『翌日の、静けさ』
窓の外で、秋の小鳥が、ちちち、と、鳴いていた。
レオンは、ベッドの上で、ゆっくりと、目を、覚ました。
昨夜は、遅くまで、眠れなかった。
アイリスから、『ヴェスパー』の、縫い取りの、布切れを、もらった、後——
胸元の、三つの、形見——古びた円環、銀色の『天界の盾』紋章、布切れ——を、並べて、ずっと、見ていた。
『沈み鐘』、の、祭壇の、紋様。
夢の中の、少女が、くれた、お守り。
二つが、同じ、『始原の民』、の、印だった。
——夢の、少女は、本当に、いる。
——きっと、迷宮の、底、に。
その、確信が、レオンの、胸に、静かに、降りてきていた。
けれど、同時に、——疲れて、いた。
十五層まで、潜って、呪術の、渦の中を、駆け、仲間の、倒れた体を、抱え上げて、迷宮を、戻った。体の、傷は、全部、塞がっている。だが、心の疲労は、再生しない。
「——よし」
ぽつり、と、呟いて、起き上がった。
エプロンの、胸ポケットで、ちびが、ちょこん、と、お辞儀した。
「おはよう、ちび」
ちょこん。
「今日は、——組合で、事情聴取、だね」
ちょこん、ちょこん。
「うん、僕も、ちょっと、緊張してる」
着替えて、下に、降りた。
食堂には、もう、アイリスと、ルルが、席についていた。
「——おはよう、二人とも」
「おはよう、マスター」
「——おはよう」
アイリスの、声も、少しだけ、疲れていた。ルルは、煤だらけではなく、きちんと、顔を洗って、ゴーグルだけを、額に上げていた。
「——シエラは?」
「まだ、寝てる。昨日、精霊を、二回も、呼んだからな。——疲れが、残って、いるだろう」
「うん、起こさないで、おこう」
「エレーナは、——夜、ずっと、占星台に、登っていた、らしい」
「——ほう」
「多分、昼過ぎまで、下りて来ない」
ルルが、ぽくぽくと、頷いた。
「——合理的、だ」
---
朝食を、食べ終えて、レオンは、組合への、準備を、整えた。
冒険者組合からの、呼び出しは、昨夜のうちに、届いていた。『明朝、十時、事情聴取のため、ご出頭願いたい』、とのこと。
ギルドマスターの、レオン、並びに、幹部冒険者、アイリスとルルが、同行することになった。シエラには、体調を、回復させる時間が、必要だった。
玄関で、レオンが、マントを、羽織っていると、階段を、ぱたぱた、と、駆け降りてくる、足音が、した。
「——お兄ちゃん!」
寝間着に、ガウンを、羽織っただけの、シエラ、だった。目は、まだ、少し、とろり、としている。
「——組合、行くの?」
「うん、今から」
「——しっかりね」
シエラは、小さな、拳を、ぎゅ、と、握った。
「シエラ、お留守番、ちゃんと、する。——お昼、みんなの、分、用意して、待ってる」
「ありがとう、シエラちゃん」
「——じゃ、いってらっしゃい!」
「——いってきます」
---
冒険者組合の、大広間。
今日は、式典の、時のような、紅白の幔幕は、張られていない。
代わりに、普段の、事務的な、広間に、——重厚な、机が、一つ、据えられていた。支部長の、席だった。
支部長ブランドル・ヘイワードが、大きな椅子に、静かに、座っていた。
四十代後半。灰色の髪を、ぴしりと、整えている。金縁の眼鏡の奥の、緑の瞳が、鋭く、レオンたちを、見ていた。
机の、両脇には、組合の、書記役の二人。さらに、左側に、別のギルドの代表者が、一人ずつ、座っていた。
『斜陽の盾』、マスターの、大剣使い、ザッシュ・ドルム。
『虎牙の商隊』、マスターの、商人兼冒険者、グラント・ヴェルス。
そして、——右側に。
『煤色の呪紋』の、副マスター、と、名乗る、三十代半ばの、女性が、静かに、座っていた。
彼女は、カインとは、対照的に、穏やかな、丁寧な、気配を、纏っていた。淡い、褐色の髪を、きっちり、後ろで、結い、黒い、シンプルな、ローブを、着ている。
レオンは、そちらに、目を、向けた。
「——はじめまして」
女性は、深々と、頭を、下げた。
「——『煤色の呪紋』、副マスター、ラヴィーナ・モーラン、と、申します」
「——モーラン」
アイリスが、眉を、上げた。
「——カインの、姉です」
ラヴィーナは、穏やかに、答えた。
「——昨日の、愚弟の、件で、深く、お詫びを、申し上げる、ために、参上、いたしました」
---
支部長ブランドルが、机を、こつん、と、指で、叩いた。
「——では、事情聴取を、始める」
彼の声は、静かだったが、威圧感が、あった。
「——まず、結論から、申し上げる」
「はい」
「——カイン・モーラン、並びに、『煤色の呪紋』の、幹部四名——昨日、迷宮第十五層で、『沈み鐘』の、封印解除を、試み、同行冒険者の、複数名を、生贄として、使役しようとした」
「——」
「——彼らは、闇行為の、現行犯として、組合の、規定により、——ギルド資格の、永久剥奪、並びに、王都の、『夜鴉塔』に、終身収監、と、処する」
会場に、しばらく、沈黙が、流れた。
ラヴィーナが、深く、頭を、下げた。
「——異議、ございません」
「——『煤色の呪紋』の、取り扱いは」
ブランドルが、続けた。
「——ギルドの、存続は、認める」
「——」
「——ただし、ギルドマスターの、譲渡を、速やかに、行うこと。ラヴィーナ・モーラン、貴殿が、新たな、マスターと、なることが、既に、組合に、仮承認、されている」
「——」
「——また、『煤色の呪紋』は、——本件の、慰謝料として、参加三ギルドに、各五十万ルナを、支払うこと」
「——承諾、いたします」
ラヴィーナは、深く、頷いた。
レオンは、少し、驚いて、ラヴィーナを、見た。
五十万ルナ——ステラ・レギアにとって、巨額の金額、だった。
しかも、『斜陽の盾』にも、『虎牙の商隊』にも、同額。合計、百五十万ルナ。
『煤色の呪紋』の、財政的な、打撃は、相当、大きい、はず、だった。
ラヴィーナは、それでも、頷いた。
——それが、彼女の、弟の、罪の、償い、だった。
---
ブランドルが、続けた。
「——次に、本件で、被害を、未然に、防いだ、『ステラ・レギア』の、功績に、ついて」
「——」
「——事実関係を、改めて、確認する」
書記役が、書類を、読み上げた。
「——当該、迷宮第十五階層での、合同任務において。カイン・モーランの、呪術発動の、異変を、最初に、感知したのは、——『ステラ・レギア』の、迷宮機動部隊、大型ゴーレム『零式』の、索敵、によるものであった」
「——」
「——『ステラ・レギア』の、判断、並びに、行動により、——合同任務、参加者、全員が、生還」
「——」
「——本件は、組合の、公式記録に、『ステラ・レギアの、緊急判断による、救援事案』、として、記載される」
ザッシュ(『斜陽の盾』マスター)が、深く、頷いた。
「——間違い、ない」
グラント(『虎牙の商隊』マスター)も、頷いた。
「——俺も、そう証言する」
二人とも、はっきりした、声だった。
ブランドルは、眼鏡の奥で、静かに、頷いた。
「——『ステラ・レギア』には、組合から、正式な、賞状を、授与する」
「——光栄です」
「——また、今回の、『煤色の呪紋』からの、慰謝料、五十万ルナ、並びに、合同任務、本来の、報酬、十五万ルナ、合わせて、六十五万ルナを、近日中に、組合経由で、振り込む」
「——」
「——また、本件は、『ステラ・レギア』の、Dランク昇格の、推薦材料と、なるであろう」
アイリスの、目が、ほんの少しだけ、見開かれた。
「——昇格、の、話は、まだ、早いのでは」
「——」
「——Eランクに、なったばかり、だ」
「——」
「——我がギルドは、実績を、積み重ねて、昇格したい」
ブランドルは、しばらく、アイリスを、見ていた。
それから、穏やかに、頷いた。
「——アイリス・エスフィア殿の、おっしゃる通り、です」
「——」
「——今回の、功績は、——あくまで、『推薦材料』です。昇格の、時期は、貴ギルドの、通常の、実績の、積み上げを、待ちます」
「——ありがとうございます」
「——ブランドル殿の、配慮に、感謝」
アイリスが、頭を、下げた。
レオンも、深く、頷いた。
——アイリスは、こういう、正道を、選んだ。
一度の、英雄的な、功績で、昇格するより、——地道な、Eランクとしての、活動を、積んで、昇格する方を、選んだ。
それは、ディアナ殿(第9話、『翠緑の風』ギルドマスター)の、言葉を、彼女なりに、噛み締めて、いる、結果、だった。
『ギルドを、続ける仕組み、が、要る』。
レオンも、その、選択に、深く、同意した。
---
聴取の、最後。
ブランドルが、少しだけ、声を、落として、言った。
「——『沈み鐘』の、封印の、件に、ついて」
「——はい」
「——カインの、発動は、未完で、中断された。だが、祭壇には、未だに、——何かが、眠っている」
「——」
「——組合の、上層部は、この件を、——長期的な、管理事項と、する、方向で、検討している」
「長期的、管理」
「——『沈み鐘』周辺を、管理区画と、指定。定期的な、調査を、組合主導で、実施」
「——」
「——本件の、情報を、知っている、ステラ・レギアには、——定期的な、情報共有を、お願いしたい」
レオンは、頷いた。
「——承知、いたしました」
「——また、貴ギルドの、『零式』の、動力源——赤い宝石、に、ついて」
「——」
「——ルル・メカニス殿」
ルルが、背筋を、伸ばした。
「——はい」
「——貴殿の、大型ゴーレムが、『始原の民』の、呪力を、打ち消したこと、——組合の、魔道具研究部門でも、注目しています」
「——」
「——当ギルドの、研究に、協力、いただけるか」
ルルは、しばらく、考えた。
「——条件付き、で」
「条件」
「——零式の、動力源は、解体しない。——調査は、組合施設、非破壊での、観測に、限る」
「——結構です」
「——また、調査結果は、——ステラ・レギアにも、共有、する」
「——それも、結構です」
「——では、協力、いたします」
ルルは、深く、頷いた。
彼女の、ゴーグル越しの、瞳は、——少しだけ、誇らしげ、だった。
---
聴取が、終わり、一行が、組合の、大広間を、出ようとした時。
ラヴィーナが、レオンたちの、前に、歩み寄ってきた。
「——管理人殿」
「——はい」
「——アイリス殿。——ルル殿」
「——」
ラヴィーナは、深く、頭を、下げた。
「——愚弟が、多大なる、ご迷惑を、お掛けしました」
「——」
「——本当に、本当に、——申し訳ございませんでした」
「——」
レオンは、しばらく、彼女の、下げた頭を、見ていた。
それから、静かに、答えた。
「——ラヴィーナ殿、——頭を、お上げください」
「——」
「——カイン殿の、罪は、カイン殿の、罪です。——ラヴィーナ殿の、罪では、ない」
「——」
「——あなたが、弟君の、代わりに、責任を、負う必要は、ありません」
ラヴィーナは、ゆっくりと、顔を、上げた。
目が、潤んでいた。
「——ありがたい、お言葉です」
「——」
「——ですが、私には、姉として、——そして、『煤色の呪紋』の、新たな、マスターと、して、の、責任が、あります」
「——」
「——このギルドが、再び、街で、働けるように——私は、頭を、下げて、回り、ます」
「——」
アイリスが、静かに、頷いた。
「——ラヴィーナ殿」
「——はい」
「——『煤色の呪紋』が、カインの、道に、染まっていた、わけでは、ないことは、——昨日、副マスターの、あなたが、いないところで、事件が、起きたこと、で、分かりました」
「——」
「——ギルドは、再建、できます」
「——ありがとうございます」
ラヴィーナは、もう一度、深く、頭を下げた。
別れ際に、彼女は、小さな、紙包みを、レオンに、手渡した。
「——カインが、工房で、研究していた、——古い、書物の、写し、です」
「——」
「——『始原の民』、に、関する、記述が、いくつか、あります」
「——ありがとうございます」
「——どうぞ、お役立て、ください」
ラヴィーナは、深く、一礼して、去っていった。
その、背中は、——彼女が、これから、街中に、頭を、下げて、回る、覚悟を、背負った、背中、だった。
---
組合を、出て。
午後の、街。
レオンと、アイリスと、ルルは、ギルドへの、帰り道を、ゆっくりと、歩いた。
「——疲れたな」
アイリスが、ぽつりと、言った。
「——はい」
「——昇格の、推薦を、断って、良かったか?」
「——良かったです」
レオンは、即答した。
アイリスは、ちょっと、笑った。
「——お前も、ディアナ殿の、話、覚えてたんだな」
「はい」
「——『やる気』から、『仕組み』へ」
「——はい」
「——今回の、昇格は、『やる気』の、方の、昇格だ」
「——はい」
「——我々が、欲しいのは、『仕組み』の、昇格、だ」
「——はい」
ルルが、ぽくぽくと、頷いた。
「——合理的、な、判断」
坂道を、登っていると、街の人が、何人か、こちらを、見てきた。
——視線が、昨日までと、少しだけ、違っていた。
朝の市場を、抜けた時。
乾物屋の、おばさんが、店先から、大きな声で、呼びかけた。
「——おうい、レオンのあんちゃん!」
「あ、おばさん」
「聞いたぞ、昨日、迷宮で、大変だったんだってなあ!」
「——はい」
「無事でよかったよ、うちの亭主の、弟も、『斜陽の盾』、にいるんだよ」
「あ、そうなんですか」
「そっから、話が、回ってきた」
「あの、お元気で?」
「元気、元気。——あんたらの、おかげで、今日も、生きて、朝食、食べてる、って」
おばさんは、快活に、笑った。
「——これな、おまけ」
彼女は、レオンの、手に、小さな、袋を、押し付けた。
「——乾燥ハーブ、詰め合わせ。——家の、シチュー、の、味が、ちょっと、変わるから」
「——いいんですか」
「——ある種、命の、謝礼、だよ」
「——」
「——次、うちの、亭主の、弟、連れて、あんたんとこ、呼ぶからな、覚えとけよ!」
「——はい、ぜひ」
おばさんは、手を、振って、また、店の奥に、戻っていった。
三人は、しばらく、黙って、歩いた。
それから、ルルが、ぽつりと、呟いた。
「——合理的、な、感謝」
「——街中の、噂の、広がり方、は、早いな」
アイリスが、頷いた。
「——昨日の、今日で、もう、ここまで、回っている」
「——ザッシュ殿の、ギルドは、この街で、長い」
「——」
「——彼らに、恩を、売ったのは、——我々の、街での、立場を、大きく、変える」
「——」
「——悪く、ない」
アイリスは、少しだけ、笑った。
---
ギルドに、帰り着いた。
玄関の、扉を、開けた時、中から、賑やかな、声が、聞こえてきた。
シエラの、声。
そして、——もう、二つ、別の、男性の、声、だった。
「——お客さん?」
レオンが、眉を、上げた。
応接室を、覗くと——
ザッシュ・ドルム。
そして、グラント・ヴェルス。
『斜陽の盾』と、『虎牙の商隊』、両ギルドの、マスターが、ステラ・レギアの、応接室に、座っていた。
彼らの、前には、シエラが、小さな、お盆に、お茶と、焼き菓子を、乗せて、運んでいた。
「——お兄ちゃん、おかえりー!」
「あ、——どうも」
レオンは、慌てて、会釈した。
「ザッシュ殿、グラント殿」
「——よう、レオン」
「おう」
二人が、同時に、挨拶した。
ザッシュ(大剣使いの、中年の、男)が、ゆっくりと、立ち上がった。
「組合の、聴取、お疲れさん」
「——はい」
「俺ら、聴取の、後、すぐ、こっちに、来た。——昨日、ちゃんと、礼を、言えてなかったから、な」
「——」
グラント(商人兼冒険者の、恰幅のいい、男)も、立ち上がって、深く、頭を、下げた。
「——ステラ・レギアの、皆、おかげで、俺ら、生きて、今日、めし、食ってる」
「——」
「——こんな、形で、しか、礼を、言えないのは、——我がギルドの、面子に、関わる」
彼は、懐から、一枚の、書状を、取り出した。
「——『虎牙の商隊』として、——ステラ・レギアに、『友好ギルド』の、盟約を、申し込みたい」
「——友好ギルド」
「——合同任務での、優先的な、協力。情報の、共有。困った時の、相互援助」
「——」
「——今日、組合で、正式に、登録したい」
ザッシュも、別の、書状を、取り出した。
「——『斜陽の盾』も、同じだ」
「——」
アイリスが、ちょっと、目を、見開いた。
「——二つのDランクギルドから、同時に、——正式な、友好盟約、か」
「ステラ・レギアは、Eランクですが、大丈夫なんですか?」
「ランクは、関係ねえ」
ザッシュが、穏やかに、答えた。
「——俺らは、肌で、分かるんだ」
「——」
「——付き合いたい、ギルドか、どうか。それだけ、だ」
「——」
レオンは、しばらく、二人を、見ていた。
それから、深く、頭を、下げた。
「——ありがとうございます」
「——受けて、くれるか」
「——はい」
「——よし」
グラントが、にかっ、と、笑った。
「——じゃ、今夜、一杯、やるか!」
「——え」
「——もち、俺らの、おごりで、な」
「——はい、ぜひ」
アイリスが、小さく、笑った。
「——ありがたく」
「——若い連中の、ぶん、みっちり、頼んでくれよ」
「——」
---
その夜。
街の、酒場『白鳩亭』。
ステラ・レギアの、メンバーと、『斜陽の盾』、『虎牙の商隊』の、面々が、一つの、大きな、円卓を、囲んでいた。
シエラは、アイリスの、隣で、ジュースを、飲んでいた。小さな、赤いリボンの、ワンピース姿。ちょっと、緊張した、顔、だった。
ルルは、普段の、ツナギの上に、エレーナが、『少し、街で、見栄え、するように』と、貸してくれた、紺色の、上着を、羽織っていた。
レオンは、——五浪中に、街の、宴会、なんて、参加したことが、なかったので、妙に、緊張していた。
「——よく、来た、ステラ・レギア!」
『斜陽の盾』の、副マスターという、大柄な、赤毛の、男が、立ち上がって、叫んだ。
「今夜は、俺ら、大事な、大事な、友好ギルドを、祝う!」
「「おおーっ!」」
「——乾杯!」
「「乾杯!」」
ジョッキが、高く、掲げられた。
二十人ほどの、声が、重なって、酒場が、湧いた。
レオンは、麦酒を、初めて、口にした。
苦かった。
けれど、食堂の、シチューの温もりとは、また、違う、温度が、そこには、あった。
大人たちの、温度、だった。
「——レオン、大丈夫か」
隣で、アイリスが、心配そうに、訊いた。
「——はい。——ただ、初めての、麦酒、ちょっと、辛いです」
「——薄いのを、頼め」
「——はい」
「——シエラも、食うのに、集中、しとけ。大人たちの、話は、無理に、聞かなくて、いい」
「——うん、お姉ちゃん!」
シエラは、目の前の、鶏の、丸焼きを、熱心に、頬張っていた。
ルルは、一人、酒場の、天井の、魔道具ランプを、じっと、観察していた。
「——あの、魔動力学の、改良型だ。——素晴らしい」
「——ルル、お前は、いつでも、機械だな」
「——合理的、な、観察、だ」
「——」
アイリスは、ふ、と、笑って、グラスを、傾けた。
酒場の、ざわめきの、中で、——
彼女が、ぽつりと、呟いた。
「——レオン」
「——はい」
「——今日、ちゃんと、昇格を、断って、——私は、お前が、誇らしい」
「——」
「——我々は、積み重ねで、昇格する」
「——はい」
「——一歩、ずつ、だ」
「——はい」
アイリスの、真紅の、瞳が、ランプの光で、綺麗だった。
レオンは、ちょっと、頬が、熱くなって、麦酒を、もう一口、飲んだ。
苦かった。
けれど、今夜の、苦さは、——居心地が、よかった。
---
夜、遅く。
ステラ・レギアへの、帰り道。
レオンは、少し、足元が、ふらついていた。麦酒、一杯、半、だけで、酔いが、回っていた。
「——大丈夫か、お前」
アイリスが、肘を、掴んでくれた。
「——はい、たぶん」
「——酒、弱いな」
「——五浪中、一度も、飲まなかった、ので」
「——健康優良児、だな」
「——」
シエラは、ルルの、手を、握って、眠そうに、ふらふら、歩いていた。
ルルは、ルルで、珍しく、少しだけ、頬が、赤かった。「——麦酒、合理的に、不味い」、と、一口だけ、試して、それっきり、だったはずなのだが、——身体の、代謝が、遅いのかもしれない。
ギルドの、丘を、登った。
玄関の、扉を、開けた時。
——待っていた、のは、エレーナだった。
占星台から、ちょうど、降りてきたところ、らしかった。
ワインボトルでは、なく、——分厚い、革張りの、書物を、一冊、抱えていた。
「——お、帰ってきたね」
「——エレーナさん」
「——聞いたよ、組合での、事情聴取、首尾よく、終わったそうで」
「——はい」
「——ステラ・レギア、Dランクの、推薦、断った、って?」
「——はい」
「——ふっ、——アイリス、お前、らしい、判断」
「——」
「——『翠緑の風』の、ディアナの、教え、を、ちゃんと、消化してるな」
「——」
アイリスは、ちょっと、肩を、すくめた。
エレーナは、書物を、軽く、叩いた。
「——少年」
「——はい」
「——一つ、話したいことが、ある」
「——」
「——今夜、——少し、星が、落ち着いたから、な」
「——」
エレーナは、にやり、と、笑った。
「——お前の、部屋に、寄らせてもらっていいかい」
「——はい」
「——短いよ」
---
レオンの、部屋。
ベッドの、縁に、エレーナが、座った。
レオンは、窓際の、小さな、椅子に、腰掛けた。
疲れが、全身に、溜まっていた。けれど、ここで、エレーナが、話したい、ことがある、と、言うなら、——聞く、べき、だった。
エレーナは、抱えていた、革張りの、書物を、ベッドの上に、置いた。
「——これ、あたしの、家の、蔵書の、写し、だ」
「——『アスラクス家』の?」
「そう」
エレーナは、頁を、一枚、めくった。
そこに、描かれていたのは——
古びた、絵。
『沈み鐘』のような、形の、巨大な、鐘、の、スケッチ、だった。
そして、鐘の、表面には、——
レオンの、お守りと、同じ、円環の、紋様、が、描かれていた。
「——」
レオンは、息を、呑んだ。
「——これは」
「——『アスラクス家』が、代々、伝えてきた、『始原の民』の、記録、さ」
「——代々、伝えて」
「——千年、以上、な」
「——」
「——あたしの、家は、——『始原の民』の、血を、引いている、と、されている」
「——」
「——あたし自身、——ほんのちょっとだけ、だけど、——その、末端の、末端、の、血を、引いているらしい」
「——」
「だから、——お前の、お守りを、見た時、——すぐ、気づいた」
エレーナは、ワインを、持ってこなかった。
その目は、——いつもの、酔っ払いの、目では、なかった。
澄んだ、黒曜石の、瞳、だった。
「——少年、——お前の、夢に、出てくる、『約束の少女』」
「——はい」
「——その子は、——たぶん、『始原の民』の、血を、引いている、か、もしくは、——『始原の民』が、残した、『何か』に、繋がっている」
「——」
「——そして、その、『何か』は、——迷宮の、底に、ある」
「——」
「——具体的には、——『再会の、祭壇』、と、呼ばれる、場所」
「——」
「————百階層」
レオンは、しばらく、沈黙した。
それから、ゆっくりと、訊いた。
「——エレーナさんは、——どうして、ステラ・レギアに、いるんですか」
「——」
エレーナは、ちょっと、目を、伏せた。
「——これは、長い話だ」
「——」
「——かいつまんで、言うと、——あたしは、十八歳の時、『アスラクス家』を、飛び出した」
「——」
「——家の、『役割』に、従うのが、嫌だった」
「——『役割』?」
「——『始原の民』の、末裔として、——迷宮の、底の、『何か』を、——『守る』、あるいは、『封じ続ける』、役目」
「——」
「——あたしは、逃げた。そして、——占星術を、学びながら、各地を、放浪した」
「——」
「——セレナ殿と、出会ったのは、八年前だ。この街で」
「——叔母さん」
「——あの人は、あたしが、『アスラクス家』の者だと、気づいていた。——『逃げていい。でも、この街には、いなよ』と、言ってくれた」
「——」
「——『この街の、スターフォール・アビスの、底には、あんたの、家の、「何か」が、眠ってる。だから、あんたが、自分の、「役割」じゃ、ない、自分の、形で、——ここに、いることに、意味がある』、と」
「——」
「——八年、——あたしは、ここで、酒を、飲み、占いを、して、——自分の、役割を、放棄して、過ごしてきた」
「——」
「——でも、——お前が、来た」
エレーナは、静かに、レオンを、見た。
「——お前の、お守り、を、見た時、——あたしの、放棄してきた、『役割』、が、——戻ってきた、気が、した」
「——」
「——だから、あたしは、今、占星台で、星を、読んでる」
「——」
「——『スターフォール・アビスの、底に、眠る、何か』——あたしは、それを、守る、べき、ものか、——封じる、べき、ものか、——あるいは、——解き放つ、べき、ものか、——まだ、分からない」
「——」
「——でも、——お前と、一緒に、考えたい」
エレーナの、目は、澄んでいた。
レオンは、しばらく、彼女を、見ていた。
それから、静かに、頷いた。
「——エレーナさん」
「——はい」
「——『一緒に、考える』、——そうしてください」
「——」
「——僕も、——『再会の、祭壇』に、何があるか、——分かっていません」
「——」
「——でも、——夢の、あの子に、——会いたい」
「——」
「——それ、だけは、分かってる」
「——」
エレーナは、ふっ、と、微笑んだ。
「——分かった」
「——」
「——一緒に、歩こう、少年」
「——はい」
エレーナは、立ち上がった。
「——写しの、書物は、預けとく。——暇な時に、読んでおけ」
「——ありがとうございます」
「——急がなくて、いい」
「——はい」
「——おやすみ、少年」
「——おやすみなさい」
エレーナは、ドアを、閉めた。
廊下の、足音が、ゆっくり、遠ざかっていった。
---
部屋に、静けさが、戻った。
レオンは、ベッドに、腰掛けて、しばらく、何も、しなかった。
ただ、革張りの、書物を、そっと、撫でた。
それから、——胸元の、三つの、形見を、取り出して、机の上に、並べた。
古びた、円環の、お守り——約束の少女の、形見。
銀色の、『天界の盾』の、紋章——アイリスの、師の、形見。
『ヴェスパー』、と、縫い取られた、布切れ——アイリスからの、家族の印。
三つは、月明かりの中で、静かに、光っていた。
——僕の、背負うもの、は、増えた。
けれど、同時に、——僕を、支える、手、も、増えた。
「——ありがとう、みんな」
小さく、呟いた。
窓の外で、秋の風が、中庭の、アザミを、揺らしていた。
スターフォール・アビスの、青白い光は、今夜も、夜空に、静かに、輝いていた。
その、深い、深い、底に、——
古代の、『何か』が、眠っている。
いつか、僕らは、そこに、辿り着く。
一歩、ずつ、だが、——確実に。
レオンは、三つの、形見を、丁寧に、胸元の、ポケットに、戻した。
そして、ベッドに、倒れ込んだ。
麦酒の、酔いが、心地よく、彼を、深い、眠りへと、誘っていった。
ステラ・レギアの、十五日目の、夜が、静かに、更けていった。
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第十二話 了




