王宮大停電と、社畜の全力脱出
「……よし。完璧ね」
姿見の鏡に映る自分の姿を見て、私は満足げに口元を釣り上げた。
そこにいるのは、夜の闇に完全に溶け込むような、深い濃紺のイブニングドレスをまとったアシェル伯爵夫人エルサだ。ギルバートが「俺の引き立て役として、一歩も目立つな。地味な色にしろ」と吐き捨てて選んだドレスだが、私にとってはこれ以上ない最高峰の夜間戦闘用ステルススーツである。
侍女たちを「少し緊張してしまったから、一人で心を落ち着かせたいの」と言いくるめて部屋から下がらせた後、私はドレスの裏側の最終チェックを行っていた。
コルセットの隙間には、ヴァルターから受け取った偽造身分証(ステラ・マリスの証明書)と、リベルタ中央銀行の秘密口座の鍵。
左太もものガーターベルトに護身用の小型ナイフと、これまでに屋敷の倉庫から「回収」した古い金貨が詰まった小さな革袋。
ドレスのスカートの内側は、いざという時に全力疾走できるよう、幾重にも重なるパニエを一部切り取り、前世のネット通販で買ったような伸縮性抜群の黒いスポーツ用ペチコート(実質短パン)を極秘裏に縫い付けてある。
さらに、ドレスのサイドの縫い目には、一思いに引っ張れば一瞬で膝上まで裂けるよう、あらかじめ仕付け糸で緩く固定した「特製スリット」を仕込んでおいた。
「フフフ……。まさか貴族の晩餐会に、ミニスカ生足ダッシュ用のギミックを仕込んだドレスで出席する令嬢が他にいるかしら? いや、いない(反語)」
前世の社畜時代、金曜日の夜22時に突然「明日の朝イチの会議までに資料を修正しろ」と理不尽なタスクを振られ、徹夜で完璧なプレゼン資料を仕上げたあの極限状態に比べれば、この程度の工作、ちょっとした楽しいDIYに過ぎない。
トントン、と部屋の扉が乱暴に叩かれた。
「エルサ、まだか! いつまで準備に時間をかけている。これだから行動の遅い無能は困る」
ドアの向こうから聞こえる、安定のモラハラ・ギルバートの声。私は一瞬で「怯える気弱な妻」のスイッチをオンにし、声をわざと震わせながら扉を開けた。
「も、申し訳ありません、旦那様……。ただいま、準備が整いましたわ……」
扉の前に立つギルバートは、相変わらず無駄に顔だけは良い。燃えるような赤髪を完璧にセットし、金刺繍の入った真っ白な夜会服を着こなしている。
彼は私を一瞥すると、ふんと鼻で笑った。
「ふん、やはり地味で垢抜けない女だな。まぁいい、俺の輝きを邪魔しないという意味では及第点だ。いいか、王宮では絶対に俺の後ろを歩け。他の男と目を合わせるな。お前のような馬鹿が変に色目を使ったと噂にでもなれば、アシェル家の名に傷がつくからな」
「はい、旦那様。すべて、あなたの仰せの通りに……」
私は深く俯き、従順な笑みを浮かべた。
(心の声:あーはいはい、おっしゃる通りでございますねー! 誰が色目使うかよ自意識過剰男! 自分の輝き? 鏡の見すぎで脳みそまで発光してんじゃないの? お前のその偉そうなクソ顔を見るのもこれが最後だ。明日、妻に夜逃げされたマヌケな伯爵として社交界の伝説(笑)になるあんたのツラを、今から想像するだけでご飯が3杯はおかわりできるわ!)
私たちはアシェル伯爵家の紋章が入った豪華な馬車に乗り込み、決戦の地――王宮へと向かった。
────
王宮の第一大広間は、まさに光と色彩の洪水のようだった。
天井に浮かぶ数百個の魔導灯が、クリスタルのシャンデリアを照らし、床の大理石に反射して眩いばかりの輝きを放っている。行き交う貴族たちは、これでもかと宝石を散りばめた衣装をまとい、優雅に歓談していた。
ギルバートは会場に入るや否や、私の腕を骨が軋むほどの強さでギュッと掴んだ。
「おい、エルサ。キョロキョロと田舎者丸出しで周囲を見るな。みっともない」
「あ、ごめんなさい、旦那様……。腕が、少し痛いですわ……」
「これくらいで弱音を吐くな。俺の側にいられる栄誉の代償だと思え」
痛覚まで麻痺してんのかこの男。だが、ここで暴れては計画が台無しになる。私は痛みを堪えながら、おとなしく彼の半歩後ろに従った。
しかし、私の目は死んでいなかった。オタクの執念で、広間の中央ステージ付近を鋭く観察する。
(いたわ……!! 間違いない、あれがゲームの主要キャラたち!)
広間の中央、一段高くなった貴賓席の近くには、前世で画面が擦り切れるほど見た『プリルミ』の登場人物たちが生きて動いていた。
悪役令嬢エリザベス様。完璧な金髪縦ロールを誇らしげに揺らし、見るからにプライドの高そうな上昇気流を纏っている。
俺様王太子ルシアン殿下。ギルバートの主君であり、眩しいほどの金髪と青い瞳を持つ、ゲームのメインヒーロー。
平民ヒロインのアリアちゃん。なぜか給仕係の制服を着て、トレイを両手で持ちながら、生まれたての小鹿のようにガタガタと震えている。
まさに今、アリアちゃんが緊張のあまり、エリザベス様のドレスの裾に最高級の特製カレースープ(のような宮廷料理)をぶちまけるという、ゲーム開始1分で発生する伝説のプロローグイベントがリアルタイムで進行していた。
「な、何てことをしてくれたの、この不届き者が! 私の特注のドレスが台無しよ!」
「も、申し訳ありません、申し訳ありません……!」
エリザベス様の鋭い怒号が響き、アリアちゃんが涙目で地面に伏せる。そこへ王太子ルシアン殿下が「おい、そこまでにしろエリザベス。彼女はわざとやったわけではない」と、お決まりの俺様シールドを展開して割って入る。
周囲の貴族たちが「おやおや」「まぁまぁ」とヒソヒソ話を始め、ギルバートもその騒ぎに目を留めた。彼の掴む手の力が、わずかに緩む。
「チッ、王太子殿下の前で無作法を働く平民がいるようだな。不愉快な」
ギルバートが完全に中央の騒ぎに気を取られている。
私はそっと懐の時計を確認した。
午後8時58分。
運命の瞬間まで、あと2分。
(さあ、始まるわよ。アリアちゃんの内に秘められた規格外の『聖力』が、エリザベス様の放つ悪意のプレッシャーと、王太子のイケメンオーラに過剰反応して、無自覚に大暴走を始めるカウントダウンが……!)
────
時計の針が、静かに午後九時を指そうとしていた。
ステージ上では、王太子に庇われて顔を真っ赤にしているアリアちゃんの身体から、目に見えないほどの微細な光の粒子が立ち上り始めていた。ゲームのプレイヤーだった私だからこそ気づける、魔力暴走の兆候だ。その光の粒子は、王宮の地下から伸びる魔力ラインを伝わり、第一庭園にある王都の心臓「光の結界石」へと逆流していく。
「おい、エルサ。晩餐会が終わったら、貴様にはお仕置きが必要だな。最近、俺の言うことに対する返事が、ほんのわずかに機械的だ。俺への感謝が足りんのではないか?」
ギルバートがワイングラスを傾けながら、ゾッとするような独占欲とモラハラ発言を耳元で囁いてきた。
私は顔を引きつらせながらも、心の中でニヤリと笑った。
(お仕置きされるのはお前定期。残された時間はあと10秒よ、クソ旦那。カウントダウン、開始!)
ドガァァァァァン!!!!!
鼓膜を激しく震わせるような、地響きを伴う大爆音。
それは、王宮のすべての魔導エネルギーを管理する「光の結界石」が、アリアちゃんの聖力を吸い込みすぎて完全にオーバーロードを起こした音だった。
パチパチパチ、と広間の壁に設置された魔導灯が激しく火花を散らし、次の瞬間――。
フッ、と世界からすべての光が消え去った。
「うわあああ!?」
「何事だ! 敵襲か!?」
「光を! 明かりをつけろ!」
完全なる漆黒。暗闇に包まれた大広間は、一瞬にして阿鼻叫喚のパニック映画の撮影現場へと変貌した。大貴族も、令嬢も、誰もが理性を失って押し合いへし合いを始める。さらに、結界石から放たれた強力な電磁波(魔力波)の余波で、貴族たちが身につけていた魔法仕掛けのアクセサリーや、魔導具が一斉にショートし、あちこちで小さな光の破裂音が響く。
「くっ、何が起きた!? ルシアン殿下! 殿下はどこだ!?」
ギルバートが王太子の側近としての本能で、暗闇の中で叫んだ。しかし、彼の左手は、まだ私の右腕をガッチリと掴んだままだ。
「エルサ! 動くな! 俺の側から離れるなと言ってい――」
「キャーーーーーーー!!!!! 旦那様ぁぁぁーーー!! 怖いですわァァァァーーーーー!!!!!」
私は人生で一番の大音量で、鼓膜を破壊するほどの絶叫をかました。現代の限界社畜が、デスボイス顔負けの肺活量で放った渾身の悲鳴である。
「うるさい、耳元で叫ぶな――」
「怖いです! 怖すぎますわ旦那様ぁぁ!」
私はわざと狂ったようにパニックを起こしたフリをして、ギルバートの体に激しく体当たりした。そして、彼の両腕に思い切りしがみつくと見せかけて――彼が一番大切にしていた、アシェル伯爵家の最高級のネクタイを、全力で思い切り真下に引っ張った。
「ぐっ!?!?!?」
クソ旦那が、暗闇の中で実に見事なカエルの潰れたような声を上げた。首が絞まって脳への酸素が遮断されたギルバートの手が、ついに私の腕から離れる。
その瞬間を、私は逃さなかった。
「旦那様、私、怖くて足が勝手に動いちゃいます!」
私はギルバートの足の甲を、ドレスのヒールで思い切り踏みつけ、彼が「ぶふっ!?」と悶絶して床に倒れ込む気配を感じながら、闇の中へと鮮やかにフェードアウトした。
────
周囲は完全な暗闇だが、私には関係ない。この一週間、王宮の平面図を頭の中に叩き込み、北口の通用口までの最短ルートを完全にシミュレーションしていたのだ。
人混みをすり抜け、大広間の重厚な扉を抜けて廊下へと飛び出す。
廊下も大混乱で、近衛騎士たちが「魔導灯が使えん! 松明を持ってこい!」とドタバタと走り回っている。
走るには、このロングドレスが邪魔だ。
「よし、ここね……! フンッ!!」
私は両手をドレスの両脇の「特製スリット」に引っ掛け、前世で培った『段ボールを一瞬で引き裂く力』を込めて、一思いに横へと引き裂いた。
バリィィィィィィン!!!!
静かな廊下に、高級な絹織物が無残に裂ける豪快な音が響く。濃紺のロングドレスのスカート部分が丸ごと消し飛び、私の下半身には、動きやすさ100%の黒いスポーツ用短パンと、細い生足が露わになった。
「ふぅ、涼しい! これで勝利!」
私は引き裂いたスカートをその場に投げ捨てると、前世の社畜時代に『終電間際の駅の改札まで、重さ10キロのカタログを持って全力疾走した』あの伝説の脚力を今、異世界で爆発させた。
「どけーーー! 社畜のダッシュを舐めるなァァァ!!」
夜闇の廊下を、ミニスカ短パン姿の伯爵夫人が時速30キロ近い猛スピードで爆走していく。映画映えの短距離フォームで滑走していく。
途中で、優雅に茶を嗜む貴族の老人が「おお、これぞ催し」と驚いていたが無視だ。前方に配膳カート。大理石の床を利用して華麗なストリートスライディングを決め、くぐり抜けた。
「右に曲がって、突き当たりを左! あとは階段を下りるだけ!」
角で速度を落とさぬまま、片手で床を軸にターンし、階段へ直行。
背後の方から、微かに「エルサァァァ! どこだエルサァァァ!」という、首を絞められて声の枯れたギルバートの怒号が聞こえた気がしたが、完全に気のせいということにした。誰それ? 知らない人ですね。
階段をジャンプで飛ばし、受け身で着地し、さらに同様に駆け下り、階段を過ぎたら全力疾走フォームで駆け抜け続け、私はついに王宮の北側にある、使用人専用の小さな通用口へと到達した。
バァン!! と回し蹴りで扉を蹴り開ける。
鎧を着ていた兵士の兜にドアが当たり、彼はうつ伏せで気絶したようだ。
「失礼!」
外は、涼しい夜風が吹く静かな路地裏だった。王宮の正面の喧騒とは打って変わり、誰もいない。
いや、一人だけ、約束通りに待っている男がいた。足元で伸びている衛兵を除いて。
────
路地裏の影に潜むようにして停車していたのは、車体全体に気配遮断の黒い魔法塗料が塗られた、ノア商会の特製隠密馬車。
その御者台に座っていたのは、黒いロングコートを羽織り、鋭い目を光らせていたヴァルター・ノアだった。
「――っ、……!?」
ヴァルターは飛び出してきた私の姿を見て、エメラルドグリーンの瞳をこれ以上ないほど見開いて硬直した。
それもそのはずだ。神の使いと崇拝していた高貴な伯爵夫人が、ドレスの上半身はそのままに、下半身は完全に生足剥き出しの黒短パン姿で、息をハァハァと切らしながら全力疾走で登場したのだから。
「お、お痛わしいお姿に……! 貴王宮の卑劣な罠にかかり、ドレスを引き裂かれるほどの激しい戦闘を繰り広げられたのですね……! 俺の不め――」
「そうよ。で、ヴァルター! クソ旦那が後ろから追ってきてるかもしれないの! ナンバーワンの俊足馬で、今すぐここから出しなさい!!」
「はっ……御意のままに!!」
ヴァルターは私のミニスカ短パン姿に対する疑問を脳内で強引に「神の試練」へと変換したらしい。彼は即座に手綱を引くと、馬車の扉を素早く開けた。
私は馬車の中へと飛び込み、シートに倒れ込んだ。
「走れ!!」
ヒヒーン!! という魔馬の力強いいななきと共に、馬車がもの凄い重力を伴って急発進する。王宮の敷地を抜け、夜の王都の裏道を、風のような速さで駆け抜け始めた。
馬車の窓から、遠ざかっていく王宮を眺める。
あの大広間のどこかで、今頃ギルバートは、ネクタイを引きちぎられ、足の甲をヒールで踏み抜かれ、妻に逃げられたマヌケな男として、暗闇の中で地響きを立てて発狂していることだろう。
「……あは。あはははは!」
最初は小さな笑いだった。それが、次第に抑えきれなくなり、私は馬車のふかふかのシートの上で、盛大に高笑いを爆発させた。
「あはははははは! やった! やったわよ!! ついにあのモラハラ屋敷から、完全に脱出してやったわーーー!!!!!」
前世の社畜時代、過労死という最悪の結末を迎えた私。
今世でも、モラハラ旦那の所有物として泣き寝入りするはずだったエルサ。
だけど、私は自分の手で、その運命を完全にぶち壊してやったのだ。
「天使よ、お着替えをどうぞ。リベルタでの新しい生活のための偽装平民用の衣装と、温かいお茶をご用意しております」
御者台の小窓から、ヴァルターが敬虔な声で話しかけてくる。
「ありがとう、ヴァルター。……いいえ、これからは私のことを『ステラ・マリス』と呼びなさい」
「はっ、ステラ様。貴女の新たな旅路に、女神の祝福があらんことを」
私はヴァルターが用意してくれた、上質な、しかし目立たないリネン調のブラウスとロングスカートに着替えた。髪のピンをすべて外し、ウェーブがかった栗色の髪をラフにまとめ直す。
鏡を見る必要はなかった。今の私の顔には、怯えるエルサの影など微塵もなく、自由を勝ち取った一人の大人の女性の、最高に不敵な笑みが浮かんでいるはずだから。
────
翌朝。
太陽が東の地平線から顔を出す頃、私たちの馬車は王都の検問所を(ノア商会の裏ルートで)完全にスルーし、遥か遠くの交易都市「リベルタ」へと続く街道をひた走っていた。
手元の日本語ノートを開き、私はギルバートの名前の上に、太い線で『強制終了(タスク完了)』と書き込んだ。
「さあ、これからは富裕な未亡人、ステラ・マリスとしての第二の人生よ」
アシェル伯爵夫人としてのエルサは、昨夜の王宮の闇の中で死んだ。
これからは、誰も私を縛らない。誰も私に理不尽な命令を下さない。
ヴァルターに授けた『魔導結晶の買い占め神託』によって、ノア商会は今日、王都で巨万の富を得ているはずだ。私の懐にも、そのおこぼれ(倍増した資金)がガッポリと入ってくる。
「美味しいものを食べて、のんびり商売でもして、時々はヴァルターをからかって……。あ、ゲームのイケメンたちを見るために、たまにはお忍びで観光に行くのもいいかもしれないわね」
窓の外に広がる広大な緑の大地を見つめながら、私は新生活へのワクワクで胸を躍らせていた。
元社畜OLの異世界夜逃げライフ。
最悪の旦那を置き去りにした私の、本当の『自由な物語』が、今ここから幕を開けたのだった。




