『落ちこぼれギルドの、あたたかい朝』
---
古城の朝は、鳥の声で始まらない。
寝ぼけた工具の金属音、地下工房の遠い爆発音、そして、誰かの「うぇええ」という寝起きの呻き声——それらが重なって、レオンの耳に届く。
ベッドの縁に腰かけて、レオンはしばし、その『ギルドの音』を聞いていた。
朝、五時。
昨日、叔母セレナが「光の速さで隠居」して、ギルド管理人の仕事を押し付けていった、その翌朝である。窓の外はまだ薄紫で、寝台の端の毛布には、うっすらと朝露のような冷気が宿っていた。
「——さて」
レオンは、ぱしん、と自分の頬を軽く叩いた。
本日が、管理人として、初めての本格的な一日だった。
昨日までのレオンは、試験に落ちて故郷に戻る予定の、ただのFランクの青年だった。今朝のレオンは、女の子ばかりが住む半壊した古城の、借金まみれの管理人である。
「……うん。まず、洗濯だな」
ぽつり、と呟いて、立ち上がった。
レオンは、朝の仕事に優先順位をつけるのが得意だった。五浪している間、住み込みの下働きで暮らしを立ててきた経験が、ここで役に立っている。
第一に、洗濯物。昨日、アイリスの魔法で吹き飛ばされて焦げたシャツやズボンが、脱衣所に積んである。朝日が出ているうちに洗って干さないと、今日の夕方までに乾かない。
第二に、朝食の仕込み。昨夜、簡単に確認した食糧庫の状況は、かなり心細かった。工夫と知恵でなんとかするしかない。
第三に、掃除。ホールの埃は、昨夜のうちに軽く落としたが、二階と三階の廊下はまだ手付かずだ。
「——よし」
レオンは、エプロンを腰に結び、袖をまくり上げた。
---
中庭に張った物干し紐が、朝の冷気にぴん、と張りつめている。
レオンは最後のシャツを洗濯桶から引き上げ、ぎゅ、と絞ってから、紐にかけた。冷たい水で洗濯をしたせいで、指先が赤くなっている。けれど、息を吐けば白くなる朝の空気の中で、干したてのシャツがふわりと揺れる光景は、少し心を軽くした。
——と、そのとき。
足音が、した。
背後の玄関の方から、几帳面な、けれど少しだけ苛立ったような、一定のリズムの足音。
振り返るまでもなかった。
「——朝っぱらから、何をやっている」
アイリスだった。
昨日と同じ純白の制服。銀の肩当て。腰には細身の剣。けれど、髪が少しだけ、寝癖でふわついている。左側の側頭部に、ぴょこんと一房、きれいな寝癖が立っていた。
ツンと澄ました顔の美少女の、左側頭部の寝癖。
レオンは、ちょっと見ないふりをすることにした。
「おはようございます、アイリスさん。洗濯してました」
「見れば分かる」
「昨日のアイリスさんのプロミネンス・ノヴァで焦げた分です」
「——」
アイリスは、黙った。
それから、ぷい、と視線を物干し紐の方へ向けた。並んだ衣類の、半分は、彼女自身が昨日の朝、吹き飛ばした結果である。
「……別に、謝れと言ったわけじゃない」
「謝ってません。事実を言っただけです」
「——事実を、わざわざ言うな」
「はい」
アイリスの頬が、ほんのり赤くなった。
彼女は、ぎゅ、と腕を組んで、物干し紐の下を通り抜けようとして、シャツの裾が顔に当たり——一瞬ためらった。
「……どけ」
「あ、そこ、まだ水が滴るので、もう少し右を——」
アイリスは、レオンの指示通りに、一歩、右に寄った。律儀だった。
「で、何か、朝からご用事ですか?」
レオンは、次の洗濯物を干しながら、訊いた。アイリスは、中庭の石柱に背を預け、朝の光の中で、ふん、と息をついた。
「——食堂に、朝食の気配がない」
「そうですね、まだ仕込み中なので」
「何を作る」
「具だくさんのスープと、パンを焼きます。あと、昨日市場で少しだけ安く買えた、乾燥茸を戻して——」
「……そうか」
アイリスは、少しだけ、視線を落とした。
しばらく、黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「——昨日の、借金取り」
「はい」
「お前、三十万ルナの借用書、どうした」
「叔母さんが残してた書類の束に、まとめて挟まれてました。今日、街の組合で、期日の確認をしてこようと思ってます」
「……そうか」
また、沈黙。
レオンは、黙ってシャツを干した。アイリスは、目を伏せたまま、石柱に背を預けていた。
朝の光が、中庭の石畳を、少しずつ、あたためていく。
「——あのな」
アイリスは、ぽつりと言った。
「借金は、私が作ったわけじゃない」
「知ってます」
「叔母上が、色んな冒険者を雇って、失敗させて、報酬を払えなかった結果だ」
「はい」
「私は、稼ぎ頭だった。だから、最後まで、残った」
「はい」
レオンは、穏やかに相槌を打った。
アイリスは、ぎゅ、と腕を組む力を強くして、それから、早口で、続けた。
「——だから、その、あれだ」
「はい」
「引き継いでくれたのは、——少し、助かった」
「はい」
「『はい』しか言わないな、お前は!」
「すみません。『はい』以外の返事を、今、探してました」
「探すな、別に、普通でいい!」
アイリスは、頬を赤くして、ぷん、と踵を返した。そして、ずんずん、と玄関の方へ歩いていった。
途中で、物干し紐の下をくぐる時、また一瞬、立ち止まった。
「……朝食は、何時だ」
「三十分後には、できます」
「そうか」
「食堂でお待ちしてます」
「待ってやらん、私は」
そう言って、アイリスは玄関に消えた。
レオンは、しばらく、空の洗濯桶を抱えたまま、立ち尽くしていた。
やがて、ふっと、笑った。
「——待ってくれるんだな」
独り言を、風にそっと、流した。
---
食堂に移った。
レオンは、竈に火を起こし、鉄鍋に水を張った。食糧庫から乾燥茸の壺、塩漬けの豆、昨日の残りの黒パンの切れ端、それから、中庭で抜いてきた野生のネギ。
たったこれだけで、四人分の朝食を作らなければならない。
レオンは、少しも困った顔はしなかった。むしろ、ちょっと楽しそうに、袖を肘までまくり直した。
「——こういう時こそ、工夫のしどころだ」
彼は、五浪している間に、『貧乏料理』の技術を、自分なりに磨いてきた。食べるものが無ければ、工夫して食べる。味が足りなければ、工夫して味を出す。それは、剣も魔法も使えない彼が、唯一、胸を張れる能力の一つだった。
乾燥茸は、ぬるま湯に塩をひとつまみ入れて戻す。時間は短縮できるし、塩味も仄かに移る。塩漬け豆は水でさっと洗い、余分な塩気を落として、茸の戻し汁と一緒に煮立てる。戻し汁には茸の旨味が出ているから、出汁いらずだった。
黒パンの切れ端は、鉄のフライパンで軽く焼き直す。固くなったパンも、熱を入れれば香ばしく蘇る。
野生のネギは、斜めに刻んで、最後に鍋へ。
三十分。
狭い食糧庫と、乏しい材料の中から、レオンは、湯気の立つ茸と豆のスープと、こんがり焼き直した黒パンを、見事に仕立てた。
「——できた」
満足げに頷いて、皿を食堂のテーブルに並べ始めた、その時。
どこかの階段から、ぱたぱた、と小さな足音がした。
「——なんか、いい匂い……」
眠そうな声で、食堂の入り口に顔を出したのは、シエラだった。
栗色の三つ編みは、今朝は結い直されていなくて、ぼさぼさと頬にかかっている。寝間着の上にガウンを羽織っただけの、寝ぼけた格好だった。
「おはよう、シエラちゃん」
「おはよう、お兄ちゃん……」
シエラは、鼻をくんくんさせながら、ふらふらと食卓に近づいてきた。
「あのね、あのね、お兄ちゃん」
「うん?」
「いい匂いで、目が、覚めた」
「そう。それは、よかった」
「うん……」
シエラは、くしゃ、と目を擦って、ぽすん、とレオンの腰のあたりに頭をくっつけた。小さな動物が、甘える仕草だった。
レオンは、ちょっと驚いて、シエラを見下ろした。彼女は、寝ぼけきった顔で、レオンのエプロンの裾を、ちょこんと摘んでいた。
「……シエラちゃん?」
「……あったかい、のがね、いい匂いなのって、久しぶり、だった」
ぽつり、と、シエラが言った。
「お母さんが、いなくなってから」
「——」
「朝に、ごはんの匂いが、する家じゃ、なかったから」
レオンは、手に持っていたお玉を、そっとテーブルに置いた。
そして、しゃがんで、シエラと目の高さを合わせた。
「今日から、する家だよ」
シエラは、ぱちくり、と目を瞬いた。
「うん?」
「毎朝、ごはんの匂いがする家に、なるよ。僕が、作るから」
「毎、朝?」
「うん。毎朝」
シエラは、レオンの顔を、しばらく、ぼんやり見ていた。
それから、ゆっくり、にこ、と笑った。
それは、花が開くような、朝の一番最初の、柔らかな笑顔だった。
「——うん」
「お手伝い、する」
「手、洗ってきてね」
「うん!」
シエラは、ぱたぱた、と水場の方へ駆けていった。レオンは、その後ろ姿を見送って、小さく、ふっと息を吐いた。
——『帰りたくなる家』、か。
叔母の手紙に、一言だけ、そう書いてあった。
『あのギルドを、誰かにとっての、帰りたくなる家にしてほしい』
あの軽薄な叔母が、真面目に書いた、たった一行。
レオンは、エプロンの裾を握り直した。
そして、もう一度、お玉を取って、スープをかき混ぜ始めた。
---
朝食の席には、四人が揃った。
食堂の長テーブルの、一番奥の席にアイリス。その隣にシエラ。少し離れて、ルル。一番手前に、レオン。
ルルは、地下工房から這い出してきた時、煤で顔が真っ黒だった。シエラに「だめだよ、ルル姉ちゃん、顔洗ってから!」と叱られ、しぶしぶ水場で顔を洗ってから、戻ってきた。
「——スープの味」
ルルは、一口、すする。
「うまい」
「ありがとう、ルルちゃん」
「茸、効いてる。出汁の使い方が、合理的だ」
「料理を合理で評価するの、ルルちゃんくらいだよ」
「合理が美味い。異論は、認めない」
ルルは、もう一口、スープをすすった。
シエラは、両手でスプーンを持って、ちびちび、と飲んでいた。一口ごとに、「おいしい……」と、小さく呟く。
アイリスは、黙ってパンをちぎり、スープに浸していた。食べる速度は他の三人より遅く、けれど、黙々と、一口ずつ、確実に胃に収めていた。
やがて、皿が半分ほど空になった頃、アイリスは、ふと、顔を上げた。
「——レオン」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。
レオンは、パンを口に運ぶ手を止めて、アイリスを見た。アイリスは、視線を合わせず、スープの皿の中を見つめたまま、続けた。
「午後、街に行くんだろう」
「はい。借用書の確認と、市場の下見に」
「私も、ついていく」
「え、いいんですか?」
「お前、まだ、この街の勝手を知らん。案内がいる」
「ありがとうございます。助かります」
「——別に、お前のためじゃない。ギルドの代表が、舐められるのは、私も困る」
「はい」
「だから、ついていくだけだ」
「はい」
アイリスは、ちらり、と視線を上げて、レオンを睨んだ。レオンは、にっこり、笑った。アイリスは、すぐに視線を逸らして、パンをまた、スープに浸した。
シエラが、ちびちび、とスープを啜りながら、横目でアイリスを見た。そして、ふふ、と、声を出さずに笑った。アイリスは、その視線に気づいて、顔を赤くした。
「——何を笑っている、シエラ」
「べつに、何も〜」
「何もだと!?」
「アイリスお姉ちゃん、優しいなあ、って」
「優しくない!」
「優しいよ?」
「優しくない!!」
ルルが、ぽつりと言った。
「アイリスは、優しい。論理的に、観察した結果だ」
「お前まで黙ってろ、ルル!」
朝の食堂に、アイリスの声が響き渡った。
レオンは、パンを口に運びながら、小さく、笑った。
---
食後の片付けを済ませて、レオンは二階へ上がった。
午前中の、もう一つの仕事——掃除である。
二階の廊下は、昨日、アイリスの魔法の余波で、ところどころ壁が焦げていた。廊下の床板も、数枚、割れたり外れたりしている。これは、すぐには直せないにしても、少なくとも、埃と煤だけは落とさなければならない。
レオンは、箒とバケツと雑巾を持って、廊下の端から、こつこつと作業を始めた。
午前中の陽射しが、割れた窓ガラスから斜めに差し込んで、舞い上がる埃を金色に染める。その中を、レオンは黙々と、箒を動かしていく。
「——あのね、お兄ちゃん」
いつの間にか、後ろに、シエラが立っていた。
三つ編みを結い直し、動きやすそうなエプロンドレスに着替えて、小さなバケツを抱えている。ぱちぱち、と、期待と不安の入り混じった目で、レオンを見上げていた。
「手伝っても、いい?」
「もちろん。助かるよ」
「うん、えへへ」
シエラは、ぱあ、と笑って、レオンの隣でしゃがんだ。小さな手で雑巾を絞り、レオンの掃き清めた後を、丁寧に拭いていく。
ふたり並んで、しばらく、黙々と作業した。
箒の音と、雑巾を絞る音。窓の外で、小鳥が一羽、遠く鳴いている。——穏やかな、とても穏やかな、朝の時間だった。
やがて、シエラが、ぽつりと言った。
「——お兄ちゃん」
「うん」
「今日、お昼の後、街に、出かけるの?」
「うん。アイリスさんと一緒に、借金のことと、あと、明日からの食材の買い出しをしてくる予定」
「……そう」
シエラは、少しだけ、手を止めた。雑巾を握ったまま、しばらく、俯いていた。
レオンは、気づかないふりをして、箒を動かし続けた。急かさず、待った。
やがて、シエラは、小さな声で、訊いた。
「お土産、ある?」
「——」
レオンは、箒を動かす手を、ゆっくりと止めた。
そして、しゃがんで、シエラと目の高さを合わせた。
「何か、欲しいものがあるの?」
「ううん、ううん、そうじゃ、なくて」
シエラは、慌てて首を振った。
「お土産があるって、こと、それだけで、なんか、嬉しいなって、思っただけで」
「——」
「だって、誰かが、外に出かけて、私のことを、ちょっと考えて、帰ってきてくれる、って」
シエラは、雑巾をぎゅ、と握り直した。
「それが、すごく、嬉しいから」
レオンは、しばらく、黙って、シエラを見ていた。
それから、箒を床に立てかけて、シエラの頭を、ぽん、と撫でた。
「何が好き?」
「え?」
「甘いもの? しょっぱいもの? 果物?」
「……甘いもの」
「じゃあ、甘いものを、探してくるね」
「うん」
「ついでに、アイリスさんにも、ルルちゃんにも、何か買ってこようかな」
「……お兄ちゃん、お金、大丈夫?」
「うん。一人あたり、そんなに高くないものを探せば、なんとかなる」
「……うん」
シエラは、ふにゃ、と笑った。
それから、また、雑巾を動かし始めた。雑巾の動きが、さっきより、少しだけ、軽やかだった。
レオンは、箒を取り直した。
——誰かに、『ちょっと考えて』帰ってきてほしい、とシエラは言った。
——それは、ずっと、誰にもされてこなかった、ということなのだろう。
レオンは、箒を動かしながら、静かに考えた。
彼女の、ぎこちない笑顔。臆病さ。人に甘えるのが下手なのに、時々、ぽろりと甘え方を知らない甘え方で甘えてくる、あの不器用さ。
何かが、あるのだろう。
まだ、自分の知らない、シエラの過去が。
今すぐ、全てを訊くつもりはなかった。彼女が、話したくなった時に、ゆっくり、聞けばいい。
ただ——この朝から、もう、この子は、『ちょっと考えてもらえる』子に、なった。それでいい、と、レオンは思った。
---
昼前、レオンが二階の廊下の半分を掃除し終えた頃。
地下工房の方から、ずしん、と、今朝三度目の爆発音が響いた。
レオンは、箒の手を止めて、天井を見上げた。
「……ルルちゃん、また何か、爆発させたな」
シエラが、やれやれ、というふうに、ぷっくり頬を膨らませた。
「もう、ルル姉ちゃん、朝からずっと、あの調子だよぉ」
「なんの発明、なんだろうね」
「さあ……。でも、前に聞いた時はね、『踏破くん』っていう、迷宮を勝手に探検してくれるロボットを作ってる、って言ってた」
「ロボット」
「うん、お兄ちゃん、知ってる?」
「知識としては。ギルド運営には、すごく助かる発明だと思う」
「爆発しなければね」
「爆発しなければ、だね」
ふたりは、顔を見合わせて、くすくす、と笑った。
地下から、ルルの「——成功した」という、やや苛立ちを含んだ声が、うっすら響いてきた。
「またか」
「また、だね」
「——うん。さて、そろそろ、お昼の準備をしようか。午後の外出の前に、昼食を軽く」
「お手伝いする!」
シエラが、元気よく、雑巾をバケツに放り込んだ。
二人は、階段を降りていった。
---
昼下がり。
レオンとアイリスは、ギルドの玄関先で、外出の準備をしていた。
アイリスは、純白の制服の上に、街歩き用の濃紺のローブを羽織っていた。腰の剣は置いてきて、代わりに細身の短剣を一本、腰帯に差している。髪を、朝よりもきちんと結い直して、寝癖は既になかった。
レオンは、ボロシャツの上に、穴のないマシな方のシャツを重ね着した。ズボンも、ちゃんとしているものに履き替えてある。
「——お出かけ」
玄関の扉のところに、シエラが立っていた。
白い手を、きゅ、と胸の前で組んで、上目遣いにレオンを見ている。
「いってらっしゃい、お兄ちゃん」
「いってきます、シエラちゃん」
レオンは、しゃがんで、シエラの頭をぽん、と撫でた。
「留守番、よろしくね」
「うん、ルル姉ちゃんと、エレーナお姉ちゃんと、ちゃんと待ってるよ」
「——そうだ、エレーナさん、朝、見なかったね」
アイリスが、横から、ふん、と息をついた。
「あの女は、昼過ぎまで寝てる。昨夜は酒場にいた」
「そうなんですね」
「お前が管理人になったこと、ぜんぜん気づいてないんじゃないかな」
「……後で、ちゃんと挨拶しないと」
「不要だ。向こうから来る。気が向いた時に」
アイリスは、しれっと言った。
そして、ふと、シエラを見た。
「——シエラ」
「はいっ」
「留守番、頼んだぞ」
「はい、お姉ちゃん」
「それから」
アイリスは、ほんの少しだけ、躊躇った。
そして、ふい、と目を逸らしながら、続けた。
「——お前の、好きな、あの、甘いパンの店」
「?」
「今日、私とレオンで、通る予定だから」
「……え」
「だから——一個、買ってきてやる」
シエラが、ぱち、と目を瞬いた。
それから、ぱあ、と顔が明るくなった。花が咲くように、いっぺんに明るくなった。
「——ほんと!? アイリスお姉ちゃん!」
「ただし、安い方の、小さい方だぞ」
「うん、うん、それでいい、それでいい!」
「喜ぶな、そんなに!」
「だって、だって、嬉しいもん!」
シエラが、ぴょん、と飛び上がった。
アイリスは、ぷい、と顔を背けて、早足で玄関を出て行こうとした。
レオンは、その横顔を見た。
アイリスの耳の先が、また、ほんのり、赤かった。
「——アイリスさん」
「なんだ」
「僕も、シエラちゃんに、同じもの買おうかと思ってたんです」
「……そうか」
「じゃあ、僕は、別のお菓子を買いますね」
「……そうしろ」
アイリスは、早足で、先に歩き出した。
シエラが、玄関の前で、ぶんぶんと手を振った。
「いってらっしゃーい! お兄ちゃーん! アイリスお姉ちゃーん!」
レオンは振り返って、シエラに手を振り返した。それから、アイリスの背中を追って、午後の街へ歩き出した。
---
迷宮都市ルミナリアは、昼下がりの光に満ちていた。
ギルドの丘を降りれば、すぐに商業区。石畳の通りの両側には、木造と石造りの混ざった二階建て、三階建ての店が並び、軒先にはパン屋の黒板、肉屋の吊るし、織物屋の色とりどりの反物。人が、思ったよりも多い。
「——まず、冒険者組合だ」
アイリスが、肩越しに言った。
「借用書の期日を確認する」
「はい」
「次に、食料の市場。夕方になると、今日の売れ残りが割引になる時間帯がある」
「なるほど」
「甘いパンの店は、帰り道の方角にある。覚えておけ」
「はい」
レオンは、素直に頷いた。
アイリスは、早足で、けれど、時々ちらりと肩越しにレオンの方を確認しながら、街を歩いた。レオンが迷わないよう、気にかけているのが、はっきり分かった。けれど、口では「来い」「遅いぞ」としか言わなかった。
「——アイリスさんは、この街、長いんですか」
レオンが、歩きながら訊いた。
アイリスは、少しだけ、答えるのをためらった。
それから、短く、答えた。
「三年、だ」
「そうですか」
「元は、違うギルドにいた」
「はい」
「そこで、色々あってな」
それだけだった。
アイリスは、それ以上、何も言わなかった。
レオンも、それ以上、何も訊かなかった。
街角を曲がった先に、冒険者組合の看板が見えた。石造りの、がっしりとした建物。入口には、Aランク以上の依頼の貼り紙がずらりと並んでいる。
「——借用書は、私が説明する」
アイリスが、扉の取っ手に手をかけた。
「お前は、横で頷いておけ」
「はい」
「それから、担当官が何か無礼なことを言っても、お前は、黙っていろ」
「はい」
「私が、全部、黙らせる」
アイリスは、ふん、と息をついて、扉を押し開けた。
その背中を見ながら、レオンは、そっと笑った。
——やっぱり、優しいんだな。
心の中だけで、呟いた。
---
組合の用事を済ませて、市場を回り、甘いパン屋で三つ——シエラの小さいのと、レオンが選んだ、アイリスの好きそうな蜂蜜味と、ルル用に丸ごと固い歯応えのあるもの——を買って。
ギルドの丘を、二人でゆっくり登っていた。
夕陽が、ルミナリアの街並みの向こう、スターフォール・アビスの縁に触れかけていた。
帰路の丘の途中で、アイリスが、ふと足を止めた。
「——レオン」
「はい」
「今朝は、——悪かった」
「え、何がですか」
「石柱に寄りかかって、いきなり、借金の話を、したことだ」
「ああ」
「朝一番に、聞かせる話じゃ、なかった」
「いえ、別に」
「いや、悪かった」
アイリスは、夕陽を見つめたまま、頑固に言った。
レオンは、両手に下げたパンの包みを、ちょっと持ち替えた。
「アイリスさん」
「なんだ」
「僕、あの話、聞けて、よかったと思ってます」
「——」
「あなたが、このギルドを、最後まで見捨てなかった人だ、って、分かったから」
アイリスは、しばらく、無言だった。
夕陽が、彼女の銀髪を、ほのかに赤く染めていた。
やがて、彼女は、小さく、息を吐いた。
「——お前は」
「はい」
「時々、びっくりするような、ことを、言う」
「そうですか?」
「そうだ」
「すみません」
「謝るな」
「はい」
「褒めてる訳でも、ない」
「はい」
「けなしてる訳でも、ない」
「はい」
アイリスは、また、夕陽を見た。
それから、ぽつりと、呟いた。
「——帰ろう」
「はい」
「シエラが、待ってる」
「はい」
二人は、ゆっくりと、丘の道を登った。
古城の門のところで、白い旗のようにシエラが両手を振っているのが、もう、見えていた。
---
その夜。
食堂には、四人分の夕食が並んでいた。
昼に市場で買ってきた、少し傷の入った野菜。安くなっていた鶏の骨付き肉。乾燥豆。それだけでも、昼よりはずっと豪勢な食卓だった。
アイリスが、いつもの奥の席に。
シエラが、その隣で、三つ編みの端を嬉しそうに跳ねさせている。
ルルが、今日はちゃんと顔を洗って、煤もついていない状態で席に着いている。
そして、レオンが、手前の席に。
食後、レオンが、買ってきた甘いパンの包みを、テーブルの真ん中に置いた。
「——シエラちゃんに、小さいの」
「ありがと、お兄ちゃん! ありがと、アイリスお姉ちゃん!」
「お礼は、いらん」
「アイリスさんに、蜂蜜のを」
「——」
アイリスが、目を丸くした。
「これ、私の分か」
「はい。好きかなって、思って」
「——」
「嫌でしたか?」
「……嫌じゃ、ない」
アイリスは、蜂蜜のパンを、そっと両手で受け取った。包み紙の端を、几帳面に、丁寧に開いた。
その手つきは、ひどく、慎重だった。
彼女が、人から贈り物を受け取ることに、たぶん、あまり慣れていないのだと、レオンには分かった。
「——美味そうだ」
ぽつりと、アイリスは言った。
それだけ、だった。
けれど、それだけで、充分だった。
「ルルちゃんには、固いやつ」
「ふむ」
ルルが、顎に手を当てた。
「歯応えが、論理的。奥歯に、ちょうど良い負荷。合理的な選択だ、マスター」
「なにそれ、ルル姉ちゃん」
「パンの評価だ、シエラ」
「——褒めてるの?」
「褒めている」
食堂に、小さな笑い声が、重なった。
レオンは、自分の手元に、一番小さなパンの切れ端を取って、そっと齧った。
甘かった。
買ってきたパンの甘さとは、たぶん、違う甘さだった。
食堂の暖炉の火が、ぱち、と小さく爆ぜた。窓の外では、スターフォール・アビスの青白い光が、夜空に星を描き始めていた。
「——レオン」
アイリスが、蜂蜜のパンをちぎりながら、ぽつりと言った。
「明日の朝食は、何を作るんだ」
「まだ、決めてません。材料を見ながら、工夫します」
「——そうか」
「楽しみにしてていいですよ」
「別に、楽しみには、してない」
「はい」
「——ただ、朝に、食堂に、下りるだけだ」
「はい」
「いつもと、同じだ」
「はい」
アイリスは、ぷい、と視線を逸らして、パンをちぎった。
けれど、その唇の端が、ほんの少しだけ、上がっていた。
シエラが、甘いパンを両手で大事に抱え、幸せそうに、一口ずつ齧っている。ルルが、固いパンを奥歯でバリバリ噛み砕いて、「合理的だ」と繰り返している。
レオンは、その光景を、静かに眺めた。
——『帰りたくなる家』、か。
叔母の一言を、もう一度、胸の中で反芻した。
まだ、遠い。
ボロボロの古城。借金三十万ルナ。街には、闇ギルドの気配。迷宮の底には、幼き日の『約束』。
問題は、山積みだった。
けれど。
今朝の食卓。シエラの「お土産」への笑顔。アイリスの、蜂蜜のパンを受け取る、慎重な指先。ルルの、合理的な咀嚼音。
——少なくとも、今日、この食堂は、たしかに、あたたかかった。
それで、充分だった。今日は、充分だった。
レオンは、小さく、笑って、小さなパンを、もう一口、齧った。
管理人としての、二日目の夜が、ゆっくり、更けていった。
第二話 了
カクヨムにも投稿中です!




