しているわけではない、ということは分かっていた。


むしろ、逆だった。


アイリスは、いつも、シエラに対して、一歩引いた距離を取っていた。甘やかしもせず、突き放しもせず。必要なことだけ、事務的に伝える。


それは、子供を扱う大人の優しさ、というより——どう扱っていいか、まだ、分からない人の、不器用な距離感だった。


今日、アイリスが、シエラを誘うと言ったのは——たぶん、彼女なりに、何かを、考えた結果なのだろう。


レオンは、アイリスの横顔を、一度だけ見た。


真紅の瞳は、シエラの丸めた背中を、じっと見ていた。


「——シエラちゃん」


レオンが、穏やかに、呼びかけた。


突っ伏していたシエラが、そろそろと、顔を上げた。


「一層、だよ」


「……うん」


「一層って、冒険者の試験でも、一番最初に入るところなんだ。子供の見学ツアーもあるくらいの、浅い場所」


「うん、知ってる」


「そこで、薬草を、採るだけ。戦闘は、基本的に、しない」


「……うん」


「僕は、剣も魔法も使えない。でも、薬草は、結構、見分けられるんだ」


レオンは、にこ、と笑った。


「シエラちゃんが、採取用の籠を持ってくれるなら、すごく助かる。アイリスさんは、道を見てくれる。僕が、薬草を探す。シエラちゃんが、籠を持つ」


「……」


「三人で、ちょうど、一つの仕事になる」


「……うん」


「——それから」


レオンは、少し、声を柔らかくした。


「シエラちゃんが、来てくれたら、もう一つ、嬉しいことがあるんだ」


「え?」


「今日の夕方、三人で、一緒に、帰ってこられる」


シエラが、目を瞬いた。


「『いってきます』と、『ただいま』を、一緒に、言える」


「——」


「昨日、お土産がある、って嬉しい、って言ってくれたでしょ」


「うん」


「今日は、お土産じゃなくて、シエラちゃんも、一緒に、『ただいま』って、帰ってきてもらえたら、嬉しい」


シエラは、レオンの顔を、じっと、見つめた。


それから、アイリスの方を見た。アイリスは、目を合わせずに、ふい、とスープを啜った。けれど、耳の先が、ほんのり赤かった。


シエラは、しばらく、俯いていた。


おにぎりの皿の上の、葉っぱの緑色を、指先で、ちょんちょん、とつついた。


「……レオン、お兄ちゃん」


「うん」


「一緒に、帰ってきたら——ちゃんと、夜に、また、ごはん、つくってくれる?」


「つくるよ」


「いっぱい?」


「いっぱい」


「——」


シエラは、ぎゅ、と両手を握った。


そして、勢いよく、頭を下げた。


「——が、がんばります! シエラ、がんばります!」


「うん。無理しなくていいから」


「ううん、がんばる!」


「——そうか」


アイリスが、短く頷いた。


それから、彼女は、おにぎりを、一口、かじった。


「……悪くないな、この葉っぱ」


「ありがとうございます」


「鼻に、抜ける感じが、いい」


「バジルの仲間、らしいですから」


「……ほう」


食卓に、少しだけ、気の緩んだ空気が、流れた。


地下工房の方から、今朝三度目の、ルルの「——成功した」という声が、遠く響いてきた。


---


迷宮都市ルミナリアの中心に、それは口を開いていた。


『スターフォール・アビス』——世界の底へ続く、巨大な縦穴。


レオンが縁に立って下を覗き込んだ時、最初に感じたのは、空気の冷たさだった。穴の底から、ゆっくり昇ってくる風は、乾いていて、ほのかに甘い。星の匂い、とでも言いたくなる匂いだった。


「——初めてか」


アイリスが、隣に立った。


「はい」


「迷宮を見たことのない冒険者志望は、珍しい」


「王都の試験場には、縮小版の模擬迷宮しかなかったので」


「——まあ、いい」


アイリスは、顎で、穴に渡された吊り橋の先を示した。


「一層は、この橋を渡った先だ。入口ホールが広場になっていて、そこから放射状に通路が伸びている。薬草は、北側の群生地」


「はい」


「シエラ、歩けるか」


振り返ると、シエラは、吊り橋の手前で、足を止めていた。


小さな手で、レオンの上着の裾を、きゅ、と握っている。顔が、少しだけ、青かった。


「——ごめんね、お兄ちゃん」


「うん」


「足が、もうちょっとで、動く、から」


「急がなくていいよ」


レオンは、しゃがんで、シエラと目の高さを合わせた。


「一歩ずつ、行こう」


「……うん」


シエラは、こくん、と頷いた。


レオンは、立ち上がって、シエラの小さな手を、自分の手のひらで包んだ。シエラの手は、少しだけ、汗ばんでいた。冷たかった。


二人は、並んで、吊り橋に足をかけた。


一歩。二歩。


ぎし、と厚い板が鳴った。シエラの肩が、ぴくん、と震えた。


けれど、彼女は、手を離さなかった。


レオンも、手を離さなかった。


アイリスが、先頭を歩き、振り返らずに、前を見ていた。


---


迷宮第一層は、意外なほど明るい場所だった。


天井——というのだろうか——はなく、見上げれば青白い光の靄が漂っている。地面は石造りの広い回廊。壁には古代文字のような紋様が刻まれていて、それがほのかに発光して、通路全体を照らしている。


そして、空気が、不思議と暖かい。


「書物で読んだのと、ちょっと違うなあ」


レオンが呟くと、アイリスが前を行きながら、肩越しに答えた。


「浅層は、地上と大差ない。魔物も弱い。油断しなければ、死ぬことはない」


「はい」


「五層を越えると、急に空気が変わる。十層で最初の階層主。二十層で、一般の冒険者にとっての『壁』だ」


「アイリスさんは、何層まで潜ったことが?」


「——」


アイリスの肩が、ほんの一瞬、強ばった。


それから、低い声で、短く、答えた。


「二十層、手前まで」


それっきり、彼女は口を閉ざした。


何か、聞いてはいけないことを聞いたのかもしれない、とレオンは察した。昨日の夕方、帰り道の丘で聞いた「元は、違うギルドにいた」という話。「そこで、色々あってな」という一言。


あの続きが、きっと、ここにある。


けれど、レオンは、踏み込まなかった。


代わりに、路傍の石の隙間から顔を出した、小さな青い草を見つけて、声を上げた。


「あ、これ、シルヴァン草じゃないかな」


「え?」


シエラが、握っていた手を、そっと離して、近寄ってきた。


「ほんとに、お兄ちゃん、見つけるの、早いね」


「うん。葉の裏に、銀色の毛が生えてるのが特徴。解熱に使われるんだ。今回の依頼リストにも、ある」


レオンは、膝をついて、根元から丁寧に草を引き抜いた。指先で泥を払い、切り口の匂いを嗅ぐ。


「新鮮だ。市場で買うより、ずっと状態がいい」


「すごい……」


「じゃあ、はい、シエラちゃん」


レオンは、採った草を、シエラに渡した。


シエラは、両手で大事に、草を受け取った。


「うん! わたし、籠に、ちゃんと、整理して入れるね!」


「頼んだよ」


「うん!」


シエラは、背負っていた採取籠を前に回し、草の種類ごとに小分けの仕切りに、丁寧に入れ始めた。細やかな手先だった。


レオンは、その横で、また、別の草を見つけて、膝をつく。


「これは白薔薇草。虫除け。依頼にはない」


「これは、採らない?」


「持って帰って、ギルドに植えようか。虫除けになる」


「うん!」


「これはアザレア苔。依頼リストに、ある」


「苔も、採るの? 葉っぱごと?」


「苔は、岩の表面から、そっと薄く剥がす。根っこの部分を残してあげると、また生える」


「わあ、難しいね」


「コツは、爪の先を使わない。指の腹で、押すように」


レオンが、実演してみせる。シエラが、真剣な顔で、覗き込む。


少し離れた場所で、アイリスは、腕を組んで、二人を見ていた。何も言わず、ただ、見ていた。


「——先を進む」


やがて、ぽつりと彼女は言った。


「安全確認だけ、先行する。シエラ、採取は任せた」


「は、はい、お姉ちゃん!」


「お前の勉強にはなる」


アイリスは、そのまま、通路の先へ、静かに歩いていった。


シエラが、その背中を、目で追った。


そして、ぽつり、と呟いた。


「……アイリスお姉ちゃん、今日、優しい、気がする」


「……うん」


「どうしたんだろう」


「たぶんね、シエラちゃん」


レオンは、苔を採りながら、穏やかに答えた。


「アイリスさんも、シエラちゃんのことが、ずっと、気になってたんだよ」


「え?」


「ただ、どう優しくしたらいいか、分からなかっただけ」


「……」


シエラは、小さな手で、籠の中の草を、そっと撫でた。


「——シエラ、ちゃんと、覚えてる」


「うん?」


「一年前、シエラが、お兄ちゃんたちと来る前の、最初の任務のとき。シエラが、召喚しすぎて、倒れて。戻ってきた時、アイリスお姉ちゃん、部屋まで、運んでくれた。ずっと、無言で」


「そうなんだ」


「あとね、泣きじゃくって、ずっと眠れなかった夜。アイリスお姉ちゃん、隣の部屋で、朝まで、剣の手入れを、してた」


シエラは、ちょっと、笑った。


「剣の手入れの音って、なんでかな、落ち着くんだ。『そばに誰かがいる』って、音で、分かるから」


レオンは、手を止めて、シエラを見た。


シエラは、籠の中の草を、ひとつ、ひとつ、大事そうに、撫でていた。


——ああ。


レオンは、静かに思った。


この子は、ちゃんと、見ているんだ。


自分を大事にしてくれる人の、不器用な愛情を、ちゃんと、見つけている。


ただ、それを、相手に「ありがとう」と言う勇気が、まだ、無いだけ。


「——シエラちゃん」


「うん?」


「今日、『ただいま』って、三人で言ったあと」


「うん」


「アイリスさんに、そのこと、言ってごらん」


「え、なに?」


「『いつも、ありがとうございます』って」


シエラは、ぱちくり、と目を瞬いた。


それから、顔が、ぽっ、と赤くなった。


「う、うー、言える、かな」


「言える」


「むずかしいかも……」


「小さい声で、いいよ」


「……うん、がんばる」


シエラは、もう一度、籠の中の草を、そっと撫でた。


レオンは、また、苔の採取に戻った。


---


採取は、順調に進んだ。


レオンの知識と、シエラの手先の器用さ、そして、先を見張るアイリスの判断。役割分担が自然とできあがり、二時間もしないうちに、籠は青々とした薬草で、半ば満ちていた。


「——依頼の、七割くらいかな」


籠の中を数えながら、レオンが呟いた。


「あと、シルヴァン草を十株ほど。それで満たせる」


「あそこの、少し深い場所に、群生地がある」


アイリスが、通路の奥を指差した。


「この辺まで来る冒険者は少ない。未採取の場所だ。行くなら、用心しろ」


「はい」


レオンが立ち上がって、進みかけた、その時だった。


違和感が、あった。


空気が、ほんの少しだけ、濃くなった気がした。


「……ん?」


レオンは立ち止まり、首を傾げた。シエラが、背中にぶつかった。


「ど、どうしたの、お兄ちゃん?」


「いや、なんか、風向きが」


——ぐる、と。


低い唸り声が、通路の奥から、響いた。


アイリスが、一瞬で剣を抜いた。


「——下がれ」


「え、え、なに」


「静かに」


アイリスの声が、鋭く、刺した。


通路の奥の暗がりに、ゆっくりと、何かが、姿を見せた。


最初に見えたのは、黄色い眼だった。


二対。


それから、もう一対。


——四つの眼が、同じ顔から、生えていた。


大型の獣だった。体長は、二メートル半を優に超える。漆黒の毛皮。鋼のような筋肉。そして、太い首からは、二つの頭が、生えていた。


「——なんでだ」


アイリスが、掠れた声で呟いた。


「なんで、こんな層に、オルトロスがいる」


---


オルトロス。


その名は、レオンも知識の中で、知っていた。


双頭の魔狼。階層主級の魔物。本来の生息域は、二十階層付近の『深き獣の回廊』。


絶対に、第一層に、いるはずのない魔物だった。


「——迷宮の、異変?」


レオンが呟くと、アイリスが、ずい、と前に出た。


剣を構えたまま、背中越しに、言う。


「聞いたことはある。ごくまれに、下層の魔物が、上に迷い込むことが。でも、一層まで降りてくるなんて」


「アイリスさん、魔力は」


「……きつい。昨日、組合の帰りに、少し使った」


アイリスの息が、少しだけ、乱れていた。


昨日、組合で担当官が無礼なことを言いかけた時——アイリスは、静かに、空中に小さな火花を散らして、担当官を黙らせた。一瞬の、ほんの小規模な威嚇。


けれど、それで、今日の分の魔力には、影響が出ていたらしい。


「大技は、一発が精一杯だ。しかも、今すぐは出ない。詠唱に、時間がいる」


「シエラちゃんは?」


「ひゃっ」


シエラは、籠を抱きしめたまま、石のように、固まっていた。


顔から、完全に、血の気が、引いている。


震える唇が、声にならない音を、漏らしている。


「あ、あ、あ——」


——ああ。


レオンは、察した。


あの、『前の任務の失敗』が、今、シエラの中で、蘇っているのだ。


『迷宮』『強い魔物』『自分の無力さ』——その三つが揃った瞬間、彼女の体は、動かなくなる。それが、彼女のトラウマだった。


オルトロスの、二つの頭が、ぐるると唸った。


黄色い四つの眼が、獲物を見据えるように、三人を順繰りに舐める。前脚の鉤爪が、石畳を抉った。


レオンは、静かに、一歩、前に出た。


シエラの前に、立つ。


「——アイリスさんは、詠唱を」


「——」


アイリスが、ぐっと、剣の柄を握り直す。


「お前、何をする気だ」


「時間を、作ります」


「お前、攻撃力——」


「知ってます。ゼロです」


レオンは、振り返らずに、続けた。


「でも、シエラちゃんの前に、今、立つことは、できます」


アイリスが、息を呑んだ。


レオンは、ゆっくり、両腕を広げた。


武器はない。防具もない。ただ、その背中で、二人の少女を、まるごと、覆った。


そして、後ろの、震える少女に、静かに、語りかけた。


「——シエラちゃん」


「あ、あ——」


「聞こえる?」


「お、お、兄、ちゃん」


「僕はね、今から、たぶん、ちょっと、痛い目に遭う」


「そ、そんな、いやだ——」


「でも、大丈夫。すぐ、治るから」


レオンは、前を見たまま、笑った。


シエラには、見えない笑いだった。


でも、声の温度で、伝わった。


「シエラちゃんに、お願いが、一つだけあるんだ」


「な、なに——」


「僕が立ち上がる、その回数だけ、『もう一回、頑張れる』って、心の中で、呟いて」


「……え」


「それだけでいい」


「——」


「僕が三回立てば、シエラちゃんも、三回、心で呟く。それだけ」


シエラは、呼吸が、止まっていた。


一方、アイリスは、もう、短い詠唱を、開始していた。


「——炎よ、剣となり、星となりて——」


剣の刃に、赤い光が、ちろちろ、と集まり始める。


レオンは、オルトロスに向き直った。


黄色い四つの眼が、先頭のレオンを、捉えた。


レオンは、にっこり、笑った。


「——管理人の仕事ですから」


---


オルトロスが、咆哮と共に、跳んだ。


重量と、速度と、殺意。その全てを乗せた突進だった。


左の頭の牙が、レオンの肩に食い込み——貫通した。


がぢり、と、骨を噛む音が、レオンの耳の、すぐ近くで響いた。


痛みは、あった。


ひどく、あった。


けれどレオンは、その牙に、自ら腕を絡めた。しがみついた。肩を貫いた牙ごと、オルトロスの首に、組み付いた。


「——!?」


アイリスが、息を呑むのが、背後で、聞こえた。


オルトロスが、頭を振った。振り回されるレオンの足が、通路の壁を、蹴り壊す。石の破片が、散らばる。肩からはごぼごぼと血が溢れ、シャツを、真っ赤に染めていく。


それでも、レオンは、離さなかった。


「詠唱、続けて」


「——分かってる!」


アイリスの剣から、赤い光が、ぶわりと膨らむ。


「——紅蓮剣星!」


光の星が、十個——刃から、放たれた。


けれど、オルトロスは、身をよじって、その大半を避けた。突進の途中の獣は、思ったよりも、機動力が高かった。


五発だけが、獣の背に命中した。毛を焦がし、皮膚を裂いたが、致命傷には、ならなかった。


「——!」


アイリスが、剣を杖にして、片膝をついた。昨日の魔力消費が、完全に、祟っていた。


オルトロスが、頭を大きく振った。


レオンの体が、勢いよく、床に叩きつけられた。


ずざあ、と、石畳の上を、肩から血を流しながら、滑る。


視界が、一瞬、暗くなった。


——一回、倒れた。


レオンは、歯を食いしばって、腕で、上体を支えた。肩の傷が、ちりちりと、音を立て始める。焦げた肉の匂いと共に、筋肉が、寄り合わさっていく。


「——もう、一回——」


血の泡を、吐きながら、ゆっくり、立ち上がった。


「——立てる——!」


---


シエラの視界は、涙で、歪んでいた。


足が、震えていた。震えが、止まらなかった。小さい時から、ずっとそうだった。怖いものを前にすると、体が、動かなくなる。


一年前——初めての任務で、仲間を傷つけた、あの時も。


『もう、連れていけない』と、言われた、あの日も。


同じだった。


足が、動かない。声が、出ない。ただ、涙だけが、止まらない。


——でも。


霞んだ視界の奥で、レオンの背中が、見えた。


ボロボロだった。


血まみれだった。


一度、ぐちゃぐちゃに、倒れていた。


でも、その背中が、ゆっくり、立ち上がっていた。


『僕が三回立てば、シエラちゃんも、三回、心で呟く。それだけ』


レオンの声が、耳の奥で、もう一度、響いた。


「——」


喉の奥から、小さな音が、漏れた。


「——もう」


息を、吸った。


肺が、震えた。


「——もう、いっかい、がんばれる」


心の中で、呟くつもりだった。


でも、口から、漏れた。


消え入りそうな声で、漏れた。


途端。


シエラの足元の石畳に、銀色の魔法陣が、ゆっくりと、咲き始めた。


「——!?」


シエラが、自分の足元を見た。


震えは、止まらない。足は、まだ、動かない。


でも、魔力だけが、勝手に、彼女の中から、溢れ出していた。


---


オルトロスの前脚が、再び、レオンを打った。


脇腹に、鉤爪が、食い込んだ。肋骨が、軋んだ。息が、詰まった。


レオンは、咄嗟に、鉤爪を両手で掴んだ。血まみれの指が、滑った。滑ったが、離さなかった。


——二回目、倒れかけた。


けれど、地面に膝を、つけなかった。


踏みとどまった。


「——もう、一回——」


「——もう、いっかい——」


背後で、シエラの、震えた声が、また、漏れた。


レオンの唇が、赤く、湿った笑みを、形作った。


「——立てる——!」


レオンの指の力が、ぐっ、と、強くなった。


オルトロスの爪を、引き抜くようにして、身を捻る。一瞬の、ほんの一瞬の、獣の体勢の崩れ。


レオンは、その瞬間を、逃さなかった。


体を、獣の胸元に、ぶつけた。


攻撃力は、ゼロだった。


だから、これは、攻撃ではなかった。


ただ——『体重をかける』だけの、動作だった。


獣の片脚が、わずかに、石畳から、浮いた。


「——アイリスさん!」


「——見える!」


アイリスの剣が、もう一度、赤く、光った。


「——紅蓮剣星、第二射!」


刃から、五つの、燃える星が、放たれた。


今度は、避けられなかった。浮いた前脚、晒した胴体。


星の全てが、命中した。


オルトロスの、双頭が、天を仰ぎ、咆哮した。


——そして、その、咆哮の最中に。


「——!」


シエラの魔法陣から、ぶわり、と、白い光が、立ちのぼった。


「——守護の、白狼、さま——」


彼女の声は、震えていた。


でも、途切れなかった。


「——わたしの、ちからを、貸し、てください——!」


巨大な、白い狼が、魔法陣の中から、静かに、歩み出た。


---


白狼の蒼い瞳が、オルトロスを、見据えた。


低い唸り声。気高い毛並み。


それは、紛れもなく、シエラがずっと呼べなかった——上位守護精霊の、姿だった。


白狼は、地を蹴った。


オルトロスの、紅蓮の星に焼かれた脇腹に、鋭い爪が、抉り込む。


断末魔の咆哮が、第一層の回廊いっぱいに、響き——


そして、途切れた。


巨体が、倒れた。


石畳が、鈍く、揺れた。


白狼は、シエラの隣に、静かに座り、それから、光の粒になって、消えていった。


消える直前、白狼は、シエラの頬を、鼻先で、そっと、撫でた。


シエラは、両手で顔を覆って、声を殺して、泣き始めた。


「ひ、う、うぅ、おにい、ちゃん、お、兄、ちゃん——」


「——大丈夫、大丈夫だよ、シエラちゃん」


レオンは、ふらふらと、立ち上がりながら、手を振ってみせた。


シャツは、もはや、布の形を、留めていない。脇腹と肩には、ぱっくりと、傷口が見えていたが、その縁から、じゅう、と音を立てて、肉が、寄り合わさっていく。傷は、ゆっくり、けれど確実に、塞がっていった。


シエラは、立ち上がって、ぶつかるように、レオンに抱きついた。


「ひ、ぐ、えぐっ、ごめ、ごめんなさい、遅くて、遅くてぇ——」


「遅くないよ」


レオンは、血まみれの手で、シエラの頭を、そっと撫でた。


「ちゃんと、呼べた。すごかったよ、シエラちゃん」


「で、でもっ、お兄ちゃんが、先に、立って、くれたから——」


「違うよ」


「——え」


「シエラちゃんが、心で呟いてくれたから、僕が、立てたんだよ」


シエラが、顔を上げた。


涙で、ぐしゃぐしゃになった、赤い顔で。


「——」


「僕ね、さっきから、誰かに応援してもらうのが、ちょっと、新鮮で」


レオンは、苦笑した。


「ずっと、一人で、立ってきたから」


「——」


「だから、今日、シエラちゃんに、応援してもらって、——ちょっと、嬉しかった」


シエラは、しばらく、レオンの顔を見ていた。


それから、もう一度、ぎゅ、と、レオンの胸に、顔を埋めた。


血まみれの、焦げた、ボロボロの胸だった。


それでも、彼女は、離さなかった。


---


アイリスは、剣を鞘に戻しながら、少し離れたところから、それを見ていた。


魔力切れの体が、だるい。けれど、それ以上に、別のものが、胸の奥を、締め付けていた。


——この光景は、見たことがあった。


三年前、『天界の盾』で。


彼女の、最初の師だった老剣士が、駆け出しの彼女を、背中で、庇ってくれた時。


「いいか、アイリス。強さとは、攻撃の威力じゃない。味方の背中を、最後まで、預けられることだ」


あの人の、最後の言葉だった。


あの人は、その後、任務で、死んだ。


『天界の盾』は、その死を、「無謀な突出」と、記録に、残した。


それからずっと——アイリスは、誰の背中も、信じられずにいた。


けれど。


(——今、)


目の前の、ボロボロの男が、最後まで、シエラの背中を、預かり切った。


『攻撃力、ゼロ』の男が。


『冒険者試験、五回落第』の男が。


(——久しぶりに、見たな)


アイリスは、小さく、息を、吐いた。


そして、呟いた。


「——今日は、役に立ったな、管理人」


レオンは、シエラを腕に抱えたまま、顔を上げた。


「え?」


「『今日は』だ。『今日だけは』だぞ。勘違いするな」


「はい」


「……それと」


「はい」


「——無事で、よかった」


アイリスは、ぷい、と、顔を背けた。


頬が、赤かった。


けれど、その赤は、いつもの『ツン』の赤とは、ちょっと違う、もっと柔らかい色をしていた。


レオンは、にっこり笑って、答えた。


「ありがとうございます、アイリスさん」


「——別に、礼はいらん」


「はい」


「シエラを、連れてきてくれて——」


アイリスは、そこで、一度、言葉を切った。


それから、小さな声で、続けた。


「——ありがとう」


---


採取は、達成した。


というより、オルトロスの突進で、通路の奥が崩れ、その先の群生地が、あっさり露出していた。レオンとシエラが、必要な分を、きれいに摘み終わった頃、日は、既に中天を、過ぎていた。


ギルドに戻ったのは、夕方だった。


街の薬師ギルドでの鑑定で、採取品の状態の良さが評判になり、報酬は、色を付けて、六万五千ルナに、跳ね上がった。さらに、オルトロスの素材——毛皮と、牙と、魔石——は、冒険者組合が、買い取ってくれた。


毛皮だけで、十万ルナ。牙二組で、五万ルナ。魔石は、七万ルナ。


合計、二十八万五千ルナ。


三十万ルナの借金が、今日の、一日で、あと一万五千ルナに、まで、減った。


「——信じられん」


帳簿を広げながら、アイリスが、呻いた。


「一日で、これだけ返したギルドは、この街の歴史にも、そう多くない」


「二人が、頑張ってくれたからです」


「お前も、だ」


「そうですね、僕も、ちゃんと、頑張ったので、褒めてください」


「——」


アイリスは、ちょっと、口を開けて、閉じた。


「……自分で、言うな」


「すみません」


「ふん」


ルルが、地下から、今日初めて食堂に上がってきた。煤だらけの顔を、シエラに「だめだよ、洗って!」と、また叱られている。


「マスター。今日も、ちゃんと、生きて、帰ったか」


「うん、ルルちゃん」


「喜ばしい。合理的な帰還だ」


「ありがとう」


「——また、面白い血の匂いをさせているが、今日は、なんだ」


「オルトロスの爪、だと思う」


「——ほう。後で、サンプルを採らせてくれ」


「いいよ」


ルルは、満足そうに頷いて、席についた。


食卓に、四人分の皿が、並んだ。


今夜は、ちゃんとしたスープだった。肉が、入っていた。乾燥茸ではない、ちゃんと新鮮な茸も、入っていた。昼の薬師ギルドで、報酬の一部で、買ってきたものだった。


「いただきます」


四人で、同時に、言った。


---


食後。


シエラは、食堂の壁際で、アイリスの袖を、ちょん、と、引いた。


アイリスが、振り返る。


「どうした」


「あの、あの、アイリスお姉ちゃん」


「うん」


「あのね」


シエラは、ぎゅ、と、両手を握った。


顔が、真っ赤だった。小さな口が、ぱくぱく、と、動いた。声が、なかなか、出てこなかった。


アイリスは、黙って、待った。


昨日までのアイリスだったら、たぶん、『何だ、さっさと言え』と、急かしていた。けれど、今日の彼女は、静かに、待った。


やがて、シエラは、小さな小さな声で、言った。


「——いつも、ありがとう、ございます」


「——」


「剣の、手入れの音、が」


シエラの目に、涙が、うるんだ。


「いつも、聞こえてて、安心、してました」


アイリスは、しばらく、動かなかった。


それから、ぽん、と、シエラの頭に、手を置いた。


ほんの、一瞬だった。


「——馬鹿。そんなこと、気にしてたのか」


「はい」


「ずっと?」


「ずっと、です」


「——」


アイリスは、ぷい、と、顔を背けた。


そして、シエラに、見えないように、そっと、目元を、拭った。


「——明日も、頑張るぞ、シエラ」


「はい、お姉ちゃん」


「また、連れていく」


「はい、連れていってください」


シエラは、にこ、と笑った。


アイリスは、もう、顔を背けたまま、小さく、頷いた。


レオンは、少し離れた場所で、その光景を、静かに、見ていた。


食堂の暖炉の火が、ぱち、と、小さく爆ぜた。窓の外では、スターフォール・アビスの青白い光が、夜空に、星を描いていた。


---


その夜。


自分の部屋で、レオンはベッドの縁に腰かけ、胸元のペンダントを取り出した。


古びた、金属の小さなお守りだった。


夢の中の、顔のぼやけた少女。最後に指切りをした時、「これをあげる」と、彼女が手渡してくれたものだ。


「——今日は、また、一歩、進めたかな」


レオンは、ペンダントを、ゆっくり、撫でた。


この古城を、借金まみれの廃墟を、少しずつ、『帰りたくなる家』に、変えていく。


誰かが、「いってきます」と言い、誰かが、「ただいま」と、言える場所に、変えていく。


——君と、約束した、あの場所に、辿り着くためには。


まず、今、ここにいる人たちの、毎日を、ちゃんと、守らないと。


「——一歩ずつ、だ」


そう呟いて、レオンは、ペンダントを、そっと、胸元に戻した。


廊下の向こうから、シエラの、軽やかな笑い声が、響いた。それに、ルルの、低い相槌と、アイリスの、抑えた苦笑が、重なる。


レオンは、ふっと、笑った。


そして、ベッドに、ぱたりと、倒れ込んだ。


疲れていた。体じゅうが、まだ、じんじん、と、痛んだ。


けれど、眠りは、深く、穏やかに、訪れた。


ギルド『ステラ・レギア』の、三日目の夜が、静かに、更けていった。


---


第三話 了

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