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18/25

『白い、招待状』

街道戦の翌朝、ステラ・レギアの食堂は、いつもより遅い時間まで静かだった。


レオンは、皆が起きてくるのを待つ間、帳簿を広げて、昨日の収支を整理していた。


メリオン交易会からの護衛報酬十二万ルナ、危険手当上乗せ十万ルナ。組合からの賞金は、まだ正式通達が来ていないが、ブランドル支部長の見立てでは五十万ルナ前後。合計で七十万ルナを超える、ステラ・レギア史上最大の一日の収入になる予定だった。


「お兄ちゃん、おはよう」


シエラが眠そうな顔で食堂に降りてきた。寝間着にガウン姿。三つ編みは結い直されておらず、栗色の髪がぼさぼさと頬にかかっていた。


「おはよう、シエラちゃん」


「今朝は、みんな、ゆっくりだね」


「昨日、頑張ったから」


「うん。シエラ、夢の中でも、水の鯨さま呼んでた」


「お疲れさまだったね」


「えへへ」


シエラは、レオンの手元の帳簿を覗き込んだ。


「すごい数字が並んでる」


「うん、昨日の収入」


「シエラ、お金のこと、よく分からないけど、——たくさん?」


「たくさん」


「じゃ、お兄ちゃん、今度、市場のおばさんに、たくさんお礼買ってあげようね」


「うん、そうしよう」


その時、玄関の扉が、こんこんと叩かれた。


「失礼します。冒険者組合の使者ですが」


レオンが立ち上がって、玄関に向かった。


組合の若い使者が、革袋を提げて立っていた。


「ステラ・レギア、レオン・ヴェスパー殿宛の、組合からの公式通達と、もう一通、お預かりしております」


「もう一通?」


「『天界の盾』からの、書状です」


「——」


レオンは、しばらく沈黙した。


それから、丁寧に頭を下げた。


「お預かりします」


「組合からの賞金は、革袋の中です。金額は、添付書類でご確認ください」


「ありがとうございます」


使者が下がった。


レオンは、玄関の扉を閉めた。


革袋を持つ手が、組合からの通達よりも、白い封蝋の押された別の封筒の方を、強く意識していた。


『天界の盾』。


封蝋には、翼を広げた金の紋章。


書状の表書きは、流麗な達筆で書かれていた。


『ステラ・レギア、ギルドマスター、レオン・ヴェスパー殿』


差出人は、——『天界の盾』、執行部筆頭、アルフレート・ノーランド。


---


食堂に戻った時、アイリスとルルとエレーナも、すでに揃っていた。


レオンは机の上に、組合からの通達と、『天界の盾』の書状を、並べた。


アイリスの目が、白い封筒を見て、わずかに細くなった。


「アルフレート殿か」


「はい」


「内容は」


「まだ、開けていません」


「開けてくれ」


レオンは、慎重に封蝋を割って、書状を取り出した。


達筆で、丁寧な、しかし極めて事務的な文体だった。


『ステラ・レギア、レオン・ヴェスパー殿。


先日のメリオン交易会護衛における、貴ギルドの活躍、ならびに『鉄槌の牙』の組織犯罪解決への寄与。誠に、感服の至り。


ルミナリアの治安維持に対する貢献を称し、『天界の盾』として、貴ギルドのご一同を、明後日(三十二日目)午後二時より、当ギルド本部にて開催される祝賀会にご招待いたします。


ルミナリアの主要ギルドのマスターたちが集まる、内輪の祝賀の場とご理解ください。商人ギルド連合の代表諸氏も、参列予定です。


何卒、ご出席を賜りたく、お願い申し上げます。


『天界の盾』、執行部筆頭、アルフレート・ノーランド』


レオンが書状を読み終えた時、食堂は静かだった。


アイリスが、ぽつりと言った。


「祝賀、か」


「はい」


「アルフレートが、自ら、祝賀会を主催する、というのは——」


「珍しいことですか?」


「『天界の盾』では、執行部筆頭が直接、他ギルドへの祝賀を主催することは、まずない。普通は、別の幹部が代わりに動く」


「では、これは」


「向こうからの、何かの意思表明だ」


ルルが、ぽくぽくと頷いた。


「合理的に、解読すると——」


「うん」


「文面、すべて事務的。形式通り。にもかかわらず、執行部筆頭が、直接署名している。これは、相手に対する『公的な敬意』を示しつつ、『自ら出てくる重さ』を、こちらに認識させる狙い」


「敵意ではない、と」


「敵意では、ない。しかし、警戒対象として、明確に意識している、ということ」


エレーナが、ワインボトルを傾けて、ぽつりと言った。


「あたしの占星術の方からも、補足する」


「お願いします」


「今朝の星、——『天界の盾』の方角に、北の冷たい星座が、強く出てる」


「冷たい星座?」


「『鋭利な計画』の星だ。アルフレートは、ステラ・レギアを、何らかの形で『動かそうとしている』」


「動かす」


「招待の真意は、単なる祝賀じゃない。何かを、こちらに『提案する』、もしくは『要求する』場として、彼は祝賀会を設定している」


レオンは頷いた。


「招待を、断ることはできますか」


「できる。けれど、後で必ず、別の形で接触してくる」


エレーナはふっと笑った。


「断っても、避けられない流れ、ということだ」


「では、行くしかない」


「行くしかない」


アイリスがしばらく沈黙した。


それから、ぽつりと言った。


「私が、行く」


「アイリスさん」


「『天界の盾』の本部に、私が、もう一度、足を踏み入れる」


「——」


「三年ぶり、だ」


アイリスの声は、淡々としていた。けれど、わずかに重みがあった。


レオンは、彼女の真紅の瞳を見た。


そこには、迷いはなかった。覚悟だけがあった。


「一緒に、行きます」


「うん」


「全員で行きましょう」


「シエラとルル、エレーナも?」


「はい。『天界の盾』が、ステラ・レギアの一行として、私たちを招待している。なら、ステラ・レギアの一行として、皆で行くのが筋です」


ルルが頷いた。


「合理的な判断」


シエラが、両手をぎゅっと握った。


「シエラも、行く!」


「うん、頼んだよ」


エレーナは、ワインを一口啜って、にやりと笑った。


「あたしも行く。占星術師の正装を着る、楽しい日になりそうだ」


レオンは、しばらく、四人を見回した。


それから、書状をもう一度、机の上に広げた。


その時、——封筒の中から、もう一枚、別の小さな紙片が、ぱさり、と落ちた。


---


紙片は、白い小さな便箋だった。


折り畳まれていて、一見、書状の付属品のように見えた。けれど、便箋の角に、小さな鉛筆書きの文字があった。


『紅蓮のアイリス様 へ』


「リーゼ、か?」


アイリスが、紙片を手に取った。


便箋を開くと、走り書きの、丁寧だが急いで書かれた文字が並んでいた。


『アイリスさん。


この手紙、本来の書状の中に、こっそり忍ばせています。アルフレートさんに見つからないように。


祝賀会への招待は、表向きの理由ですが、——アルフレートさんは、その場で、ステラ・レギアに何かを「申し出る」つもりです。


私が立ち聞きで、断片的に拾った内容は、こうです。


一、ステラ・レギアの管理人、レオン・ヴェスパー殿に、『天界の盾』への移籍を打診する。


二、もし応じない場合、——『何らかの組織的な圧力』を、ステラ・レギアにかける。


アルフレートさんは、ステラ・レギアの急成長を、——警戒、というより、利用しようとしています。


詳しくは、祝賀会当日、私からも、何かお伝えできるかもしれません。


アイリスさんに、よろしくお伝えしたい、です。


リーゼ・ヴェラント』


食堂が、長い沈黙に包まれた。


アイリスが、便箋を、ゆっくりと机の上に置いた。


ルルが、ぽくぽくと頷いた。


「合理的な、補足情報」


「リーゼ、よくこれを送ってくれた」


「アルフレートさんに見つかれば、——リーゼ自身が、危険な立場になる」


「うん」


レオンは、便箋を、もう一度ゆっくり読んだ。


「移籍の打診」


「お前個人を、引き抜く」


「断った場合、組織的な圧力」


「ステラ・レギア全体を、潰す動き」


「——」


「これは、敵意ですね」


「敵意、と言うより、——侮辱だ」


アイリスの声が、低くなった。


「我々を、『使えるなら使う、使えないなら潰す』対象としか、見ていない」


「——」


「アルフレートらしい、と言えば、らしい」


エレーナが、ワインを傾けながら、ぽつりと言った。


「『天界の盾』の中で、アルフレートは、——ある種、組織のためなら手段を選ばないタイプだ」


「ご存じなんですか」


「アスラクス家の蔵書には、ルミナリアの主要ギルドの幹部の、過去の動きの記録もある。あいつの名前は、——あちこちで出てくる」


「悪名」


「そうとも言えるし、——『組織を維持してきた手腕』とも言える」


「立場による解釈」


「そうだ」


レオンはしばらく考えた。


「アイリスさん」


「うん」


「アルフレートさんの『移籍打診』、——僕は受けるつもりはありません」


「当然だ」


「ですが、——どう断るか、は、考えないといけない」


「ふむ」


「断り方によって、『組織的な圧力』の規模が、変わるはずです」


ルルが、ぽくぽくと頷いた。


「合理的な、外交的判断が必要」


「全面拒絶では、向こうが本気で潰しに来る。けれど、曖昧な拒絶では、こちらが弱腰と見られる」


「うん」


「明確に、けれど『天界の盾』の面子を立てる形で、断る」


「具体的には」


レオンは、しばらく目を伏せた。


それから、ゆっくりと顔を上げた。


「『移籍はしない。けれど、ステラ・レギアと『天界の盾』が、対等のギルドとして、協力関係を持つことを提案する』」


「対等」


「Eランクのギルドが、Aランクの『天界の盾』に、対等を申し出る」


「常識的には、無礼にあたる」


「はい。けれど、リーゼの手紙にあった『何らかの組織的な圧力』を回避する唯一の道です」


「正面突破、か」


「正面突破、です」


アイリスが、しばらくレオンを見ていた。


それから、ふっと笑った。


「お前、——本当に、何でも、正面から行くな」


「五浪したので」


「ハッハ、もういい」


ルルが、ぽくぽくと頷いた。


「合理的な、提案。賛同する」


エレーナが、ワインを掲げた。


「あたしも、賛同。占星術師としては、『その提案の星筋は、五分五分』と言わせてもらう」


「五分五分」


「アルフレートが受け入れるか、激怒するか、半々だ」


「半々なら、賭けるしかない」


「賭ける価値はある」


シエラが、両手をぎゅっと握った。


「シエラも、お兄ちゃんの提案、賛成!」


「ありがとう、シエラちゃん」


レオンは、深く頷いた。


二日後の祝賀会への、ステラ・レギアの方針が、決まった。


---


午後。


アイリスがガロン爺さんのところへ、ユーリス先生の魔道具を持っていった。修理が可能か、見立てを聞きに行く約束だった。


レオンは、その間、組合のブランドル支部長に会いに行った。


事前のアポイントなしの訪問だったが、組合の事務員は今日のレオンを、すぐに支部長執務室に通してくれた。


「レオン殿、いかがされましたか」


「ブランドル支部長、お時間ください」


「もちろん。座ってください」


レオンは、机を挟んで支部長の前に座った。


そして、机の上に『天界の盾』からの招待状を、丁寧に置いた。


「これが、今朝、届きました」


ブランドルは書状を読み、すぐに眼鏡を上げた。


「アルフレート殿から、貴ギルドへの祝賀会の招待」


「はい」


「執行部筆頭が直接、ですか」


「はい」


ブランドルはしばらく沈黙した。


「これは、——珍しい」


「そう、聞いています」


「アルフレート殿の意図は、何でしょうか」


「——」


レオンは、リーゼからの私的な手紙の存在は、明かさなかった。リーゼの立場を守るため、これは秘密にしなければならない。


代わりに、別の角度から訊いた。


「ブランドル支部長、組合として、最近の『天界の盾』の動きを、どうご覧になっていますか?」


ブランドルは眼鏡を外して、ゆっくり机の上に置いた。


「組合として、公式には、申し上げられないことが、あります」


「はい」


「ですが、個人として、——気になっていることは、あります」


「お話しください」


「ここ半年、『天界の盾』は、Bランクとそれ未満のギルドの『買収』ないし『吸収合併』を、複数件進めています」


「買収」


「具体的には、Cランク三ギルド、Dランク二ギルド、Eランク一ギルド」


「合計六ギルド」


「彼らは、表向きには『協力関係の強化』と称していますが、実態は、傘下ギルドとして組織化している」


「——」


「『天界の盾』は、組合のAランクの中でも、最大規模のギルドですが、——半年前から、さらに『下』を取り込み始めている」


「目的は」


「分かりません。組合の管轄外の動きですから」


「——」


「ですが、この動きが、街全体の冒険者ギルド構造を、徐々に変えつつあります」


レオンは、深く頷いた。


「ステラ・レギアも、——その対象になりかけている、かもしれません」


「可能性は、あります」


ブランドルは、低く言った。


「お気をつけて」


「はい」


「ステラ・レギアは、街にとって、貴重な『独立したギルド』です。組合としても、その独立性は、できる限り守りたい」


「ありがとうございます」


「祝賀会で、——もし何かあれば、組合に正式な記録として、相談ください」


「はい」


レオンは丁寧に頭を下げて、執務室を出た。


『天界の盾』が傘下ギルド網を作っている、という情報。それは、リーゼの手紙の『組織的な圧力』が、決して脅しではないことを、裏付けていた。


---


ギルドに戻った時、アイリスはちょうど街から帰ってきたところだった。


「ガロン爺さん、何と言ってましたか」


「魔道具は、——もう、修理は難しいだろう、と」


「そうですか」


「ただし、——『お前の手の中で、二度、人を守った魔道具なら、それは、もう道具じゃなくて、形見だ』、と」


「——」


「『直さなくていい。亀裂があっても、それが、お前の戦いの記録になる。布で包んで、大事にしまっておけ』、と」


レオンはゆっくり頷いた。


「ガロン爺さんらしい、お話ですね」


「うん」


「お師匠様の魔道具、形見として、もう、僕の引き出しにあります」


「そう、しよう」


アイリスは、ふっと小さく息を吐いた。


レオンは、組合での話をアイリスに伝えた。『天界の盾』の傘下ギルド網のこと。半年前から進められている『買収』の動き。


アイリスの真紅の瞳が、すうっと細くなった。


「半年前」


「はい」


「半年前と言えば、——」


「『沈み鐘』の宝石が、組合のオークションに出た時期と、ほぼ重なる」


「合理的な、観察」


「もしかしたら、『天界の盾』の傘下化の動きと、——『始原の民』の遺物の動きは、繋がっている、かもしれない」


レオンはしばらく考えた。


「あの宝石が、二年前に組合に流れた。けれど、半年前から、『天界の盾』が組織を拡大し始めている」


「タイムラグはあるが、繋がりは、可能性としては、ある」


「——」


「アルフレートが、何を企んでいるか、——祝賀会の場で、何を申し出るか、——慎重に、聞き出さねば」


アイリスはレオンを真っ直ぐに見た。


「レオン」


「はい」


「祝賀会、お前は、ステラ・レギアの管理人として、堂々と振る舞え」


「はい」


「私は、——アルフレートの、目を離さない」


「——」


「三年前、私は、あの男に、何も言えずに、ギルドを飛び出した」


「——」


「今度は、違う」


アイリスの目に、確かな光があった。


それは、復讐の光ではなかった。


『先生の死を、無駄にしない』、という、決意の光だった。


---


夕方。


ステラ・レギアの食堂に、エレーナの占星台からの呼び出しがあった。


「皆、ちょっと、上がってきてくれ」


レオン、アイリス、シエラ、ルル、四人が古城の屋根の上の小さな八角形の占星台に上がった。


エレーナは、水晶玉を手のひらに乗せて、夕方の空を見ていた。


「夕方の星、変化があった」


「どんな?」


「『天界の盾』の方角に、——別の、影の星が、出てきた」


「影?」


「アルフレート以外の、誰かが、ステラ・レギアに関心を持っている」


「『天界の盾』の中の、別の人物?」


「それは分からない。ただ、複数の影が、こちらを見ている」


「敵か味方か」


「半々」


エレーナはふっと笑った。


「あたしの占いは、いつも、半分しか視えない」


「半分でも、貴重な情報、です」


「祝賀会には、複数の人物が、ステラ・レギアに対して、別々の意図を持って、接近してくる、と覚えておきな」


レオンは深く頷いた。


「了解」


「リーゼも、その『影』の一つだ。けれど、彼女以外にも、ある」


「——」


「全員が、敵じゃない。けれど、全員が、味方でもない」


「分かりました」


エレーナは、占星台の手すりに肘をついて、夕陽を見つめた。


「あたしは、明日、占星台で、もう一度視る。明後日の朝までに、できる限り情報を整理しておく」


「ありがとうございます」


「——少年」


「はい」


「アルフレートは、お前を、ただの肉壁の若造とは、もう見ていない」


「——」


「組合での書類仕事、街道での組織犯罪解決、ガレッリの摘発。これらは、全部、王都の中央本部にも報告される」


「——」


「アルフレートは、組合の中央本部とも、繋がっている」


「——」


「だから、あいつは、——お前を、敵か味方か、見極めようとしている」


エレーナは、振り返って、レオンを見た。


「祝賀会の場で、あいつは、お前を、試す」


「試す、ですか」


「お前が、自分の組織の傘下に入る器か。それとも、——独立の道を選ぶ覚悟があるか」


「——」


「どちらを選んでも、お前は、ステラ・レギアの命運を、その選択に賭けることになる」


レオンはしばらく、夕陽を見つめていた。


それから、ゆっくり頷いた。


「賭けます」


「ステラ・レギアを?」


「ステラ・レギアの、独立、を」


エレーナは、ふっと笑った。


「お前は、そう答えると、思った」


「——」


「あたしの、占い、当たった」


「半分」


「全部だ、今のは」


二人は、夕陽の中で、ちょっと笑いあった。


---


夜。


レオンは、自分の部屋で、明後日の祝賀会への準備を進めていた。


机の上に、『ステラ・レギア:仕組みと進捗』のノートを開いた。


新しいページに、明後日の方針を、項目別にまとめた。


【祝賀会、出席の方針】


一、ステラ・レギアの代表として、五人全員で出席。


二、アルフレートからの『移籍打診』は、明確に拒絶する。


三、代替提案として、『対等のギルドとしての、協力関係』を提示する。


四、アルフレート以外の『影』の人物にも、注意を払う。


五、リーゼに、感謝の意を、自然な形で伝える。


六、暴力沙汰は避ける。万一の場合、シエラの『水の鯨』で防御を最優先。


七、その場で何かの書類にサインさせられそうになったら、必ず、『ギルドに持ち帰って検討する』と答える。


八、撤収のタイミングは、午後四時を目安。


九、帰路で襲撃の可能性も想定。零式と踏破くんの携行装備、最優先。


十、——アルフレートの『何らかの組織的な圧力』が現実化した場合の、対抗策。


最後の項目、十。


これだけが、レオンの中で、まだ確定していなかった。


組合のブランドル支部長は、組合として動く可能性を、示唆してくれた。けれど、組合は中立の機関であって、ステラ・レギアの完全な味方ではない。


『斜陽の盾』のザッシュと、『虎牙の商隊』のグラントは、友好関係にある。しかし、彼らも、Dランクのギルドであって、Aランクの『天界の盾』を相手に直接対抗できる立場ではない。


『翠緑の風』のディアナ殿は、——独立したCランクのギルド。彼女なら、もしかしたら、——


レオンは、ノートに、新しい項目を加えた。


『十、明日中に、ディアナ殿に、相談に伺う』


ディアナ殿は、昇格式の時、レオンに「『仕組み』が要る」と教えてくれた人物だった。Cランクを二十年維持してきた経験。彼女なら、こういう状況での「独立の維持の仕方」を、教えてくれるかもしれない。


ノートを閉じた時、ノックの音がした。


「レオン、いいか」


アイリスの声だった。


「どうぞ」


アイリスが入ってきた。今夜は寝間着姿で、何も持っていなかった。


ベッドの端に、そっと腰掛けた。


「明後日のこと、考えてたか」


「はい。明日、ディアナ殿に相談に行こうかと」


「『翠緑の風』の」


「彼女の経験を、聞きたい」


「いい考えだ」


アイリスは、頷いた。


「私も、明日、——リーゼに会いに行こうかと、思っている」


「リーゼさんに?」


「祝賀会の前に、もう一度、状況を確認しておきたい」


「危険ではないですか」


「リーゼは、街の南の小さな茶屋に、月曜の夜、来る習慣がある。三年前、私と二人で行った店だ。そこで、自然な形で、会えるはずだ」


「『天界の盾』の人に見られないように」


「うん」


「——」


「お前は、ディアナ殿を、私はリーゼを。役割分担だ」


「分かりました」


アイリスは、しばらく黙っていた。


それから、ぽつりと言った。


「レオン」


「はい」


「明後日、——『天界の盾』の本部に入ったら、私は、たぶん、心がざわつく」


「——」


「三年ぶりに、先生の声が聞こえた廊下を歩く。先生の修練場だった中庭を見る」


「——」


「お前が、隣にいてくれると、助かる」


「もちろん、隣にいます」


「うん」


アイリスは、ふっと小さく笑った。


「これは、別に、特別な意味では、ない」


「——」


「ステラ・レギアの管理人と、紅蓮のアイリスが、共に動く、というだけだ」


「はい」


「変な意味じゃ、ない」


「分かっています」


アイリスは、ぷいっと顔を背けた。


その耳の先が、ほんのり赤かった。


「それから」


「はい」


「お前の、銀色の魔道具、もう機能しない、と思っているだろう」


「ガロン爺さんが、形見として残せ、と」


「うむ」


アイリスは懐から、小さな別の包みを取り出した。


「これを」


「これは——」


「先生の、もう一つの形見、だ」


包みを開くと、——薄い、銀色の、布製の腕章だった。


『天界の盾』の紋章が刺繍されている。けれど、紋章の翼が、かすかに違っていた。色が、微妙に違う。


「ユーリス先生が、執行部の前で、自分の意見を主張する時、必ず、これを着けていた」


「——」


「『天界の盾』の正式な紋章ではなく、先生が個人的に作らせたもの、だ。先生の信念の象徴」


「——」


「明後日、——お前に、これを着けて、本部に入ってほしい」


「アイリスさんの大切な——」


「お前に、託す」


「——」


「ガレッリの時の魔道具とは、違う。これは、ステラ・レギアの代表として、お前が公式の場で身につけるもの。アルフレートが、これを見て、何を感じるか、——それも、見極めの一部だ」


レオンは、布の腕章を、両手で受け取った。


ガロン爺さんが言った言葉が、頭の中に響いた。『お前の手の中で、二度、人を守った魔道具なら、それは、もう道具じゃなくて、形見だ』。


これは、形見ではなく、——託された、戦いの旗だった。


「お預かりします」


「うむ」


「明後日、ちゃんと、着けます」


「うん」


アイリスは、立ち上がった。


ドアの前で、一度振り返った。


「レオン」


「はい」


「お前と、——明後日、共に行ける」


「——」


「それが、私には、——少しだけ、嬉しい」


そう言って、彼女はドアを閉めた。


廊下の奥から、しばらくして剣の素振りの音が、かすかに聞こえてきた。


---


レオンは、しばらく、布の腕章を見つめていた。


『天界の盾』の紋章。ただし、ユーリス先生が独自に作らせた、信念の象徴。


机の上に、丁寧に置いた。


それから、胸元の四つの形見を取り出した。


『約束の少女』のお守り。『天界の盾』の紋章ピン。『ヴェスパー』の布切れ。心の中の『家族の星』の図案。


そして、新しく加わった、五つ目。


ユーリス先生の信念の腕章。


「明後日、——『天界の盾』に、行ってきます」


ぽつりと呟いた。


窓の外で、スターフォール・アビスの青白い光が、夜空に静かに輝いていた。


『鉄槌の牙』との戦いは終わった。


次の戦いは、——剣の戦いではなく、心の戦いだった。


明後日への静かな決意を抱えて、ゆっくり更けていった。


---


第十八話 了

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