輝く未来
「……少し、よろしいかしら」
大通りに響き渡っていた騎士の怒号が、私の静かな声に遮られた。
私は日傘を差し直し、ゆっくりとした足取りで騒ぎの輪へと入り込む。
これまでの私――エルサだった頃なら、こうした諍い(いさかい)を見れば、報復を恐れて震えながら通り過ぎていただろう。けれど、今の私には自由と、それを裏打ちする十分な資産、そして何より前世で培った「不条理を許さない」というプロフェッショナルとしての矜持がある。
「な、なんだお前は。女、引っ込んでいろ! これは公爵家に関わる重大な――」
「公爵家、ですか。それは重畳。それほど格式高いお家の方であれば、この街のルールをご存知のはずでしょう?」
私は騎士の威圧を柳のように受け流し、まずは震えている少女の肩を優しく抱き寄せた。少女の小さな体が微かに震えているのを感じ、胸の奥で静かな怒りが灯る。
「リベルタは自由交易の街。荷役中の事故は、まずはギルドによる公正な裁定を受けるのが決まりですわ。それを無視して、一介の少女を奴隷に落とすなどと……。騎士様、それは貴方の独断かしら? それとも、馬車の中にいらっしゃる『御主人様』の指示?」
「なっ……! 貴様、馬車におられるのがどなたか分かって言っているのか!」
「ええ、存じておりますわ。その紋章……『氷壁の守護者』と謳われる、レオンハルト・フォン・アイゼンベルク公爵家でしょう?」
私の口から出た名に、周囲がざわめき、騎士の顔が驚愕に染まる。
レオンハルト・フォン・アイゼンベルク。
乙女ゲーム『プリルミ』において、冷徹無比な魔術師として知られ、ヒロインに対しても当初は「魔力が低い」と冷たく切り捨てる攻略対象の一人だ。
けれど私の知る彼は、少なくとも自分の部下にこのような卑劣な詐欺を許すような、無能な男ではない。
「……騎士様。貴方が掲げているその『国宝級の彫刻』の破片、少し拝見しましたわ」
私は破片の一つを指差し、冷静に告げる。
「断面に気泡が混じり、魔力の残滓が極めて薄い。本物のアイゼンベルク公爵家の所蔵品であれば、古代魔法による硬化術が施されているはず。……それは、東方で安価に取引されている『模造品』ではありませんか?」
「なっ、馬鹿なことを……!」
「もしこれがギルドの鑑定に持ち込まれ、偽物だと判明すれば……。公爵家の名を騙り、無辜の市民を脅した罪、貴方の首一つで済むかしら?」
騎士の顔から、一気に血の気が引いていくのが分かった。彼は私の「知的な詰め」に、完全に言葉を失っている。
その時だった。
――カチリ、と。
重厚な馬車の扉が開く、硬質な音が響いた。
馬車から降り立ったのは、一瞬で周囲の温度を数度下げたかのような、圧倒的な存在感を放つ男性だった。
夜の海のように深い藍色の髪に、透き通った銀色の瞳。
彫刻のように整った美貌は、一分の隙もなく、冷徹な理性を象徴している。彼こそが、『プリルミ』で「美しき氷像」と称えられた魔術公爵、レオンハルトだ。
「……騒がしいな。何事だ」
低く、深く、耳に心地よく響く声。
騎士は慌てて地面に膝をつき、声を震わせた。
「こ、公爵閣下! この平民の女が、閣下の御荷物を侮辱し、あらぬ疑いを……!」
レオンハルトの銀色の瞳が、ゆっくりと騎士から、そして私へと向けられた。
王都にいた頃、ギルバートの独善的な眼差しには耐え難い不快感を感じたものだが、目の前の彼の視線は、まるで氷の刃で魂を検分されているかのような鋭さがある。
私は日傘をたたみ、優雅な所作で一礼した。
「突然の無礼、お許しください、アイゼンベルク公爵閣下。私はこの街に居を構える、ステラ・マリスと申します」
かつての私なら、畏怖に声を枯らしていただろう。
けれど今の私は、数多の理不尽な交渉を乗り越えてきた一人のビジネスウーマンだ。背筋を伸ばし、淀みのない瞳で彼を見据える。
「閣下の従者様が、事故を理由にこの少女を不当に拘束しようとしておりましたので。街の平穏を守る一市民として、少しばかり助言をさせていただきました」
レオンハルトは無言で足元の破片を一瞥した。
そして、傍らに立つ別の従者に命じる。
「……鑑定しろ。これは私の荷物か?」
即座に、魔法杖を携えた魔術師が破片を確認した。彼は一瞬で顔を青ざめさせ、レオンハルトに耳打ちする。
「……閣下、これは……。馬車に積まれていたリストにはない、粗悪な模造品です。おそらく、この騎士が個人的に持ち込み、事故を偽装して……」
「そうか」
レオンハルトの瞳が、一際冷たく輝いた。
彼は膝をついたままの騎士を一瞥もせず、淡々と告げる。
「連れて行け。軍法会議にかけ、アイゼンベルクの名を汚した報いを受けさせろ」
「ひっ、閣下! ご容赦を! 閣下ぁ!」
騎士が引きずられていく騒ぎの中、レオンハルトは再び私へと視線を戻した。
「……ステラ・マリス、と言ったか。貴女がこの偽物を見抜かなければ、アイゼンベルクの名に泥を塗るところだった。感謝する」
「いいえ。閣下のような賢明な方が、早晩気づかれることでしたわ」
「謙遜は不要だ。貴女の眼識、そしてこの威圧に怯えぬ胆力……。ただの市民とは思えんな」
レオンハルトが、一歩、私の方へと歩み寄った。
ふわりと、冷たく澄んだ雪のような香りが鼻をくすぐる。彼の銀色の瞳が、探るように私の顔を覗き込んだ。
「礼をしたい。今夜、宿泊先の迎賓館へ来ていただけるだろうか」
それは、誘いというよりは、拒絶を許さぬ王者の提案だった。
予期せぬ重要キャラクターとの接触。
以前の私なら、ゲームのシナリオが変わってしまうことを恐れ、関わりを避けたかもしれない。
けれど、リベルタで新たなビジネスを興そうとしている今、公爵という強力な後ろ盾――あるいはコネクションは、何物にも代えがたい「資産」だ。
私は微笑を浮かべた。
それは、夫に怯えていたエルサの笑みではなく、自分の人生を自分でハンドリングする「ステラ」としての、知的な微笑みだ。
「閣下直々のお誘い、光栄に存じます。……ですが、私のような無学な未亡人が、閣下の貴重なお時間を奪うのは心苦しく」
私はあえて「未亡人」であることを強調しつつ、一歩引いて見せた。
彼のような冷徹な男は、媚びを売る者には興味を示さない。対等、あるいは「利用価値のある人間」として自分を認識させることが、この交渉の肝だ。
「もし、閣下が本当に私を評価してくださるのであれば……。いずれ私が開く予定の『ささやかな店』に、いつか足をお運びいただければ、それ以上の光栄はございませんわ」
公爵の銀色の瞳に、かすかな、本当に微かな興味の色が浮かんだのを私は見逃さなかった。
「……店、か。面白い。貴女がどのような場所を創るのか、見極めさせてもらおう」
レオンハルトはそう言い残すと、優雅な所作で馬車へと戻っていった。
馬車が遠ざかっていくのを見送りながら、私は深く息を吐いた。
「ステラ様! あんな高貴な方に物怖じせず……本当に、信じられません!」
案内人の青年が、興奮した様子で駆け寄ってくる。
私は彼に微笑みかけ、心の中で「ステラ・マリス」としての今後のタスクリストを更新した。
(レオンハルト・フォン・アイゼンベルク……。想定外のイレギュラーだけど、彼の興味を惹いたのは悪くないわね。さて、店をオープンさせる前に、まずは公爵閣下を満足させるレベルの『最高の一杯』を用意しなくちゃ)
解放された自由。
溢れる資金。
そして、自らの知性と美貌。
それらすべてを駒として使い、私はこの街で、誰にも邪魔されない至福の帝国を築き上げてみせる。
「行きましょう。物件の契約、急がなくては。……私の新しい人生、これからが本番なんだから」
夕暮れのリベルタ。潮風が私の新しいドレスの裾を優雅に揺らした。
かつての涙はとうに乾き、私の瞳には、明日への確かな野心と、自分自身への誇りが輝いていた。




