目覚めたら、知らない誰かになっていた
すべての始まりは、お気に入りのアンティーク調のティーカップが、私の手から滑り落ちたことだった。
パリン、と硬質な音が室内に響き渡る。
床に飛び散る最高級の磁器の破片と、絨毯に染み込んでいく琥珀色の紅茶。それを見つめた瞬間、私の脳内で何かが激しく火花を散らした。
「あ、つっ……!」
突如として頭を襲ったのは、文字通りハンマーで殴られたかのような激痛だ。
私はこめかみを押し押さえ、その場に膝をついた。視界がぐにゃりと歪み、万華鏡のように様々な色彩がぐるぐると回り始める。頭の中に、濁流のごとく「知らないはずの記憶」が流れ込んできた。
満員電車の息苦しい匂い。
深夜二時のオフィスで光るパソコンの画面。
上司の理不尽な説教に耐えながら食べた、コンビニのパサついたサンドイッチ。
そして――休日の唯一の癒やしだった、テレビ画面に映るきらびやかなイケメンたちの姿。
(え? 私、アラサーの社畜OLだった……よね? 毎日終電まで働いて、ある日、ベッドに入ったきり意識が途絶えて……)
そう、私は死んだのだ。おそらくは過労死という、実にもえない現代社会の犠牲者として。
けれど、その記憶と同時に、もう一つの記憶がパズルのピースのようにはまっていく。
この世界の記憶だ。
広大な邸宅、窮屈なドレス、厳格なマナー教育。そして、いつもビクビクと何かに怯え、誰かの顔色を窺ってばかりいる、ひどく内気な少女の記憶。
「ちょっと、嘘でしょ……?」
頭痛が引き始めると同時に、私は自分の両手を目の前にかざした。
そこにあるのは、書類の山で酷使された私のガサガサな手ではない。白く、細く、いかにも労働とは無縁そうな、お上品なご令嬢の手だ。
慌てて立ち上がり、部屋の隅にある大きな姿見の前へと駆け寄る。
鏡の中に映っていたのは、一人の見知らぬ女性だった。
年齢は二十歳そこそこだろうか。ウェーブがかった栗色の髪に、おっとりとした垂れ目の焦茶色の瞳。顔立ちは決して不細工ではない。むしろ整っている方だが、いかんせん華がない。一言で表現するなら「どこにでもいそうな、ちょっと綺麗なモブ」である。
私はその顔に見覚えがあった。
いや、正確には、この「世界」に見覚えがあったのだ。
「ここ……『プリンセス・オブ・ルミナス〜光と影の輪舞曲〜』の世界じゃない!?」
脳内をよぎったのは、前世で私が狂ったようにプレイしていた大人気乙女ゲーム、通称『プリルミ』の舞台設定だった。
聖なる力を持つ平民のヒロインが、魔法学園に入学し、俺様王太子や、冷徹な魔術師、寡黙な騎士団長といった錚々たるイケメンたちと恋に落ちる、王道中の王道ファンタジーだ。
私が徹夜で全ルートをコンプリートし、ファンディスクまで買い漁った、あの愛すべきゲーム。
「待って待って、落ち着いて私。乙女ゲームの世界に転生? マジで? トレンドの最先端じゃん!」
にわかには信じがたい現実を前に、私のオタク脳が高速で回転を始める。
転生したとあれば、まずは自分の立ち位置を確認しなければならない。これ、異世界生存戦略の基本中の基本。
「まずはヒロイン……ではないわね。ヒロインのアリアちゃんは、プラチナブロンドの美少女だもん。じゃあ、王道を行くなら悪役令嬢? いや、悪役令嬢のエリザベス様は、縦ロールの金髪で、もっとこう、人を踏みつけそうなドSな顔立ちをしてる。じゃあ、その取り巻きのモブ令嬢? それとも、攻略対象の妹とか?」
私は引き出しをひっくり返し、手当たり次第に手紙や書類を引っ張り出した。日記帳らしきものを開き、自分の名前を探す。
そこにしたためられていた名前は、私の記憶にある『プリルミ』の登場人物リストのどこを探しても、存在しないものだった。
「……エルサ・フォン・アシェル」
誰?
本当に、誰?
もう一度、ゲームの記憶を隅から隅まで検索してみる。
全メインキャラクター、サブキャラクター、果ては名前だけ出てくる路頭の商人や、学園の食堂のおばちゃんまで思い返してみたが、「エルサ」なんてキャラクターは一文字も出てこなかった。
「ええ……。ヒロインでも悪役令嬢でも、名前のあるモブですらないってこと? 本当にただの『背景』じゃん……」
がっくりと肩を落とした。どうやら私は、シナリオに一ミリも関与しない、完全なる無名キャラクターとしてこの世界に生を受けたらしい。
だが、すぐに私は「あ、これ意外とラッキーでは?」と思い直した。
だってそうだろう。
ヒロインになれば、闇の組織に誘拐されたり、魔王の呪いを受けたりと、命の危機が絶えない。
悪役令嬢になれば、婚約破棄からの国外追放、あるいは処刑というデスフラグを折るために、血のにじむような努力を強いられる。
その点、無名の一般人なら、シナリオの強制力に巻き込まれることなく、平和で安全なスローライフを送れるではないか。
「うん、前向きに考えよう! 幸いなことに、私はアシェル伯爵家という貴族の奥様。派手な贅沢はできなくても、食べるに困らない資産はある。前世みたいに、月残業百時間を超えて白目を剥く必要もないんだわ!」
そう、この「エルサ」は、地方のしがない子爵家から、アシェル伯爵家へと嫁いだ身なのだ。
よし、これからはこの異世界で、美味しいものを食べて、のんびりと読書でもして、優雅な第二の人生を謳歌してやるぞ!
そう決意し、私がフフンと鼻歌を歌いながら、床に散らばったティーカップの破片を拾おうとした、その時だった。
バァン!!
鼓膜が破れんばかりの轟音と共に、部屋の重厚な扉が勢いよく乱暴に蹴り開けられた。
ビクッと肩を震わせ、私が入り口の方を振り返ると、そこには一人の男が立っていた。
息を呑むほどの美形、ではある。
燃えるような赤髪に、切れ上がった冷酷そうな琥珀色の瞳。仕立ての良い黒い上着を着こなし、長身でスタイルも抜群だ。ゲームの攻略対象として出てきてもおかしくないレベルのイケメン。
だが、その端正な顔は、信じられないほど不機嫌そうに歪んでいた。
「――おい、エルサ」
地を這うような低い声が、室内の空気を一瞬で凍りつかせる。
男――この屋敷の主であり、エルサの夫であるギルバート・フォン・アシェル伯爵は、大股で私に近づいてくると、見下ろすようにして言い放った。
「なぜ、俺が帰宅したというのに、玄関まで迎えに来なかった?」
「えっ……あ、いや……」
「言い訳をするな!」
ギルバートは私の言葉を遮り、机を激しく叩いた。ドン、という衝撃音に、私の心臓が跳ね上がる。
「お前は本当に使えない女だな。俺が外でどれほど苦労して働いていると思っている? その俺を最高の笑顔で迎えることすらできないのか? これだから、まともな教育も受けていない田舎子爵家の娘は困る」
開口一番、すさまじいモラハラのオンパレードである。
前世の私なら「は? 何こいつ、帰ってきただけで偉そうに。自分の足で歩いて部屋まで来いよ」と心の中で中指を立てていたところだが、今の私の身体は、彼の怒号を聞いた瞬間、条件反射のようにガタガタと震え出してしまった。
ギルバートの冷ややかな視線が、床の紅茶の染みへと向かう。
「……なんだ、そのザマは。お気に入りのカップを割ったのか? まったく、不器用で行儀が悪い。お前には、その程度の安物の紅茶すら分不相応だということだ。明日からお前の分の茶葉は、一番下の使用人が飲むようなクズ茶に格下げしておく。それと、そのみっともない服は何だ? 俺の妻がそんな地味な格好をしていては、アシェル家の恥だ。だが、お前に新しいドレスなど必要ない。どうせ外出などさせないのだからな」
ギルバートはふん、と鼻で笑うと、私の髪を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせた。
「いいか、エルサ。お前は俺の所有物だ。俺の許可なく一歩も外へ出るな。俺の言うことだけを聞き、俺のためだけに息をしていればいい。お前のような無能な女を妻にしてやっている俺に、一生感謝するんだな」
そう言って、彼は私を突き放すようにして手を離すと、用は済んだとばかりに、再び部屋を乱暴に出て行った。
バタン、と大きな音を立てて扉が閉まる。
静寂が戻った部屋の中で、私は呆然と床にへたり込んでいた。
掴まれた頭皮がジクジクと痛む。けれど、それ以上に私の胸を支配したのは、今の一連のやり取りによって、堰を切ったように溢れ出してきた「これまでのエルサ」の記憶だった。
(あぁ……そうだった。思い出した……)
記憶が戻る前の私――エルサは、この家で、生き地獄のような日々を送っていたのだ。
実家の身分が低いことを理由に、結婚初日から見下され、蔑まれてきた。
ギルバートは極度の束縛気質のモラハラ男だった。エルサが他の男と話すことはもちろん、街へ買い物に出かけることすら禁止した。
「お前は馬鹿だから、騙されて俺の金を使い込むに決まっている」
「お前のような醜い女は、部屋に引きこもって俺の帰りを待っていればいい」
そんな言葉を毎日、毎日、呪いのように浴びせかけられていた。
気弱で優しかったエルサは、反論することすらできず、ただ「私が悪いのだから」と自分を責め、彼に従うしかなかった。
毎晩、夫が寝静まった後に、一人でベッドの中で声を殺して泣いていた。
「神様、助けてください。もう辛いです。消えてしまいたい」
そんな絶望の涙で、枕を濡らさない日はなかったのだ。
「……」
私は、じっと自分の手のひらを見つめた。
震えている。けれど、この震えは、恐怖によるものではなかった。
ふつふつと、マグマのように湧き上がってくる、激しい怒りによるものだ。
「……はぁ? 何あのアゴで人を使うようなクソモラハラ野郎は」
ぽつりと、前世の言葉が口から漏れ出た。
一度タガが外れると、もう止まらない。私は勢いよく立ち上がり、ギルバートが去っていった扉をキッと睨みつけた。
「ふざけんじゃないわよーーー!!」
誰もいない部屋で、私は大声で叫んだ。
「何が『俺の所有物』だ! 何が『一生感謝しろ』だ! 21世紀のコンプライアンスを舐めるなよ! あんな絵に描いたようなモラハラ&束縛男、現代社会なら一発で慰謝料ガッポリ取られて社会的制裁を受けるレベルよ! というか、なんでそんな奴のために、私の貴重な第二の人生を消費しなきゃいけないわけ!?」
前世の私は、理不尽なクレーマーや、手柄を横取りする上司と戦い抜いてきた、鋼のメンタルを持つアラサーOLだ。
気弱で泣いてばかりいたエルサは、もうここにはいない。今の私の中身は、酸いも甘いも噛み分けた、図太い大人の女性なのだ。
「こんな不自由な生活、絶対に無理! お断りよ!」
私は腕を組み、部屋の中をイライラと歩き回った。
せっかく乙女ゲームの世界に転生して、死亡フラグのない無名キャラになれたのだ。それなのに、旦那が最大の死亡フラグ(精神的な意味で)とか、何の冗談だ。
このままこの屋敷にいたら、間違いなくストレスで前世と同じように早死にする。
じゃあ、どうするべきか?
選択肢は一つしかない。
「逃げよう」
私は不敵な笑みを浮かべた。
そう、夜逃げだ。離婚を申し出たところで、あの執着心の塊のような男が、素直に首を縦に振るわけがない。「俺の所有物が、生意気な口を利くな」と幽閉されるのがオチだ。
ならば、奴の目が届かないところへ、こっそりと、完璧に姿を消すしかない。
幸いなことに、私は『プリルミ』のオタクだ。
この世界の地理、情勢、主要な都市の特徴、さらにはゲーム本編で語られていた「裏社会のルート」や「偽造身分証を扱う商人の噂」まで、頭の中にバッチリ入っている。
ストーリーに関係のないモブだからこそ、私がどこで何をしていようと、世界の滅亡には一ミリも影響しない。
「よし、計画を立てましょう。ターゲットは、あのクソ旦那の鼻をあかして、自由で優雅な平民ライフを勝ち取ること!」
私は机に向かい、今度は逃亡計画のためのメモを書き始めた。
もちろん、見つかったら即破棄できるように、前世の言語――『日本語(漢字・ひらがな交じり)』で書く。この世界の人間には、ただの不気味な幾何学模様にしか見えないはずだ。
「まずは、軍資金の調達ね」
いくら貴族の妻とはいえ、ギルバートに財布を握られている現状では、自由に動かせる現金はほとんどない。
だが、エルサが実家から持ってきた、数少ない宝飾品がある。それから、この屋敷の倉庫に眠っている、ギルバートがその存在すら忘れているような美術品や古い金貨。
「ふん、お前に安物の紅茶すら分不相応だと言ったのはそっちだからね。慰謝料代わりに、がっつり資産をいただいていくわよ」
次に、逃亡先だ。
アシェル伯爵家の勢力圏内や、王都の近くではすぐに捕まる。狙うべきは、王都から遠く離れた、隣国との国境付近にある交易都市「リベルタ」だ。
あそこは活気にあふれ、旅人や商人の出入りが激しい。おまけに『プリルミ』の設定では、ある程度の金を積めば、まっとうな偽造身分証が手に入る場所としても知られている。あそこに身を隠し、髪を染めて眼鏡でもかければ、誰も私を見つけられないだろう。
「そして、最も重要なのは――徹底的な『面従腹背』よ」
私はペンを置き、ふっと冷酷な笑みを浮かべた。
明日からは、これまで以上に「気弱で、怯えて、従順なエルサ」を完璧に演じてみせる。
ギルバートに「こいつは俺の足元にひれ伏すしか能のない、哀れな人形だ」と油断させるのだ。男という生き物は、支配下に置いていると思った相手に対して、致命的なほど警戒を怠るものだから。
「待ってなさいよ、ギルバート・フォン・アシェル。あなたが私をただの無能だと見くびっている間に、私はあなたの資産をむしり取り、完璧な脱出劇を披露してあげるわ」
前世の社畜生活で培った、タスク管理能力と根回しの技術。それを今、ここに全力で投入することを誓う。
パリンと割れたティーカップの破片を、私は今度は丁寧に拾い集めた。
私の新しい人生のカウントダウンは、今、この瞬間から始まったのだ。




