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『翠緑の知恵と、茶屋の灯』

レオンは早めに朝食を済ませてギルドを出た。


街の北西、坂を一本上がった先に『翠緑の風』のギルド舎があった。緑の蔦が壁を覆い、屋根に風見鶏が回っている。Cランクのギルドとして二十年、街でもっとも古参の冒険者ギルドの一つだった。


正面の扉を叩くと、若い女性の冒険者が出てきた。


「あ、ステラ・レギアの管理人殿」


「お忙しいところすみません。ディアナ殿にお時間をいただきたいのですが」


「お話は伺っております。マスターは中庭でお待ちです」


中庭には小さな木製の円卓があり、ディアナ・ヴェント本人が紅茶を淹れているところだった。三十代後半。栗色の髪を編み込んで肩に流し、革のジャケットに緩いズボン。剣士のなりだが立ち振る舞いは商人寄りの落ち着き。


「来たね、レオン殿」


「お時間ありがとうございます」


「座って。紅茶どうぞ」


レオンが向かいに座ると、ディアナはカップを差し出した。


「使者を寄こしたのは昨日の夕方だった。だから内容はもう察してる」


「察しが早くて助かります」


「アルフレート殿から祝賀会の招待。執行部筆頭直々の主催。明後日午後二時」


「はい」


「で、目的は」


レオンは紅茶のカップを両手で包んでゆっくり頷いた。


「移籍の打診と、断った場合の組織的圧力の予告」


ディアナが軽く目を見開いた。


「断った場合の予告まで把握してるの」


「内通者がいます。詳細はお話できませんが」


「賢明だね、伏せておくのは」


ディアナは紅茶を一口啜った。


「私のところに来たってことは、私の経験を聞きたいってことよね」


「はい」


「『翠緑の風』が二十年Cランクで独立を保ってきた理由」


「教えていただきたいです」


ディアナはしばらく中庭の木々を見上げていた。それからゆっくり話し始めた。


---


「単純な話、独立を保つには三つの条件が要る」


ディアナは指を一本ずつ立てた。


「一つ。組織が単独で生き延びられる安定した収入源を複数持つこと」


「『仕組み』ですね」


「そう。あなたが私の言葉を覚えていてくれて嬉しいわ」


「はい」


「二つ目。街の中で利害が一致する仲間ギルドを複数持つこと」


「友好ギルド」


「『斜陽の盾』と『虎牙の商隊』。あなたたちもう持ってるね」


「はい」


「三つ目。組合の支部長と太いパイプを持つこと」


「ブランドル殿」


「先日のガレッリの件で、あなたとブランドル殿の関係は街でもっとも強固な水準に達した」


ディアナはふっと笑った。


「つまりステラ・レギアは独立を保つための条件を三つとも揃えてる」


「そうなんですか」


「驚いた? 自覚なかった?」


「条件として整理されると改めて気づきます」


「それが大事よ。自覚しないと戦えない」


ディアナはカップを置いた。


「ただしね」


「はい」


「この三条件は『独立を保つ』ための条件であって、『Aランクのギルドの圧力を跳ね返す』ための条件じゃない」


「足りない、と」


「足りない。Aランク相手にはもう一つ必要」


「何ですか」


ディアナは目を細めてレオンを見た。


「『相手にとっての利益』を提示すること」


「利益」


「アルフレート殿は組織の人だ。組織の人は損得で動く。だから彼を動かすには、彼の損得計算の中で、ステラ・レギアを傘下にするより独立のままにしておく方が利益が大きいと思わせるしかない」


「具体的には」


「あなたの提案、聞かせて」


レオンはカップを置いて、昨日まとめた『対等の協力関係』案をディアナに説明した。


ディアナはじっと聞いていた。聞き終わってからしばらく考えた。


「悪くない」


「悪くない、ですか」


「ただこれだけだと向こうにとっての利益が見えにくい。『対等の協力関係』はこっちにとっての利益は明確だけど、相手側の利益が抽象的すぎる」


「具体的にすべき、と」


「そう。アルフレート殿に『なるほど、ステラ・レギアを傘下にしないほうが自分の組織にとって得だ』と思わせるだけの具体的な何かを提示する必要がある」


「何を提示すれば」


ディアナはしばらく腕を組んだ。


それからぽつりと言った。


「『情報』」


「情報、ですか」


「ステラ・レギアにしか持てない情報を提供する代わりに独立を保つ」


「『沈み鐘』の」


「そう。あなたたち『始原の民』の遺物の調査で、組合からも特別な扱いを受けている。零式の動力源も組合の魔道具研究部門と協力協定を結んでる」


「はい」


「『天界の盾』はここ半年その手の遺物に関心を持ってるらしいわね」


「ご存じなんですか」


「街のギルドマスターは皆、何となく察してる。アルフレート殿の動きは半年前から明らかに変わった」


「もしステラ・レギアが自分たちの調査の一部の情報を、対等の関係として『天界の盾』と共有するなら、彼にとって傘下にして無理矢理取り上げるより、対等の関係で得る方が長期的には得だ」


「情報の質が落ちないから、ですか」


「賢いね。その通り」


ディアナは頷いた。


「組織の中に取り込まれた研究者は組織の意向に縛られる。けれど独立した協力者は自分の判断で純粋に情報を生み出し続ける」


「学術機関と企業のような関係」


「そう。そして長期的には独立した協力者から得る情報の方が価値が高い」


レオンはしばらく考えた。


「ですがそれを提示するには『始原の民』に関する情報をある程度こちらが持っていると明かす必要があります」


「明かすのは最小限にする。具体的な内容は『お互い対等の協力関係になれば共有可能なものから順次』と濁す」


「焦らす」


「焦らす。情報の価値は相手が『欲しいけど得られていない』状態で最大化する」


「商人の知恵ですか」


「商人ギルドと付き合いがある冒険者ギルドの知恵」


ディアナは笑った。


レオンは深く頷いた。


「『情報の対等の交換』これを提案の中核に据えます」


「それでたぶん五分五分が六対四くらいにこちら側に傾く」


「五分五分よりはましです」


「あなたたちならそこからもう少し押せるはず」


ディアナはカップに紅茶を注ぎ足した。


「ところでねレオン殿」


「はい」


「もし最悪アルフレート殿が激怒して組織的圧力をかけてきたら」


「その時は」


「『翠緑の風』も『斜陽の盾』も『虎牙の商隊』も皆あなたたちの側に立つわよ」


レオンはしばらくディアナの目を見つめていた。


「ディアナ殿」


「うん」


「それは『翠緑の風』もリスクを負うということですよね」


「Cランクのギルドが、Aランクの『天界の盾』と対立するってことね」


「はい」


「皆で立てばAランクも簡単には潰せない」


ディアナは静かに言った。


「街は独立した複数のギルドで成り立ってる。一つのAランクが他を全部呑み込んだら、街はもう街じゃなくなる」


「私はこの街で二十年生きてきた。この街が街じゃなくなる方が私は嫌だ」


レオンは深く頭を下げた。


「ディアナ殿」


「お礼はまだ早い。明日きちんと生き延びてから言って」


「はい」


「祝賀会で何かあれば伝書鳩を飛ばしなさい。すぐ駆けつける」


「お願いします」


レオンはもう一度深く頭を下げた。


ディアナがふっと笑った。


「ステラ・レギア、頑張りなさい」


「はい」


レオンは『翠緑の風』を後にした。


中庭の木々がさらさらと音を立てて、彼を見送った。


---


午後。


レオンはギルドに戻り、ディアナとの話の内容をアイリスとルル、エレーナに共有した。


『情報の対等の交換』を提案の中核に据えるという戦略の修正。


ルルがぽくぽくと頷いた。


「合理的な強化。我々の独自情報を交渉カードとして使う」


「ただし本当に出す情報は最小限にする」


「合理的な情報管理」


エレーナがワインを傾けながら言った。


「『始原の民』の話はあたしの一族の記録にあるからな。少しずつ出す分には構わない。あくまで『協力関係の中で対等に共有する』形なら」


「ありがとうございます」


「ただしあたしの『役割』を捨ててここにいるという個人的な事情は出さないでくれ」


「もちろんです」


「それはあたしと少年と皆の間だけの話だ」


エレーナはふっと笑った。


アイリスが机の上で両手を組んだ。


「夜リーゼに会いに行く」


「その線も忘れずに」


「あちらから何が出てくるか夜には共有する」


「お願いします」


夕方になった。


アイリスは普段の制服ではなく、街の女性風の落ち着いた紺のドレスに着替えた。剣は持たない。代わりに護身用の短刀を一本ガーターベルトに忍ばせていた。


「お姉ちゃん綺麗」


シエラが目を丸くした。


「街で変装ね」


「変装じゃない。いつもの格好では目立つから」


「うんでも綺麗だよ」


「ありがとう」


アイリスは小さく笑った。


「行ってくる」


「いってらっしゃい」


レオンは玄関までアイリスを送った。


「気をつけて」


「お前の方こそ留守番頼んだ」


「はい」


「夜戻ったらリーゼから聞いた話共有する」


「待ってます」


アイリスは坂をゆっくり降りていった。


夕陽が彼女の長い赤い髪をぼんやり染めていた。


---


街の南地区。


『茶屋ベルティーナ』。


ルミナリアの古い茶屋で、街の女性たちが仕事帰りに立ち寄るこぢんまりとした店だった。木造二階建て、看板に小さな鈴がついていて、扉を開けるとちりんと鳴る。


アイリスが店に入った時、夕方の客はまばらだった。


二階の窓際の席に若い女性が一人で座っていた。


肩までのまっすぐな金髪。淡い緑のワンピースにベージュのカーディガン。仕事帰りの『天界の盾』の制服のままではなかった。彼女もまた変装してきていた。


リーゼ・ヴェラントが振り返ってアイリスを見た。


その瞬間、彼女の目がぱっと潤んだ。


「アイリスさん」


「リーゼ」


二人は無言でしばらく見つめ合った。


それからリーゼが立ち上がってアイリスに駆け寄り、ぎゅっと抱きついた。


「お久しぶりです」


「うん」


「三年ぶり」


「うん」


アイリスはリーゼの背中をそっと撫でた。


しばらくの抱擁の後、二人は窓際の席に向かい合って座った。


リーゼが涙を拭いて、すぐに事務的な顔に切り替えた。彼女は『天界の盾』の幹部としての訓練を受けている。ここからは感傷ではなく情報の交換。


「あまり長居はできません」


「分かってる」


リーゼはハンカチで一度目元を拭った。


「アルフレート様の明日の動きを共有します」


「お願い」


「祝賀会は本部の大広間。出席者は街の主要ギルドのマスター約十名、商人ギルド連合の代表三名、組合のブランドル支部長」


「組合の支部長も?」


「はい。アルフレート様はブランドル様の前でステラ・レギアと正式な合意を結ぶつもりです」


「合意」


「『天界の盾』とステラ・レギアの『協力協定』。これをブランドル様を立会人にして書面で交わす」


「中身は」


「表向きステラ・レギアが『天界の盾』の傘下に入るという形ではありません」


「『協力協定』ね」


「はい。ですが内容を読むと、ステラ・レギアの主要な意思決定に『天界の盾』が事前承認権を持つ条項が複数入っています」


「事実上の傘下化」


「形式は対等、実態は従属」


アイリスは深く頷いた。


「アルフレート殿、さすがの手口だ」


「はい」


「もしステラ・レギアがその場で署名を拒否したら」


「その場で追加の圧力。会場には『天界の盾』の幹部が複数います。彼らがステラ・レギアの一行を取り囲んで、事実上の軟禁状態で説得を続ける」


「監禁だなそれは」


「形式的には『話し合い』の継続と言い張るでしょう」


「いつまで続ける?」


「ステラ・レギアが折れるまで」


「私たちは折れない」


「ええ折れないと、私もアイリスさんも信じています」


リーゼは紅茶を一口啜った。


「ですがその『話し合い』の最中、街では別の動きが始まります」


「別の動き?」


「『天界の盾』の傘下ギルド網がステラ・レギアの取引先に一斉に圧力をかけ始めます」


アイリスが目を細めた。


「メリオン交易会」


「と街の薬師ギルド。それから職人組合のガロン親方の取引先」


「主要な収入源すべてだな」


「はい。ステラ・レギアが折れない場合、その夜のうちに街中で『ステラ・レギアとの取引は危険』という噂が広がります」


「『天界の盾』の組織力で噂を意図的に広げる」


「半年間で六ギルドを傘下にしたアルフレート様の得意な手口です」


アイリスはしばらく沈黙した。


それからぽつりと訊いた。


「リーゼ。あなたはこの情報をなぜ私たちに流すの」


リーゼは紅茶のカップを置いた。


「アイリスさん」


「うん」


「私は『天界の盾』に十年いました。ユーリス先生にお仕えして五年、先生がお亡くなりになってから五年」


「うん」


「先生がお亡くなりになる前、私にこう仰ったんです」


「何と」


「『リーゼ。組織は時に組織のために人を消費する。お前は組織より人を選べ。そういう生き方を貫いてくれ』と」


リーゼの目がまた潤んだ。


「先生の最期の言葉これだったんです」


アイリスはしばらく無言だった。


リーゼは続けた。


「先生がお亡くなりになった事故、アルフレート様の指示で安全装置を外した結果起きたんです」


アイリスの拳がテーブルの下でぎゅっと握られた。


「証拠は」


「直接の証拠はない。けれど当時の現場記録とアルフレート様の指示書、私が密かに集めて保管してます」


「アイリスさんが三年前にギルドを去った後、私は『天界の盾』の中に残って証拠を集め続けてました」


「リーゼ」


「私が今ステラ・レギアの側に情報を流しているのは先生の言葉を守るためです」


リーゼの声は震えていた。


「組織のために人を消費するアルフレート様の動きを止める。それが先生への最後の恩返しです」


アイリスはしばらくリーゼの目を見ていた。


それから深く頷いた。


「リーゼ。一つ聞いていい?」


「はい」


「あなたが集めた証拠、明日祝賀会で提出できる?」


リーゼはしばらく考えた。


「タイミングが問題です」


「タイミング?」


「アルフレート様が公の場でステラ・レギアに対して『組織的圧力』の存在を、例えば軟禁状態を続けるというような形で明確に示した瞬間」


「うん」


「その瞬間にブランドル支部長の前で私が証拠を提出する」


「『天界の盾』の組織的体質を組合の正式記録に残す」


「はい」


「そうすればアルフレート様はユーリス先生の事故の真相も含めて調査対象になる」


「リーゼ、あなたそれをやったら『天界の盾』に居場所がなくなる」


「分かってます」


リーゼは静かに微笑んだ。


「居場所がなくなっても先生の言葉を守れたら私はそれで満足です」


アイリスはしばらく何も言えなかった。


それからゆっくり手を伸ばしてリーゼの手をぎゅっと握った。


「リーゼ」


「はい」


「明日の後『天界の盾』を出ることになったら」


「はい」


「ステラ・レギアに来なさい」


「あなたを迎える」


リーゼの目から、ぽろりと涙がこぼれた。


「ありがとうございます」


「礼は明日生き延びてから」


「はい」


二人はしばらく手を握り合っていた。


茶屋の鈴がちりんと鳴った。新しい客が入ってきた音だった。


リーゼは慌てて目元を拭いた。


「私はもう戻ります。今夜本部に戻る時間を遅らせると怪しまれるので」


「うん」


「明日本部の玄関でアルフレート様の隣に私もいます」


「分かった」


「私からは合図を送りません。ステラ・レギアが自分たちの判断で独立を貫いた、その瞬間に私が証拠を出します」


「了解」


リーゼは立ち上がって深く頭を下げた。


「失礼しますアイリスさん」


「リーゼ。気をつけて」


「アイリスさんも」


リーゼは茶屋を出ていった。


アイリスはしばらく窓の外の街並みを見ていた。


夕暮れの空がゆっくり夜に変わりつつあった。


師の声が十年越しに後輩の口からもう一度聞こえた気がした。


『組織より人を選べ』


「先生」


アイリスは小さく呟いた。


「私とリーゼはその教えをちゃんと守ろうとしてます」


紅茶のカップはもう冷めきっていた。


けれどアイリスはそれを最後まで飲み干した。


師が好きだった味だった。


---


ギルドに戻った時、夜の十時を回っていた。


食堂ではレオン、ルル、シエラ、エレーナがまだ起きて待っていた。


「お姉ちゃんおかえり!」


シエラが駆け寄ってきた。


「ただいまシエラ」


アイリスはシエラの頭を撫でて、食堂の椅子に座った。


エレーナがすぐに温かいスープを運んできた。


「リーゼどうだった」


「予想以上の情報が出た」


アイリスはスープを一口飲んでから、リーゼと共有した内容を淡々と話した。


祝賀会の場での『協力協定』署名計画。事実上の傘下化条項。署名拒否時の軟禁状態と、街での同時並行の取引先への圧力。そして——


リーゼがユーリス先生の事故の真相を密かに調べ続けていたこと。明日ステラ・レギアが独立を貫いた瞬間、彼女が証拠をブランドル支部長の前に提出するという決意。


食堂が長い沈黙に包まれた。


レオンがぽつりと訊いた。


「リーゼさん、『天界の盾』に居場所がなくなる」


「うん」


「私彼女にステラ・レギアに来なさいと言った」


「これは管理人の頭を飛び越して決めてしまった。すまない」


レオンはしばらくアイリスの真紅の瞳を見ていた。


それからふっと笑った。


「アイリスさんが言ってくれてよかったです」


「うん?」


「もし僕が言えばアイリスさんとリーゼさんの十年の関係に、僕が割り込む形になります」


「でもアイリスさんがあなた自身の口で言ってくれた。これはリーゼさんにとって一番嬉しい言葉です」


アイリスはしばらくレオンを見ていた。


それからぷいっと顔を背けた。


「お前本当に時々」


「はい?」


「いやいい」


ルルがぽくぽくと頷いた。


「合理的な戦力増強。リーゼ・ヴェラントは『天界の盾』の元幹部、十年の経験を持つ。ステラ・レギアにとって戦力的にも知識的にも大きな加入」


「そう思います」


エレーナがワインを傾けた。


「明日が終わったら、あたしの占星台で新しい家族の入隊式やろうかね」


「はい」


シエラが両手をぎゅっと握った。


「リーゼお姉ちゃんのお部屋シエラがお花飾る!」


「うん頼んだよ」


レオンは深く頷いた。


それからディアナとの話で得た『情報の対等の交換』という戦略の修正案を、アイリスに共有した。


アイリスは深く頷いた。


「ディアナ殿の知恵だ。さすがだな」


「はい」


「『情報の対等の交換』を中核に据えれば、アルフレートが激怒する確率は確かに下がる」


「ただし」


「ただしリーゼが言った通り、彼の本当の狙いは『協力協定』の署名で事実上の傘下化だ。我々が情報の対等の交換を提案しても、彼は『協力協定の中に情報共有条項を盛り込もう』と返してくる可能性が高い」


「条項に組み込まれた瞬間対等じゃなくなる」


「そう」


「だから署名は断る」


「断る」


「断った時点で彼が組織的圧力をかけ始める」


「そうしたらリーゼが証拠を出す」


「そしてブランドル支部長が動く」


「ディアナ殿、ザッシュ殿、グラント殿も伝書鳩で連絡すれば駆けつけてくれる」


レオンは深く頷いた。


「明日の流れ見えました」


「うむ」


「攻めるのは僕とアイリスさん。守るのはシエラちゃんとルルちゃんと零式と踏破くんたち。情報を読むのはエレーナさん」


「いつもの編成だ」


「ありそしてリーゼさんを最後に守る」


「うん」


「彼女が証拠を出した瞬間、彼女は『天界の盾』の中でもっとも危険な立場になる」


「だからその瞬間にステラ・レギアが彼女を背中に抱える」


「肉壁としてですか」


「お前今度こそ肉壁の本領発揮だ」


アイリスはふっと笑った。


「肉壁が二人の女を後ろに抱える」


「アイリスさんもですか」


「私も明日はリーゼと一緒にお前の後ろに立つ」


「いいか?」


レオンは深く頷いた。


「もちろんです」


---


夜十一時。


各自就寝の準備に入った。


レオンは自分の部屋に戻って、机の上に明日の装備を丁寧に並べた。


胸ポケットに四つの形見と、ユーリス先生の信念の腕章。


肩当てにはもう、銀色の魔道具は入れない。あれは引き出しの中、形見として休ませる。


代わりに護身用の短刀を一本、ベルトに忍ばせる。


そして革のファイル。中には組合公式の護衛確認書、街道戦の詳細な記録、ガレッリ事件の証拠の写し。これらは明日の交渉の場で、ステラ・レギアの『公的な実績』として使える書類だった。


ノックの音がした。


「レオンいいか」


アイリスの声だった。


「どうぞ」


アイリスが入ってきた。今夜は寝間着姿で何も持っていなかった。


ベッドの端にそっと腰掛けた。


「今夜よく眠れそうか」


「はい」


「いつも通り剣の素振りはする?」


「いや今夜はやめる」


アイリスは小さく笑った。


「なぜですか」


「明日が明日だからだ。剣を振るより心を整えたい」


「お前リーゼのこと迎え入れてくれてありがとう」


「アイリスさんが言った言葉です」


「お前が賛同してくれた」


「私の独断をお前が支えてくれた」


レオンはしばらくアイリスを見ていた。


それから小さく笑った。


「ステラ・レギアは一人の独断では動きません」


「はい」


「アイリスさんの判断はステラ・レギアの判断です」


アイリスはぷいっと顔を背けた。


その耳の先がほんのり赤かった。


「明日」


「はい」


「お前と私とリーゼで先生の戦いを終わらせる」


「はい」


「終わらせて次の章に行く」


「次の章」


「ステラ・レギアの本格的な進撃の章だ」


レオンは深く頷いた。


「迷宮の最深部『再会の祭壇』まで」


「そう」


「一歩ずつ」


「一歩ずつ」


二人はしばらく無言で月明かりを見ていた。


やがてアイリスが立ち上がった。


「おやすみレオン」


「おやすみなさいアイリスさん」


ドアが閉まった。


廊下の奥は今夜は剣の素振りの音がしなかった。


代わりにほんのかすかに彼女の部屋から、古い軍歌のような低い鼻歌が聞こえてきた気がした。


『天界の盾』の若い剣士たちが訓練の合間に口ずさむ伝統の歌だった。アイリスが十年前リーゼと一緒にユーリス先生の前で歌った歌だった。


レオンは静かにベッドに横になった。


胸元の四つの形見と、ユーリス先生の信念の腕章をそっと撫でた。


明日が第一章の最後の戦い。


剣の戦いではなく心と組織の戦い。


そして師の魂を十年越しに解き放つ戦い。


確かな決意と静かな鼻歌の余韻を抱えてゆっくり更けていった。


---


第十九話 了

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