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『街の声、ただいまの匂い』

昨日の、昇格式の、余韻は、思いのほか、静かに、過ぎていった。


食堂の、朝食の席で、アイリスは、いつもの席で、いつものように、パンを、ちぎっていた。ただ、制服の、襟元に、小さな、銀の飾りピンが——リーゼから贈られた、片翼の曲がったブローチを、留めていないその代わりに、別の、無地の、細い、銀のピンが、静かに、光っていた。


「——今日は、街の、二日目のお掃除、ってことにしたいなあ」


レオンが、スープを、配膳しながら、言った。


「掃除?」


「うん、ギルドの、掃除じゃなくて、——街への、挨拶回りというか」


「ほう」


「昨日、式で、色んな人の、顔を見たでしょ。——ガロン爺さんには、プレートが無事ついたよ、って、ひとこと、伝えたいし」


「——まあ、道理だな」


アイリスは、頷いた。


「市場にも、寄ってこようと思って。オルトロスの素材とか、ブラッドフェザーの羽、売った時、お世話になったお店にも、ちょっと、挨拶したいなって」


「——お前は、本当に、そういうところ、丁寧だな」


「五浪してる間に、叩き込まれました」


「なにが」


「顔を、覚えてもらうこと、が、商売の、半分なんだって」


「ふん」


アイリスは、少しだけ、笑った。


シエラが、スプーンを、持つ手を、止めた。


「——お兄ちゃん」


「うん」


「お兄ちゃんだけで、行くの?」


「うん、僕だけで、ゆっくり、回ってこようかと思って。みんなで、ぞろぞろ行くと、零式くんの、縮小モードも、まだ、できてないし」


「——縮小モード、作業中」


ルルが、食卓の端から、ぼそり、と、答えた。


「今月中には、完成する」


「今月中、ルル姉ちゃん、そのセリフ、三回目」


「——合理的に、難しい、案件だ」


「——シエラは、お留守番?」


「うん、シエラちゃん。アイリスさんが、午前中、庭の修練。午後、ルルちゃんが、零式くんの調整。それで、シエラちゃんは、召喚の練習、どう?」


「うん! 白狼さまと、風の雄鷹さまと、もうひとりも、呼べるように、なりたい!」


「——三体目?」


「ルル姉ちゃんが、シエラの、呼び出し術式、改良してくれた、って」


「——合理的な、支援、だ」


「ルル姉ちゃん、ありがとう!」


食堂は、いつもの、賑やかさだった。


エレーナは、今日も、朝食には、出てこなかった。昨日、正装で、一日、気を張っていた疲労が、たぶん、今日の、遅い朝寝に、流れたのだろう。


「——それじゃあ、行ってきます」


「——気をつけろ」


「はい」


「——道で、妙なのに、絡まれるなよ」


「——絡まれたら、肉壁で」


「——肉壁は、もう、使うな」


「はい」


アイリスは、ふん、と、鼻を、鳴らした。


けれど、その目は、少しだけ、笑っていた。


---


秋の、朝の、ルミナリアの、街並みは、空気が、澄んでいた。


石畳の、坂道を、レオンは、一人で、下った。朝の、市場は、もう、動き始めている。遠くで、荷馬車の、車輪の軋む音。パン屋の、窯から立ち昇る、白い湯気。路地の角で、小さな子供たちが、駆け回る声。


エプロンの、胸ポケットの中で、踏破くんちびが、ちょこん、と顔を出して、街並みを、眺めていた。最近は、もう、街に出る時は、ちびを連れていくのが、当たり前に、なっていた。ちびは、レオンの肩越しに、石畳の、馬糞だとか、子供の駆け足だとかを、観察するのが、妙に、お気に入り、らしかった。


「今日は、どこから、行こうか、ちび」


ちょこん、と、お辞儀。


「ガロン爺さんのとこ、先?」


ちょこん。


「そうだね。そっちが、先」


レオンは、軽く、ちびの頭を、指先で、撫でた。


職人組合の、裏通り。


白髭の、ガロン爺さんの、工房は、木造の、古いけれど、手入れの行き届いた、石積みの二階建てだった。入り口に、『ガロン工務』と、墨書きの、木の看板が、下がっている。


レオンが、戸口を、軽く叩くと、中から、しわがれた声が、返ってきた。


「——開いてるぞぉ」


引き戸を、開けると、鉋屑(かんなくず)の、甘い匂いが、ふわりと、立ち上った。


工房の、中央の、作業台で、ガロン爺さんが、煙管(きせる)を、吹かしながら、椅子の背板を、削っていた。大きな、荒削りの、椅子だった。


「——ガロン爺さん、おはようございます」


「おう、あんちゃんか」


ガロン爺さんは、顔を上げて、ふっ、と、目を、細めた。


「昨日は、見たぞ。式」


「え、来てたんですか」


「組合の、会場の、隅に、いたからな。——俺も、Dランクの、ジジイ冒険者、だった時期が、あるからよ、こう見えて、な」


「あ、そうなんですね!」


「ハッハ、Dランクで、あんまり、伸びずに、畳んで、職人に、なったよ。——が、ステラ・レギアが、Eに、上がるのは、見てやりたくてな」


「……ありがとうございます」


ガロン爺さんは、煙管を、ひと吹きして、椅子の、背板を、また、削った。


「で、どうだ、屋根と、壁は」


「昨日の、雨でも、漏れませんでした」


「——うむ」


「漆喰、ルルちゃんの錬金が、意外と、強くて、乾いても、ひび割れないんです」


「——ほう、あのゴーグルの嬢ちゃん、腕、あるな」


「はい」


「あの、ちっこいロボットも、見たぞ。昨日の式の後、街、歩いて、帰ってる時に。——踏破くん、っての、か?」


「そうです」


「あんなの、子供が、喜ぶだろうな。——ウチの、孫も、見てみたいって、言ってたぞ」


「孫、いらっしゃるんですか?」


「三人。一番下は、六つだ」


ガロン爺さんは、ふっ、と、目を、細めた。


「うちの嫁の、姉の、孫で、な。週末だけ、こっちに、遊びに来る」


「今度、連れてきていいですか、踏破くん」


「——おう、連れてきな。この爺、椅子の、端切れで、ミニチュアの、机とか、椅子とか、あいつらの、サイズのを、作ってやるよ」


「踏破くん、喜ぶだろうなあ」


「俺も、嬉しいよ」


ガロン爺さんは、煙管を、もう一服、吸った。


それから、ふと、レオンを、見て、ぽつり、と言った。


「——あんちゃん」


「はい」


「一月で、E、は、速いな」


「はい、おかげさまで」


「でも、な」


「はい」


「速い昇格は、よく見られる、同じくらい、妬まれる」


「——」


「嬉しいのは、嬉しいんだが、——耳、には、気をつけな」


「耳?」


「あちこちで、ステラ・レギアの、悪口、ぼちぼち、聞こえる、ようになるぞ」


「——」


「全部、真に受けなくて、いい」


ガロン爺さんは、煙管を、作業台の端に、こつん、と、置いた。


「——でも、たまには、耳を、傾けな。中には、本当のことも、混じってる」


「——はい」


「俺が、聞いた限り、——今、ステラ・レギアの悪口を、一番、大声で、言ってるのは、——『煤色の呪紋』って、ギルドだ」


「『煤色の呪紋』?」


「呪術、を、売りにしてる、Cランクのギルドだ。——マスターが、気難しい、若い男で、な。あんちゃんの、ことを、『肉壁の若造』、って、呼んでる」


「——肉壁は、当たってるので、問題ないです」


「いや、問題あれよ」


ガロン爺さんは、笑った。


「まあ、とにかく、耳に、入れとけ。——踏破くんを、つれて、また、来いよ」


「はい、ありがとうございます」


レオンは、深く、頭を下げて、工房を、出た。


戸口の向こうで、ガロン爺さんが、もう、椅子の背板の、続きを、削り始めていた。


---


職人組合の、通りから、市場の方へ。


道の、曲がり角で、レオンは、小さな、声を、かけられた。


「——あ、お兄ちゃん! ステラ・レギアの、お兄ちゃんだ!」


振り向くと、六、七歳くらいの、男の子と、女の子の、二人組、だった。


どろんこの、膝小僧。木の枝を、片手に、持っている。どこかの、遊びの、途中、らしい。


「おはよう、きみたち」


「昨日、おじいちゃん、組合の、会場の、帰り、『ステラ・レギアが、星一つ、もらった』、って、言ってた!」


「うん、そう」


「すごいね!」


「ありがとう」


「ねえ、ねえ」


女の子の方が、勇気を、ふるって、前に出た。


「そのポケットの、ちっちゃいの、見せて」


「——」


レオンは、ちょっと、笑った。エプロンの、胸ポケットで、ちびが、ぴょこん、と、顔を、出した。


子供たちが、目を、まん丸に、した。


「うわー、うごいてる、うごいてる!」


「ほんものだ、ほんものの、ロボット!」


「さわっても、いい?」


「そっとね」


二人は、恐る恐る、指先を、伸ばして、ちびの、鋼の、頭を、つついた。


ちびが、ちょこん、と、お辞儀した。


「うわー、おじぎした!」


「おじぎするロボットだー!」


子供たちは、しばらく、きゃあきゃあと、騒いだ。


やがて、女の子が、小さな手を、引っ込めた。


「——お兄ちゃん」


「うん?」


「ね、お兄ちゃんのところ、もっとたくさん、いるんだって?」


「うん、十四体、いるよ」


「——うち、お姉ちゃんが、来年、冒険者の、試験、受けるの」


「そうなんだ」


「お姉ちゃんが、『試験、受かったら、ステラ・レギアの、面接、受けにいくの』、って、言ってた」


「——そうなの?」


「お姉ちゃん、あのちっちゃいロボットたちと、働きたい、って」


レオンは、ちょっと、驚いた。


それから、ふっ、と、微笑んだ。


「——お姉ちゃん、頑張って、って、伝えてね」


「うん!」


「試験、受かったら、ぜひ、面接、来てください、って」


「うん、伝える!」


「ばいばい、お兄ちゃん!」


「ばいばい」


子供たちは、木の枝を、振りながら、走って、路地の奥へ、消えていった。


レオンは、しばらく、その姿を、見送った。


——『ステラ・レギアで、働きたい』。


そんな風に、言われた日が、来るなんて、一月前の、五浪中の、レオンには、想像も、できなかった。


ちびが、胸ポケットから、もう一度、ちょこん、と、顔を出した。


「——嬉しいね、ちび」


ちょこん、と、お辞儀。


レオンは、坂道を、また、下っていった。


---


ルミナリア中央市場。


午前中の、市場は、人で、ごった返していた。


果物屋、魚屋、野菜屋、乾物屋、スパイス屋、肉屋、香油屋、織物屋——。


石畳の、両側に、店の軒が、ぎっしりと、並んでいる。空気は、果物の甘さと、肉の血の匂いと、香辛料の刺激と、——人の、熱気で、満ちていた。


レオンは、乾物屋の、小さな、間口の前で、足を、止めた。


「——おう、レオンのあんちゃん!」


店主の、日焼けした、三十代半ばの、女将さんが、声を張り上げた。


「——見たよ、昨日! ちゃんと、E、もらったって、な!」


「おかげさまで」


「で、今日は、何、買ってくんだい」


「乾燥茸、この前のやつ、まだ、あります?」


「あるある、こないだ、分けたやつの、姉妹品、入ったよ。こっちのが、もうちょい、高い」


「どれくらい?」


「百グラムで、七百ルナ」


「——普段の、二倍、だなあ」


「そりゃ、そうだよ、質が、違う」


女将さんは、ニカッ、と、笑った。


「けど、あんちゃんとこ、Eなんだろう? このくらい、買える、はず、だ」


「——そうですね、百グラム、いただきます」


「まいど!」


女将さんは、手際よく、乾燥茸を、量った。


計量皿の上で、茸が、ぱらぱら、と、動いた。


「——あんちゃんさ」


「はい」


「家のギルドは、女の子ばっかり、なんだろ」


「はい」


「あんたも、色々、苦労、するねえ」


「え、苦労、ですか?」


「そりゃあ、女所帯は、管理人が、大変、さあ」


「——案外、そうでも、ないですよ」


「ほう?」


「みんな、気を、遣ってくれるから」


「——そうかい」


女将さんは、ちょっと、驚いたような、顔をした。


それから、ふっ、と、笑った。


「——あんちゃん、そういう、顔で、そう言うと、たぶん、ほんとに、そうなんだろうな」


「どういう意味ですか?」


「自慢しない、自慢、って、やつだよ」


「——自慢、してないです」


「——してないから、強い、って、話だよ」


女将さんは、茸を、袋に、詰めた。


「はい、七百ルナ」


「ありがとうございます」


「あとな」


「はい?」


「——これ、サービス」


女将さんは、別の袋を、レオンの、買い物袋に、ぽん、と、入れた。


「え、これは」


「乾燥果物の、端切れ。家のちっちゃい子、——シエラちゃん、って、言ったかい?——甘いもの、好きだろう」


「——はい」


「おまけだ」


「……ありがとうございます」


「式の、お祝い、だ」


女将さんは、にかっ、と笑って、手を、ひらひらと、振った。


「また、来いよ、レオン」


「はい、必ず」


レオンは、会釈して、乾物屋を、あとに、した。


胸が、少しだけ、温かかった。


---


市場を、歩きながら、他の、顔なじみの店にも、レオンは、顔を出した。


以前、ブラッドフェザーの、羽を、買い取ってくれた、革工房。


ブラッドフェザーの、翼の、軽くて頑丈な、骨の部分を、買い取ってくれた、家具職人。


小麦粉と、塩を、いつも、値切りなしで、売ってくれている、小さな、小麦粉屋。


どこに行っても、昨日の昇格の話は、もう、知れ渡っていた。


「ステラ・レギア、Eランクに、なったんだって?」


「頑張ってるねえ、若い管理人さん」


「うち、ちっちゃい娘が、『ロボットの、お兄ちゃん』って、あんたのこと、呼んでるよ」


ある店で、「ちょっと、割引してやるか」と、小麦粉の、値段が、五ルナだけ、安くなった。


別の店で、「おまけ」、と、小さな、塩漬けのハムが、一切れ、追加された。


さらに別の店では、「今度、取れたての、秋茄子が、入ったら、取っておいてやるから、また来い」、と、声を、かけられた。


それらは、どれも、大した、値打ちでは、なかった。


けれど。


——街が、ステラ・レギアを、見ている。


それが、レオンには、はっきりと、感じられた。


——そして、それは、ずっと、叔母のセレナが、作ってきた、この街との、細い、細い、繋がりの、延長線、の上にも、あった。


だから、これは、全部、自分の手柄では、なかった。


叔母が、三十年、貯金してきた、信頼の、利子、だった。


レオンは、何度も、何度も、頭を下げて、市場を、回った。


---


市場の、中央の、広場。


大きな、掲示板の前で、レオンは、足を、止めた。


組合が、街中の、冒険者向けに、依頼の、抜粋を、掲示している場所、だった。


板の上には、今日も、数十枚の、羊皮紙が、ピンで、留められていた。


『迷宮第二層、薬草採取、報酬三万ルナ、F・E級推奨』


『荷運び護衛、街道ルミナリア—メルシェ間、報酬十万ルナ、E級推奨』


『迷宮第十二層、偵察、報酬二十五万ルナ、D級以上』


『街郊外、小型魔獣の巣、退治、報酬八万ルナ、E級推奨』


——そして、そのうちの一枚、に。


レオンの、目が、留まった。


『——迷宮第十五階層、古代遺跡調査、同行者募集。 主催:『煤色の呪紋』。 推奨ランク:D以上。 報酬:六十万ルナ(参加ギルドごと)』


——『煤色の呪紋』。


ガロン爺さんの、言っていた、『ステラ・レギアの悪口を、一番、大声で、言ってる』、ギルド、の、名前、だった。


レオンは、その羊皮紙を、じっ、と、見つめた。


『同行者募集』


大きな依頼を、複数のギルドで、協力して、受ける。いわゆる、合同任務、の、呼びかけ、だった。


六十万ルナは、魅力的だった。


ステラ・レギアの、借金一万五千ルナは、昨日、——そう、昨日、完済したばかり。ようやく、『借金のない、ギルド』に、なった。


六十万ルナが、あれば、さらに、ギルドの、修繕が、進む。ルルの発明品の、材料を、買える。シエラの、召喚術の、教本を、揃えられる。——アイリスの、銀の肩当てを、新調できる。


けれど。


推奨ランクは、D以上。ステラ・レギアは、昨日、Eに、上がったばかり。


——そして、主催が、『煤色の呪紋』。


レオンは、しばらく、その羊皮紙を、見ていた。


——ガロン爺さんの、「耳には、気をつけな」、の、言葉が、思い出された。


「——少年」


背後から、声が、した。


振り向くと、黒い、占星術師の、ローブ——と、ワインボトル——を、持った、エレーナが、そこに、立っていた。


「え、エレーナさん? 起きてたんですか」


「午前中に、起きることも、ある」


「珍しいですね」


「——お前が、街に出てから、二時間くらい、経って、起きた。で、追いかけてきた」


「追いかけて?」


「ちょっと、——星が、気になってね」


エレーナは、にやり、と、笑った。


そして、掲示板の、『煤色の呪紋』の、羊皮紙を、顎で、示した。


「——それ、見ていたかい?」


「はい」


「——少年、これは、受けるな」


「——」


「——まあ、受けようが、受けまいが、——受ける前に、ちょっと、うちで、相談しな」


「はい」


「今の、少年の、顔」


「——はい?」


「受ける気、七割くらい、あった顔、だ」


「——当たりです」


「そう」


エレーナは、ワインボトルを、軽く、振った。


「でもね、少年」


「はい」


「受けるなら、条件を、つけろ。——『煤色の呪紋』、ただの、合同任務、には、してこない」


「——」


「——連中、今、ステラ・レギアを、『肉壁の若造の、お遊びギルド』、って、馬鹿にしてる」


「——ガロン爺さんにも、そう聞きました」


「そう、なら、——受けるなら、連中の、鼻を、折る準備を、してから、受けな」


「はい」


エレーナは、ワインを、ぐい、と、呷った。


「——戻ろう。アイリスと、相談する、こと、だ」


「はい」


二人は、掲示板を、離れた。


掲示板の、羊皮紙は、秋の風に、ぱたぱた、と、揺れていた。


---


ギルドへの、帰り道。


レオンと、エレーナは、坂道を、ゆっくりと、登った。


「——エレーナさん」


「ん?」


「今日、朝から、『煤色の呪紋』のこと、星で、見えてたんですか?」


「半分」


「半分?」


「あたしの、占い、いつも、半分しか、当たらない」


「え、半分、なんですか」


「当たりすぎないように、わざと、半分だけ、視てるのさ」


「——どうして、わざと」


「全部、視えると、——人は、動かなくなる」


エレーナは、ワインボトルを、肩で、担ぐように、振った。


「『どうせ、ああなる』、『どうせ、こうなる』、——そう、分かってしまうと、人は、動けなくなるんだよ」


「——」


「だから、あたしは、視えるものの、半分だけ、視る」


「——」


「残りの、半分は、——あんたたちが、動いて、作ればいい」


レオンは、しばらく、黙って、その言葉を、噛み締めた。


「——エレーナさんの、占い」


「ん?」


「すごく、優しい、占いですね」


「——」


エレーナは、ちょっと、驚いた顔を、した。


それから、ふ、と、目を、伏せた。


「——少年、そういうことを、さらっと、言うんじゃ、ないよ」


「——え」


「——おばさんの、胸が、じーん、と、する」


「すみません」


「謝るな」


「はい」


エレーナは、ふ、と、笑った。


「——今日は、機嫌いいから、シチュー、手伝ってやってもいいよ」


「——本当ですか」


「『アスラクス家』の、秘伝、の、ハーブを、入れてやる」


「え、エレーナさんの、家の、秘伝?」


「——まあ、ね」


エレーナは、にっこり、笑った。


けれど、それ以上、自分の家の話は、しなかった。


ただ、『気が、向いた』ということ、らしかった。


---


ギルドに、戻ると、中庭で、アイリスが、剣を、振っていた。


ゆっくりとした、基本の素振り。銀髪が、午後の光に、揺れている。側で、シエラが、小さな手で、アイリスの水筒を、持って、見守っていた。膝の上には、踏破くんの、一体が、じっと、座っていた。


「——ただいま」


レオンが、声をかけると、アイリスが、素振りを、止めた。


「おかえり」


「おかえり、お兄ちゃん!」


シエラが、ぴょこん、と、駆け寄ってきた。


「市場、楽しかった?」


「うん、いっぱい、優しくしてもらった」


「えへへ、よかった」


レオンは、買い物袋の中から、乾物屋のおまけの、乾燥果物の袋を、取り出した。


「これ、乾物屋のおばさんから、シエラちゃんに、おまけ、って、もらった」


「——えっ、シエラに?」


「うん、名前で、呼んでたよ」


「——、——ぅわぁぁ」


シエラは、袋を、両手で、大事そうに、受け取って、ぎゅ、と、胸に、抱いた。


「街の、知らない、おばさまが、シエラの、名前を、呼んでくれた……」


「うん」


「——シエラ、街に、知ってもらってるのかな」


「ちょっとずつ、ね」


「——えへへ、シエラ、嬉しい」


「うん」


シエラは、目を、うるうる、させて、袋を、ずっと、抱えていた。


アイリスが、剣を、鞘に、収めながら、言った。


「——エレーナも、一緒に、戻ったのか」


「うん」


「——珍しい、組み合わせだな」


「街で、ちょっと、相談したいことが、あって」


「ほう?」


レオンは、市場の、掲示板で、見た、『煤色の呪紋』の、依頼の、話を、した。


アイリスの、眉が、ゆっくりと、動いた。


「——『煤色の呪紋』か」


「知ってますか」


「マスターの、カイン・モーランは、私と、同世代の、男だ」


「どんな人?」


「——癖が、強い」


「……」


「呪術師の、家系で、自分の、実力に、自信がある。——自分より、下の、ランクの、ギルドを、見下す、癖が、ある」


「——」


「迷宮十五層の、古代遺跡の、調査、か」


「——うん」


「——奴が、『同行者募集』を、出したのは、——自分だけでは、人員が、足りないから、だ」


「でも、相手の人手を借りる割に、見下すんですね」


「そういう、男だ」


アイリスは、ふん、と、鼻を、鳴らした。


「今夜、夕食の席で、相談しよう。ルルの、意見も、聞きたい」


「うん」


「——急いで、決めなくて、いい」


「はい」


「——受けるにしろ、断るにしろ、——慎重に、いこう」


「——はい」


アイリスは、汗を、拭って、レオンを、見た。


「——お前、今日、たくさん、頭、下げてきたな」


「え、分かりますか」


「——耳が、赤い。——寒くて、じゃ、ない、赤さだ」


「あ、そうか」


「——市場の、人達に、頭を、下げてきた、顔だ」


「——はい」


「——いい、顔だぞ」


「——」


「——管理人の、顔、だ」


レオンは、ちょっとだけ、笑った。


それから、両手を、ぐ、と、伸ばした。


「——じゃ、今日は、夕食、気合、入れようかな」


「——シエラ、お手伝いする!」


「——エレーナが、秘伝のハーブを、入れてくれるって」


「え、エレーナお姉ちゃんが、料理を!?」


「はい、お手伝い程度に、だけどね」


「珍しい、だなあ」


「今日は、みんな、珍しい日だね」


レオンは、笑った。


アイリスが、小さく、頷いた。


「——今日、お前が、街を、一人で、歩けたことが、——たぶん、一番、珍しい日だ」


「一番?」


「——うん」


「——どうしてですか?」


「——お前は、今まで、『街に、知られずに、動く』タイプの、男だった」


「——」


「——でも、今日、あちこちで、『レオン』って、名前で、呼ばれてきたんだろう?」


「——はい」


「——それが、一番、珍しい日、なんだ」


アイリスは、穏やかに、笑った。


「——ようこそ、ルミナリアへ、レオン」


「——」


レオンは、しばらく、アイリスを、見ていた。


それから、深く、頷いた。


「——ただいま」


「おかえり」


秋の、午後の、ギルドの、中庭。


木々の葉が、ほんの少しだけ、さわさわ、と、揺れた。


---


夕食の、席。


エレーナが、本当に、『アスラクス家』の、秘伝のハーブ——小さな、緑色の、乾燥した葉——を、取り出して、シチューの、仕上げに、振りかけた。


「——」


鍋から、ふわり、と、これまで、嗅いだことのない、甘くて、少しだけ、苦い、複雑な、香りが、立った。


「うわ、いい匂い」


「——食欲が、狂う、ハーブだ」


エレーナが、にやり、と、笑った。


「食べる前から、飯が、うまい気持ちに、させられる」


「反則ですね」


「反則なのが、秘伝、さ」


食卓の、全員が、着いた。


アイリス、シエラ、ルル、レオン、そして、珍しく、エレーナ。


踏破くん、十四体が、テーブルの、周りで、今夜も、せっせと、給仕していた。


アイリスが、ゆっくり、スプーンを、取った。


そして、ぽつりと、言った。


「——今日の、『煤色の呪紋』の、依頼の話、だが」


「うん」


「——ルル、聞いてもらえるか」


「合理的に、聞こう」


レオンが、昼間の、掲示板の件を、もう一度、簡単に、説明した。


ルルは、黙って、聞いていた。


聞き終わって、彼女は、しばらく、考えた。


「——迷宮十五階層」


「はい」


「——十五階層には、古代遺跡が、二箇所、ある。東の『螺旋廊』と、西の『沈み鐘』」


「うん」


「——どちらだ」


「——掲示板には、『古代遺跡調査』、としか、書いてなかった」


「——不親切、だな」


ルルは、ぼそり、と、眉を、寄せた。


「——合同任務で、場所を、明示しないのは、——合理的では、ない」


「——というと?」


「——同行者に、事前準備を、させない、意図がある」


「——隠してる?」


「——そう、解釈するのが、合理的」


「——ふうん」


アイリスが、頷いた。


「——カイン・モーランらしい、手口、だ」


「——マスターの、性格?」


「自分が、主導権を、握りたい。——他の、ギルドの、意見を、聞きたくない」


「——」


「ルル」


「なんだ、アイリス」


「——奴の、ギルド、戦力的には、どうなんだ」


「——呪術系、だな。詛いを、使う。マスターカインは、中級呪術師。——戦闘力は、高い。ただし、直接戦闘は、苦手」


「——タンク、は?」


「いない、はず」


「——ああ、それで、同行者を、集めているのか」


「——」


「——肉壁が、欲しいんだ、あの男は」


アイリスは、冷ややかに、笑った。


エレーナが、ワイングラスを、ゆっくり、回した。


「——で、少年、どうする」


「——」


レオンは、しばらく、考えた。


そして、ゆっくり、言った。


「——受けても、いいかな、と、思ってます」


「——ほう」


「ただし、条件を、つけて」


アイリスが、スプーンを、止めた。


「——条件?」


「一つ、古代遺跡の、場所を、事前に、明示してもらう。二つ、戦闘中の、指揮系統は、ステラ・レギアの、幹部——アイリスさんの、判断を、尊重してもらう。三つ、報酬は、参加ギルドごとに、均等配分」


「——うむ」


「——これを、呑まないなら、受けない。——受けるなら、肉壁だけの、ギルドでは、ないことを、示す」


ルルが、ぽくぽくと、頷いた。


「——合理的」


アイリスが、ふっ、と、笑った。


「——お前、商法の次は、交渉術か」


「——五浪中に、学びました」


「——なに試験?」


「商人ギルドの、参謀試験。落ちました」


「——また、落ちたのか」


「ちゃんと、落ちた分だけ、覚えてます」


「——ふん、そうだな」


アイリスは、頷いた。


「——いいだろう。その、三条件、明日、組合で、——『煤色の呪紋』に、書面で、伝えよう」


「——はい」


「——呑んだら、受ける。呑まないなら、受けない」


「——はい」


「——どちらに、転んでも、ステラ・レギアは、『肉壁だけの、ギルド』、では、ない、と、示すことが、できる」


アイリスは、静かに、シチューを、一口、啜った。


そして、目を、少しだけ、見開いた。


「——うまい」


「——『アスラクス家』の、秘伝の、ハーブ、さ」


エレーナが、にこり、と、笑った。


「——こいつの、家、——ハーブで、世界、乗っ取れるくらいの、商売、できる、はずなのに、——本人が、占星術師、だから、もったいねえ」


「——褒めてるな、エレーナ」


「——褒めてない」


「——褒めてる」


「——褒めて、ない」


食卓に、小さな、笑いが、広がった。


---


夜、遅く。


レオンは、食堂の、片付けを、済ませて、自分の部屋に、戻る途中。


二階の、廊下で、ふと、足を、止めた。


壁の、漆喰。


第7話で、自分の、不器用な、厚塗りで、膨らみを、作ってしまった、場所。


その、膨らみが、秋の、月明かりに、照らされて、ほんのりと、浮かび上がって、見えた。


——『家族の、癖は、消さなくて、いい』


アイリスの、あの、言葉。


今日、街の人たちに、何度も、名前を、呼ばれた。


『レオン』、と。


『ステラ・レギアの、あんちゃん』、と。


『ロボットの、お兄ちゃん』、と。


——そして、夕方、アイリスは、「ようこそ、ルミナリアへ」、と、言ってくれた。


『ただいま』、と、レオンは、答えた。


それは、五浪して、ずっと、下宿を、転々とし、どこにも、根の、生えなかった、彼の人生で——


初めて、『ただいま』、が、ちゃんと、音の、重みを、持った、瞬間、だった。


「——」


レオンは、そっと、壁の、自分の、厚塗りの、膨らみに、指先を、当てた。


ひんやりと、冷たかった。


けれど、——確かな、手触りが、そこに、あった。


家、だった。


ぼくらの、家、だった。


「——明日も、ちゃんと、朝食、作ろう」


独り言を、呟いた。


廊下の、奥から、かすかに、アイリスの、素振りの、音が、聞こえた。今日も、寝る前に、少しだけ、剣を、振るのが、彼女の、習慣らしかった。


その、静かな、剣の、風切り音を、レオンは、耳を、澄まして、聞いた。


『剣の手入れの音って、なんでかな、落ち着くんだ。そばに、誰かが、いる、って、音で、分かるから』


昔、シエラが、言った、言葉。


——うん。


確かに、そう、だった。


レオンは、ちょっと、笑った。


そして、自分の部屋の、扉を、そっと、開けた。


ベッドの上で、ちびが、ぴょこん、と、待っていた。


「——ただいま、ちび」


ちょこん、と、お辞儀。


「——明日も、よろしくね」


ちょこん。


秋の、ルミナリアの、夜が、静かに、更けていった。


スターフォール・アビスの、青白い光は、今夜も、空に、輝いていた。


ステラ・レギアの、看板の、Eランクの、プレートが、月明かりに、ほんのりと、光って、見えた。


---


第十話 了

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