『街の、ざわめき』
レオンが市場に降りた時、最初に違和感を覚えたのは、乾物屋の店先だった。
いつもはカウンターの上に、品書きの黒板が立てかけてある。今朝はそれがなかった。代わりに、店頭の品物が、半分ほどに減っていた。
「おばさん、おはようございます」
「あ、レオンのあんちゃん」
乾物屋のおばさんが、顔を上げた。いつもの陽気な笑顔が、今朝は少し沈んでいた。
「品物、少ないですね。仕入れの調子、悪いんですか?」
「うーん、ちょっとな」
おばさんは、辺りを軽く見回してから、声を落とした。
「こないだ、仕入れのトラックが、街道で一つ、消えたんだ」
「消えた?」
「うちの仕入れ先、王都の問屋なんだが、——荷馬車が、街道の途中で、丸ごと、なくなったって」
「山賊ですか?」
「分からん。最近、こういう話、あちこちで聞く」
「あちこち、ですか」
「うちだけじゃないよ。職人組合のガロン爺さんとこも、木材の納品が遅れてる。八百屋のミコさんとこも、油の仕入れが、こないだ消えた」
レオンは、しばらく考えた。
「組合には、報告してるんですか?」
「してるさ。けど、組合は、『街道の、季節的な治安悪化』、で、片付けてる」
「そう、なんですか」
「組合の上の方が、何やってるか、分からないんだよ、最近」
おばさんは、ふっと息を吐いた。
「あんたんとこ、街道仕事、新しく受けたんだろ?」
「メリオン交易会と、月一の固定で」
「気をつけな、本当に」
「ありがとうございます」
レオンは、いつもの乾燥茸を百グラムだけ買って、店を後にした。
買い物袋を提げながら、ゆっくりと考えた。
街道での、消失事件。一件や二件ではなく、複数。組合は積極的に動いていない。
——何か、嫌な感じがする。
エプロンの胸ポケットで、ちびがちょこんと顔を出した。
「ちび、君も、嫌な感じ、する?」
ちょこん。
「うん、僕もだ」
レオンは、市場の中央広場まで歩いた。組合の掲示板の前に立った。
依頼の貼り紙。荷運び護衛、護衛、護衛。——護衛系の依頼が、いつもより、明らかに多かった。
そして、報酬の数字が、軒並み、上がっていた。
通常、ルミナリア—メルシェ間の街道護衛は、十二万ルナ。それが今日、十六万ルナで掲示されていた。
——危険手当が乗っている。
組合は、表向きは「街道の治安悪化」と言いながら、報酬の数字には、ちゃんと反応していた。
レオンは、掲示板を、しばらく見ていた。
それから、踵を返してギルドへの坂を登り始めた。
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ギルドの食堂で、レオンは朝の話を皆に伝えた。
「街道の、消失事件」
アイリスが、コップを置いた。
「複数、ある、と」
「乾物屋、職人組合、八百屋。それに、組合の掲示板の護衛報酬が、平常時の三割増し」
「組合の対応は」
「『季節的な治安悪化』で、特別な動きなし」
「ふん」
アイリスは、しばらく考えた。
「組合の対応、不自然だな。複数の店が同時に被害を受けているなら、組合本部が、調査隊を出すのが、通常」
「私もそう思います」
ルルが、ゴーグル越しの瞳を細めた。
「合理的に、想定すると——」
「想定?」
「組合内部に、——情報を握り潰している人物が、いる可能性」
食卓に、短い沈黙が流れた。
「組合内部の癒着、というのは、たまに、ある話だ」
アイリスが、頷いた。
「『天界の盾』時代、二度ほど、似た話を聞いた。執行部の誰かが、闇ギルドと繋がっていて、組合の調査依頼を、捻じ曲げる」
「闇ギルド」
「ステラ・レギアに、覚えのある名前があるだろう」
レオンの頭の中に、雨の日の玄関先での記憶がよぎった。
『鉄槌のバドル』。
『鉄槌の牙』。
「アイリスさん、」
「うむ」
「『鉄槌の牙』の、最近の動き、何か聞いてますか?」
「街中での話は、ガロン爺さんが、一番、入ってくる。職人組合は、街の情報の交差点だ」
「今日、ガロン爺さんに会いに行きましょう」
「私も、行く」
ルルが、ぽくぽくと頷いた。
「ルルは、零式の縮小モードを、街に出す。索敵で、街の魔力反応を観測したい」
「合理的、だね」
シエラが、両手を組んで申し出た。
「シエラも、行く!」
「シエラちゃんは、街では、市場のおばさんたちと、お話、できるかな」
「うん! あの、おばさんたち、シエラのこと、可愛がってくれるから」
「お願いするね」
「うん!」
エレーナが、ワインボトルではなく、占星術師の小さな水晶玉を、ガウンの懐から取り出した。
「あたしは、占星台で、街の星を読む」
「お願いします」
「夕方には、何か、出るはずだ」
ステラ・レギアの一行は、その日、午前中から夕方まで、街の各所に分散して動くことになった。
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職人組合の、ガロン工務店。
レオンとアイリスが訪ねた時、ガロン爺さんは、いつもの作業台で、ぽくぽくと木材を削っていた。
「おう、レオンのあんちゃん。アイリス殿も。何だ、二人揃って」
「街道のこと、お話を伺いたくて」
ガロン爺さんは、削る手を止めた。煙管に火を入れて、ふうっと吐いた。
「来ると思ってたよ」
「来るって、——」
「あんたんとこの、メリオン交易会の月一固定、もうじき、二回目だろ?」
「来週です」
「だから、来ると思ってた」
ガロン爺さんは、煙管を作業台の脇に置いた。
「俺んとこの、木材の納品、こないだ、消えた」
「組合に、届け出ましたか?」
「した。けど、対応、遅い」
「組合の、誰に届けました?」
「副支部長の、ガレッリだ」
「ガレッリ」
アイリスの眉が、少し動いた。
「ガレッリ副支部長は、どんな方ですか?」
「俺らの間じゃ、——『金で動く』と言われてる」
「——」
「組合の支部長のブランドル殿は、まっとうな人だ。けどな、ガレッリは、別だ」
ガロン爺さんは、低い声で続けた。
「街道の事件を、ガレッリが握り潰してる、ってのは、職人組合じゃ、もうほとんど共有されてる」
「ガレッリと、闇ギルドの繋がり、聞いたことありますか」
「直接の証拠は、ない。けど、ガレッリの息子が、二年前から、『鉄槌の牙』の事務員として働いてる」
「事務員」
「『鉄槌の牙』は、表向きは、Cランクの準ギルド扱いになってる。だから、組合に、事務員がいることは、合法だ。けど、——あの息子が、組合内部とのパイプ役、なのは、間違いない」
レオンは、頷いた。
「ガロン爺さん、もう一つ、お訊きしたいんですが」
「うん?」
「『鉄槌の牙』の最近の動き、何か聞いてますか?」
「うむ」
ガロン爺さんは、煙管をもう一服吸ってから、ぽつりと言った。
「先月から、新しい『商売』を始めた、と聞いてる」
「商売?」
「街道で、荷馬車を襲って、その積み荷を、別ルートで売り捌く」
「——」
「単なる強盗じゃない。『どの荷馬車を、いつ、どこで襲うか』、を、組合の輸送計画から、抜き取ってる」
「ガレッリ副支部長から?」
「たぶんな」
「——」
レオンは、しばらく沈黙した。
アイリスが、低く言った。
「これは、『鉄槌の牙』の、組織犯罪だ」
「然り」
ガロン爺さんは、煙を吐いた。
「あんたんとこの、メリオン交易会の月一固定、——次回が、たぶん、狙われる」
「——」
「メリオン交易会は、王都の老舗だ。荷馬車の積み荷、上等な絹と香辛料が多い。バドルにとって、上玉だ」
「——」
「俺ら職人組合じゃ、こないだから、街道仕事を増やしてる、新興の冒険者ギルドを、心配してる。あんたんとこのことだ」
「ありがとうございます」
「ま、紅蓮のアイリスがいるなら、無事には済まんだろうけどな」
ガロン爺さんは、にやりと笑った。
「だが、ガレッリ周りは、組合の問題だ。お前さんたち、ギルド一つで挑む話じゃ、ない」
「分かっています」
「動くなら、——支部長のブランドル殿に、直接、話を持っていけ」
「ブランドル殿は、信頼できますか?」
「信頼できる。あの方は、ガレッリの動きを、たぶん、半分、把握してる。けど、決定的な証拠がないから、動けないでいる」
「証拠を、こちらで掴めば、動いてくれる」
「そういうことだ」
ガロン爺さんは、ふっと笑った。
「あんちゃん、商法の次は、組織犯罪の解決か。器用だな」
「五浪は、無駄じゃ、なかったってことです」
「ハッハ、言うじゃないか」
帰り際、ガロン爺さんが、ふと言い添えた。
「もう一つ、——気をつけろ」
「はい」
「『鉄槌の牙』、最近、街中で、子分が、若い冒険者を、勧誘して回ってる」
「勧誘?」
「『落ちこぼれの、Eランク以下のギルド』、を狙ってる」
「——」
「あんたんとこも、——一週間前、Eランクに上がったばかりだ。気をつけな」
「はい」
レオンは、深く頭を下げた。
ガロン爺さんは、また、ぽくぽくと木材を削り始めた。
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午後。
ルルとシエラが、街の中央広場で、合流した。
ルルは、零式の縮小モードを、肩掛け鞄から半分覗かせていた。零式の赤い宝石は、ゆっくりと脈打ちながら、街の魔力反応を観測していた。
「シエラ、市場の方は、どうだった?」
「おばさんたち、たくさん教えてくれた! 乾物屋のおばさん、八百屋のミコさん、油屋さん、——みんな、最近、仕入れが、おかしいって」
「合理的、な、情報収集」
「ルル姉ちゃんは?」
「街中の、魔力反応、観測した」
ルルは、零式の宝石を、軽く撫でた。
「街の、東地区、——『鉄槌の牙』の本拠地周辺、——通常時より、魔力濃度、二割増し」
「二割?」
「人間の魔法使いが、複数、集まっている、可能性」
「呪術師、だったり、する?」
「合理的、には、可能。『鉄槌の牙』は、表向き、戦闘系のギルドだが、——最近、呪術系の人員を、雇い始めている、可能性」
「『煤色の呪紋』の、——」
「カインの事件以降、呪術師は、街で、職を失っている者が多い」
「——」
「『鉄槌の牙』が、彼らを、雇っている、と仮定すると、合理的に、説明がつく」
「うわ、ルル姉ちゃん、推理、すごい」
「観察と、合理的演繹、だ」
二人は、しばらく広場のベンチに座って、零式の索敵結果を整理した。
シエラが、ぽつりと、言った。
「ルル姉ちゃん」
「うん?」
「お兄ちゃんと、お姉ちゃん、——大丈夫かな」
「合理的、には、——状況、複雑」
「うん」
「ただし、ステラ・レギアは、複数の友好ギルドと、繋がっている」
「『斜陽の盾』と、『虎牙の商隊』、だね」
「合計、二十名近い、戦力。情報共有さえできれば、対応、可能」
「うん」
シエラは、ぎゅっと両手を握った。
「シエラも、頑張る」
「合理的、な、決意」
「えへへ」
ルルは、ぽくぽくと頷いた。
ベンチから立ち上がって、ギルドへの坂道を、二人で歩き始めた。
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夕方。
ステラ・レギアの食堂に、五人と踏破くんたちが集まった。
レオンが、ガロン爺さんからの情報を共有した。
ガレッリ副支部長と『鉄槌の牙』の癒着。街道襲撃の組織化。メリオン交易会への狙い。Eランク以下のギルドへの勧誘。
ルルが、街の魔力反応の観測結果を共有した。
東地区の魔力濃度の上昇。呪術師の雇用の可能性。
シエラが、市場のおばさんたちから集めた情報を共有した。
複数の店舗での仕入れ消失。組合への不信。街全体の不安。
そして、最後に、エレーナが、占星台での観測結果を共有した。
「夕方の、星、確かに、ざわついてた」
エレーナは、ワインを飲まずに、水晶玉を手のひらに乗せていた。今日の彼女の目は、占星術師の目だった。
「東の、低い空に、——古い『鉄』の、星座が、見えた」
「鉄」
「『鉄槌の牙』の、紋章の、源流にあたる、星だ」
「——」
「その星が、——いつもより、強く、輝いていた」
「動き出している、ということ?」
「ああ。それも、——もうじき、何かを、起こす、配置だ」
「もうじき、とは」
「三日以内」
食堂が、静かになった。
レオンが、ぽつりと言った。
「メリオン交易会の、月一固定の、二回目」
「来週、と、聞いていたが」
「来週の、月曜日、です」
「今日が、何曜日だっけ」
「金曜日」
「三日後」
エレーナの占いと、メリオン交易会の予定が、ぴたりと重なった。
アイリスが、剣の柄を、軽く撫でた。
「狙われている」
「はい」
「ガロン爺さんの予測通り、ですね」
「やはり、メリオン交易会の積み荷が、目当てだ」
「——」
「どうする、レオン」
レオンは、しばらく考えた。
それから、ゆっくりと言った。
「動きます」
「動く」
「明日、組合の支部長、ブランドル殿に、直接、面会を申し込みます。今日得た情報を、全て、共有する」
「ブランドル殿は、動くだろうか」
「ガロン爺さんは、『信頼できる』、と言っていました。証拠があれば、動くはず」
「証拠は」
「直接の物証は、まだない。けれど、職人組合や市場の被害情報、ルルちゃんの観測結果、エレーナさんの占い、——状況証拠としては、充分なはず」
「そして」
「メリオン交易会の襲撃を、こちらが先に把握している事実」
「——」
「これを伝えれば、ブランドル殿も、動かざるを得ない」
アイリスが、頷いた。
「それから?」
「友好ギルドにも、声をかけます。『斜陽の盾』のザッシュ殿、『虎牙の商隊』のグラント殿。両ギルドに、月曜日の街道護衛、合同で、参加していただけないか」
「いきなり頼むのは、難しいか?」
「先日、向こうから『恩返ししたい、声をかけてくれ』と、言ってくれていました」
「そうだったな」
「タイミングとしては、悪くない」
ルルが、ぽくぽくと頷いた。
「合理的、な、計画」
シエラが、ぐっと両手を握った。
「シエラも、もちろん、行きます!」
エレーナが、水晶玉を懐に戻した。
「あたしも、占星台から、リアルタイムで、街道を観測する。何か星に変化があれば、すぐに、伝書鳩を飛ばす」
「お願いします」
レオンは、四人を見回した。
「明日、僕とアイリスさんで、組合に。ルルちゃんは、零式の戦闘準備。シエラちゃんは、召喚術の最終調整。エレーナさんは、占星台の準備」
「了解」
「明後日には、友好ギルドへの根回し」
「了解」
「月曜日の朝、街道で、迎え撃つ」
食堂が、しばらく沈黙した。
それから、アイリスが、ふっと笑った。
「お前、いつのまにか、軍師みたいになってきたな」
「五浪が、本当に、無駄じゃなかった、ってことです」
「ハッハ、それ、何回目だ」
「四回目です」
「数えてるのか」
「習慣で」
食卓に、小さな笑い声が広がった。
緊張は、まだ、抜けていない。
けれど、五人と踏破くんたちは、もう、動き始めていた。
---
夜。
レオンは、自分の部屋で、明日の組合への面会の準備をしていた。
机の上に、状況証拠を整理した書類を作っていた。
ガロン爺さんからの情報、市場の店主たちからの証言の概要、ルルが観測した魔力反応のデータ、エレーナの占星術の所見。それぞれを別の紙に整理し、最後にレオンの考察をまとめた一枚を添えた。
書類を仕上げた頃、ドアが、こんこん、と軽く叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは、アイリスだった。
寝間着にガウン姿。手には、布製の小さな袋を提げていた。
「明日の準備か」
「はい」
「お前、几帳面だな」
「組合に、書類で訴えるなら、整理されているほうが、効きやすいです」
「ふん」
アイリスは、ベッドの端に、そっと腰掛けた。
「これ、預けておく」
布袋を、レオンの机の上に、ぽんと置いた。
「何ですか?」
「明日、組合に行く時、——肩当ての裏に、忍ばせておけ」
レオンが袋の中身を覗くと、——薄い、銀色の、護身用の魔道具だった。コインほどの大きさ。中央に、小さな赤い宝石が嵌まっている。
「これは」
「『天界の盾』の、紋章を、持っていない者の、保護用に、作られた、簡易結界の道具だ」
「——」
「呪術系の、軽い攻撃なら、一度だけ、防げる」
「アイリスさんの、私物ですか?」
「私の、師匠の、形見だ」
「——」
「ユーリス先生が、——若い頃、街での仕事の時、使っていた、と聞いている」
「——」
「明日、組合の中で、ガレッリと出くわすかもしれない。あの男、呪術師ではないが、——闇ギルドの、護衛を、組合内に置いている可能性がある」
「——」
「念のため、だ」
レオンは、しばらく、銀色の小さな魔道具を、見つめていた。
「アイリスさん、——これ、お師匠様の、形見、ですよね」
「ああ」
「貸していただけるのは、——光栄です」
「——」
「でも、これは、明日が終わったら、ちゃんと、お返しします」
アイリスは、しばらく、レオンを見ていた。
それから、ふっと笑った。
「いや、——使えば、消える。一度きりの、消耗品だ」
「——」
「だから、使ってくれ」
「——」
「使う時に、——お前のことを、先生が、護ってくれた、と、思え」
レオンは、ゆっくりと、頷いた。
「——分かりました」
「明日、——一緒に、行こう」
「はい」
アイリスは、立ち上がった。
ドアの近くで、一度、振り返った。
「レオン」
「はい」
「お前、最近、——管理人として、随分、形になってきた」
「——」
「私の知る限り、Eランクのギルドのマスターで、ここまで、組織として動かせる者は、少ない」
「——」
「自信を、持って、いいぞ」
「——」
「ただし、慢心は、するな」
「——はい」
アイリスは、にっと笑って、ドアを閉めた。
足音が、廊下の奥に、ゆっくり遠ざかっていった。
---
レオンは、机の上の、書類と、銀色の魔道具を、しばらく見ていた。
それから、胸元の三つの形見を、そっと取り出した。
『約束の少女』のお守り。『天界の盾』の紋章。『ヴェスパー』の布切れ。
その横に、銀色の魔道具を、そっと並べた。
ユーリス先生の、形見。
『天界の盾』の紋章とは、別の形で、レオンの手元に来た、もう一つの先生の何か。
「明日、——使わせていただきます」
ぽつりと、呟いた。
窓の外で、スターフォール・アビスの青白い光が、夜空に静かに輝いていた。
街は、表向き、いつもと変わらなかった。
けれど、その下で、何かが、確かに、動き始めていた。
『鉄槌の牙』の、組織的な、動き。
ガレッリ副支部長との、闇の繋がり。
メリオン交易会への、襲撃計画。
そして、——
その先に、必ず、待っているはずの、『鉄槌のバドル』、本人。
雨の日の玄関先で、彼が残した、あの言葉。
——『覚えとけ、管理人殿』。
「覚えてます、バドルさん」
レオンは、静かに、呟いた。
「今度は、——僕らから、行きますよ」
胸元のポケットに、四つの形見を、丁寧に仕舞った。
ステラ・レギアの、二十七日目の夜が、静かに、けれど、確かな決意を抱えて、更けていった。
---
翌朝。
レオンとアイリスは、夜明け前に起きた。
二人で、無言で、朝の支度をした。
シエラは、まだ寝室で眠っていた。ルルは、地下工房で、零式と踏破くんたちの戦闘調整。エレーナは、占星台の上で、明け方の星を読んでいるのが、屋根越しに見えた。
朝食を、簡単に済ませた。アイリスが珍しく、自分から、レオンの隣に座った。
「組合は、九時に、面会の窓口が開く」
「ブランドル殿に、直接の面会を申し込みます」
「ガレッリの目を、避けたい」
「裏口から、入りましょう。組合の事務員に、ガロン爺さんから、紹介状を預かりました」
「用意周到だな」
「五浪が——」
「もういい、その言い回しは。聞き飽きた」
アイリスはふっと笑った。
二人は、それぞれの肩当てに、レオンは銀色の魔道具を、アイリスはいつもの通り愛剣プロミネンスの代わりに、街中での装備として軽い細剣を、装着した。
玄関で、ルルが地下から上がってきた。
「マスター、アイリス」
「うん」
「零式と、踏破くんたち、現在、戦闘配置を確立した。月曜日まで、ルルは、地下工房に篭る」
「ありがとう、ルル」
「気をつけて」
「うん」
シエラが、寝間着にガウンを羽織って、ぱたぱたと走ってきた。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん、いってらっしゃい!」
「いってきます」
「ちゃんと、帰ってきて、ね」
「うん、夕方には、戻る」
エレーナが、占星台から降りてきた。彼女は、しっかりと、占星術師の正装をしていた。黒のロングドレス。
「今朝の、星、——お前らに、追い風、だ」
「追い風?」
「ブランドル支部長は、今朝、普段より、『動く』星の配置だ」
「——」
「行ってこい、少年。少年の、五浪を、信じる」
「——」
エレーナは、にやりと笑った。
レオンは、深く頷いた。
「行ってきます」
二人は、ステラ・レギアの古城を後にした。
朝の坂道を、しっかりとした足取りで、組合に向かって、降りていった。
胸ポケットの中で、ちびがちょこんと、お辞儀をした。
レオンは、ちびの頭を、指先で、軽く撫でた。
街は、まだ、夜の余韻を残していた。
けれど、ステラ・レギアの戦いは、もう、始まっていた。
---
第十五話 了




