完璧なる面従腹背
「――おい、エルサ。このスープはなんだ。少し冷めているではないか。俺を冷遇するつもりか?」
きらびやかなシャンデリアが輝く食堂。長いダイニングテーブルの端と端に座り、朝食をとっていたギルバートが、スプーンを大げさに皿へと叩きつけた。カチャン、と不快な音が響く。
前世の私なら「じゃあレンジでチンしてこいよ、その2本の腕は飾りか?」と煽り散らかしているところだが、今の私は一味違う。
「――っ! 申し訳ありません、旦那様……!」
私はわざとらしく肩をビクつかせ、持っていたフォークを落としそうになる演技を披露した。そして、消え入りそうな声で、いかにも「怯える哀れな妻」を演出する。
「すぐに、すぐに温め直させますわ……。どうか、お怒りにならないで……」
「ふん。全く、気が利かない女だ。お前のような無能にアシェル伯爵夫人の座を与えてやっている意味を、少しは考えたらどうだ?」
ギルバートは忌々しげに鼻を鳴らし、再びスープに口をつけ始めた。
はい、チョロい。実にチョロい。
俯いた私の前髪の奥で、口元がフッと歪んだのを、このナルシストモラハラ男は気づきもしない。
(心の声:あーはいはい、申し訳ありませんでしたねぇ! 猫舌のくせに熱々を要求すんなよ。っていうか、スープが冷めてるのはお前が鏡の前で前髪のセットに30分も無駄な時間を費やしたからでしょうが! 脳みそまで筋肉で詰まってんのかクソ旦那!)
前世の社畜時代、理不尽な取引先の無理難題に「御意に駆り立て奉ります」と満面の営業スマイルで対応してきた私にとって、この程度の演技は朝飯前だ。むしろ、本物の朝飯を食っている最中である。
ギルバートが私を「完全に支配している」と満足している限り、私の行動の自由は皮肉にも広がる。男という生き物は、自分より圧倒的に格下だと思い込んでいる相手に対して、致命的なほど警戒を怠るものだからだ。
彼が登城したあと、私は自室に戻り、さっそく「日本語」で書いた秘密のノートを開いた。
「さて、現在の状況を整理しましょうか」
私が転生したこの乙女ゲーム『プリンセス・オブ・ルミナス(プリルミ)』のメインシナリオが始まるのは、今から約半年後。ヒロインのアリアが魔法学園に入学するタイミングだ。
ゲームの知識は、私にとって最大の武器になる。
例えば、ヒロインの聖力が覚醒する場所や、悪役令嬢エリザベス様が破滅を回避するために使える(かもしれない)裏ルートの知識。それらはすべて私の頭の中に叩き込まれている。
だが、今の私にヒロインの救済も悪役令嬢の没落回避も関係ない。私の目的はただ一つ、このモラハラ屋敷からの「完全なる夜逃げ」だ。
軍資金に関しては、この数日間で着々と目処が立った。
ギルバートが「どうせ使いこなせない」と放置していたエルサの持参金口座から、少しずつ現金を別の隠し場所に移動させた。さらに、屋敷の倉庫に眠っていた、彼が忘れているような古い美術品や金貨を、信頼できそうな(そして口の堅い)質屋に少しずつ持ち込んで換金している。これぞ、元社畜の徹底的な資産管理能力。
しかし、計画を進める上で、最大にして最難関の壁が立ちはだかっていた。
「……逃走用の『足』がないのよね」
そう、移動手段だ。
いくらお金があっても、伯爵家の馬車を使えば一発で足がつく。かといって、普通の辻馬車や乗合馬車を使っても、貴族の権力を使えば簡単に追跡されてしまうだろう。目指す国境の交易都市「リベルタ」へ行くには、いくつもの検問所を通らなければならない。身分証の提示を求められた時点で、アシェル伯爵夫人の逃亡は失敗に終わる。
普通のルートでは無理。ならば、裏のルートを使うしかない。
そして私は、この世界で「最も確実で、最も安全に、人を国境の向こうまで密輸できる男」を、ゲームの知識として的確に知っていた。
「……よし。ちょっと、裏社会のドンに殴り込みに行ってこようかしら」
────
王都の歓楽街の路地裏。きらびやかな表通りとは打って変わり、昼間でも薄暗く、怪しげな男たちがたむろするその場所に、私はいた。
一応、地味な身なりの街娘風のドレスを着て、フードを深く被ってはいるが、場違い感は否めない。だが、ここで日和っている場合ではないのだ。
私が目指したのは、古びたレンガ造りの建物の奥にある「ノア商会」の事務所。
表向きは東方の珍しい織物や香辛料を扱う新進気鋭の商会だが、その実態は、王国の全密輸ルート、および闇交易の半分を牛耳る裏社会の大元締めだ。
事務所の扉を開けると、仕立ての良いスーツを着た強面の男たちが、一斉に私を鋭い視線で睨みつけてきた。普通の令嬢なら、この時点で泣いて失禁するレベルの威圧感だ。
「おい、お嬢ちゃん。ここはガキや迷子の令嬢が来るところじゃねえぞ。用がないなら、すっこんでろ」
受付の男が、ドスの利いた声で私を脅す。だが、私は前世で「毎月ノルマ未達成ならクビ」と怒鳴り散らす鬼上司の顔面を至近距離で見続けてきた女だ。これしきの脅し、そよ風のようなものである。
「ノア商会の会頭――ヴァルター・ノア様にお取次ぎを。アシェル伯爵家からの個人的な『ビジネス』の相談です、とお伝えください」
私が毅然とした態度で、かつギルバートの名前を出した瞬間、男たちの空気が変わった。男は不審そうに私を睨みつけたが、私の目が全く泳いでいないのを見て、舌打ちをしながら奥の部屋へと引っ込んでいった。
数分後。私は建物の最上階にある、悪趣味なほど豪華な執務室に通されていた。
大きな革張りのソファに深く腰掛けていたのは、一人の若い男だった。
艶やかな黒髪に、冷徹な光を宿したエメラルドグリーンの瞳。整った顔立ちは冷酷そのもので、全身から「人を人とも思わない」ような圧倒的な強者のオーラを放っている。彼こそが、裏社会の若き怪物、ヴァルター・ノア。
ゲーム『プリルミ』では、悪役令嬢のエリザベスがヒロインを陥れるための裏工作を依頼しに行くが、「割に合わない」と冷酷に切り捨てる、渋すぎるサブキャラクターとして人気を博していた男だ。
「……へえ」
ヴァルターは私を値踏みするように見つめると、低く、美しい声で呟いた。
「アシェル伯爵夫人が、単身でこんな薄汚い場所に何のご用かな? ギルバート伯爵の差し金か? それとも……」
「いいえ、ヴァルター様。これは主人とは一切関係のない、私個人の『お取引』の提案です」
私はフードを外し、彼の正面のソファに勝手に腰掛けた。これには、背後に控えていたヴァルターの護衛たちがピクリと武器に手をかけたが、ヴァルターが片手を挙げてそれを制した。
「取引? 面白い。だが、俺の時間は高いぞ、奥様。世間知らずの貴族の我が儘に付き合うほど、俺は暇じゃないんだ」
「世間知らずかどうかは、今からお話しすることを聞いてから判断してください」
私は不敵に微笑み、元社畜のプレゼン能力を全開にして、彼のアドバンテージを奪いに行くことにした。これからが本番だ。彼の「すべてを知っている」というゲーム知識(メタ知識)の暴力を、ここに叩き込む。
「単刀直入に申し上げます。私はこの国から消えたいのです。それも、ギルバート・フォン・アシェルが絶対に追跡できない、完璧なルートで。あなたにその『足』と、国境の都市リベルタでの新しい偽造身分証を用意していただきたい」
「ハッ、笑わせるな。なぜ俺が、アシェル伯爵家を敵に回すようなリスクを負って、お前みたいなモブ――失礼、ただの女を助けなきゃいけない?」
「リスク、ですか。では、そのリスクを完全に帳消しにする以上の『未来の利益』を、私があなたに提供するとしたら?」
ヴァルターの眉が、ピクリと動いた。
「未来の利益だと?」
「ええ。例えば……今から3日後の夜、あなたが南の港に極秘裏に入港させる予定の、東方の高級絹織物を積んだ密輸船『リヴァイアサン号』について」
その瞬間、ヴァルターの瞳の奥の光が、凍りついたように鋭くなった。執務室の空気が、一気に張り詰める。
「……なぜ、その名前を」
「その船は、港に入る直前、王室水軍の奇襲を受けて、積荷をすべて没収されますわ。あなたの商会は、数百万銀貨の損失を出すことになる。――なぜなら、あなたの身内に『裏切り者』がいるからです。名前は、副会頭のマルコ。彼はすでに王宮の密偵と繋がっています」
「――っ!!」
ヴァルターの背後にいた護衛が、驚愕のあまり声を漏らした。ヴァルター自身は表情を崩さなかったが、そのエメラルドグリーンの瞳には、明らかな動揺と、底知れない殺意が渦巻いていた。
「……デタラメを言うな。マルコは俺の昔からの仲間だ。それに、その計画を知っているのは幹部の数人のみ。アシェル伯爵の配下が探れる情報ではない」
「デタラメかどうかは、3日後に分かりますわ。マルコの部屋のクローゼットの床板を剥がしてみてください。王宮からの前金である『刻印入りの金貨』がギッシリ詰まっていますから」
私は淡々と、ゲームの「ヴァルター・ノアのサブイベント(マルコの裏切り編)」のシナリオ通りに事実を告げた。ゲームでは、プレイヤー(ヒロイン)の選択肢次第でこの裏切りが発覚するのだが、今は私がその知識を横取りさせてもらった形だ。
「さらに」
私は追い打ちをかけるように、やんわりと微笑んだ。
「このままマルコの裏切りを放置すれば、あなたは半年後、王宮の罠に嵌められて逮捕され、ノア商会は解体。あなたは冷たい監獄の中で、一生を終えることになります。――これが、あなたの近い将来に訪れる『不幸な結末』です」
ヴァルターは無言で私を睨みつけている。その顔は、私を「狂人」と切り捨てることもできず、かといって「信じる」こともできないという、激しい葛藤に満ちていた。
「……なぜ、お前がそんなことを知っている。お前は一体、何者だ?」
────
さあ、ここからが本日のメインディッシュである。
彼に私の言葉を「絶対に」信じ込ませるための、最後の切り札。ゲームの設定資料集にだけひっそりと書かれていた、彼の『最大の秘密』を暴露する時だ。
「私がなぜ知っているか、ですか? それは、私が……すべてを見通す立場にあるからです」
私はわざとらしく、厳かな雰囲気を醸し出しながら、声を一段と落とした。
「ヴァルター様。あなたは表向き、冷酷無比な裏社会のドンとして振る舞っていらっしゃいますが……。毎晩寝る前に、自室のクローゼットの奥の隠し部屋に安置してある『愛と慈悲の女神マイア』の黄金像に向かって、めちゃくちゃ熱心に膝をつき、ガチの祈祷を捧げていらっしゃいますよね?」
「――!?」
あの、冷酷無比で鳴らしたヴァルター・ノアが、生まれて初めて見るような、間抜けな声を上げた。
彼の顔が、一瞬で真っ白になり、次の瞬間には耳まで真っ赤に染まっていく。
「な、な、な……っ!?」
「『女神マイアよ、今日も私の命令で、誰も死なさずに済みました。どうかこの迷える子羊の罪をお許しください。アーメン』――でしたかしら? ちなみに、その黄金像の足元に、手作りの可愛い刺繍入りのクッションを敷いていることも、私は知っていますわ」
「なぜそれを!?」
ヴァルターはガタッと椅子を蹴立てて立ち上がった。その狼狽ぶりは、見ていて可哀想になるほどだ。
それもそのはず。この男、見た目は完全にインテリヤクザなのだが、実は実家が由緒正しい教会の家系で、本人も超がつくほどの隠れ熱心な信徒なのだ。裏社会に身を置きつつも、できるだけ人を殺さないように立ち回っているのも、その信仰心ゆえ。
そして、その祈りの部屋には、彼自身が施した超一級の「盗聴防止・防犯の魔法結界」が張られており、物理的にも魔法的にも、絶対に覗き見することは不可能なのだ。
それを、ただの伯爵夫人が、一言一句違わずに再現してみせた。
これが意味することは、彼にとって一つしかなかった。
「ま、まさか……物理的な手段ではなく、精神の領域、あるいは……天上の目……!?」
ヴァルターはガタガタと震えながら、私のことを見つめた。その瞳にあるのは、さっきまでの殺意ではなく、圧倒的な「畏怖」だ。
「お前――いや、あなたは……アスクロノリュフィアの使い……なのか……?」
(心の声:よっしゃ、引っかかった!! チョロい! こいつもギルバートとは違うベクトルで超チョロいぞ!!)
私は内心でガッツポーズを決めながらも、表面上はどこまでも慈愛に満ちた(前世の営業用)微笑みを崩さなかった。
「フフ、私が何者であるかは、あなたの心の中に留めておきなさい。……さて、ヴァルター様。お取引の続きをしましょうか。私に完璧な『逃走用の足』と『新しい身分』を協力して用意してくださるなら……私は、マルコの裏切りを回避し、あなたが半年後に迎える破滅を回避するための『具体的な解決策』を、すべてお教えいたしますわ」
ヴァルターは、もはや完全に気圧されていた。彼は深く息を吐き出すと、ゆっくりと私の前に跪き、胸の前に手を当てて、敬虔な礼を捧げた。
「……畏まりました、アスクロノリュフィアのセレスティアよ。あなたの予言が本物であるか、まずは3日間、猶予をいただきたい。もし、3日後に船が襲撃され、マルコの裏切りが事実であれば……俺は、ノア商会の総力を挙げて、あなたの『脱出』を全面的にサポートすることを、女神マイアの御名に誓って約束します」
「ええ、賢明な判断ですわ。楽しみにしていますね」
私は満足げに頷くと、再びフードを深く被り、優雅な足取りで執務室を後にした。
────
屋敷に戻った私は、何事もなかったかのように、再び「大人しく従順な伯爵夫人」の仮面を被った。
その日の夜も、ギルバートは「お前の歩き方は下品だ」「俺の前に出るときはもっと頭を下げろ」と、相変わらずのモラハラを連発していたが、私の心は一点の曇りもなく爽やかだった。
(心の声:はいはい、今のうちにせいぜい偉そうにしてなさい。3日後、私のバックには裏社会のドンがつくのよ。お前がいくらアシェル伯爵家の権力を振りかざしたところで、神の使い(仮)と化した私を、ヴァルターが命がけで隠蔽してくれるんだからねー!)
ヴァルターに伝えた予言が的中するまで、あと3日。
その間、私はただ待っているだけではない。
「よし、今のうちに体力作りと、荷物のパッキングを極秘に進めましょう」
ドレスの奥に、いざという時に走れるように短パン(のようなペチコート)を仕込み、屋敷の構造を改めて頭に叩き込む。さらに、逃亡後に平民として働くための「前世の知識を活かしたビジネスプラン」の構想も、日本語のノートに書き連ねていく。
気弱で泣いてばかりいたエルサの身体に、最強の社畜メンタルが宿ったのだ。
私の華麗なる夜逃げ計画は、いまや裏社会をも巻き込んで、完璧な歯車として回り始めていた。
「待ってなさいよ、自由な世界。私は絶対に、幸せになってみせるんだから!」
夜の静寂の中、私はベッドの中で、今度は絶望の涙ではなく、未来へのワクワクとした高笑いを(心の中で)爆発させるのだった。




