犬と狼
「ねぇサリス」
「わふん?」
「あのね……その……えっと……」
「どうしたの、言ってご覧なさい。子供は遠慮なんてするもんじゃないわ」
「う、うん……サリスって、オオカミだよね?」
「ええ、見ての通り狼よ」
「犬じゃないんだよね?」
「ええ、狼よ」
「オオカミと犬は違うの?」
「違うわ。全くの別物よ」
「どう違うの?」
「わふん?」
「ねえ、どう違うの?」
「……それよりも小さな主様、そろそろ私の餌の時間じゃない?」
◇◆◇
「……なんでお前が居るんだよ」
「あら、娘から聞いたでしょう? 私は森に居るって」
男の非難に、獣は小首を傾げる。
そういう意味ではないと男が言う前に、元気な声で少女が割って入る。
「はい、言いました! きちんと伝えました! 私はできる子です!」
額を押さえて項垂れるパピー。水面に映る顔には、先程までとは別の種類の疲労が浮かんでいる。
「お前さぁ……感動の再会とはいかぬまでも、もっとこう……なんかあるだろ。なに、しれっと会話に加わってんだよ」
言ってパピーは大きな溜息を吐く。
十年間、パピーはいつかこの時が来るのを信じ、待ち続けていた。ビーズと出逢ってからというもの、その願いは一層強まった。
それが叶ったというのに、なんだこの脱力感は。
再会を喜ぶべきなのか、それとも怒るべきなのか、何にしろ既にタイミングを逃した感が大きい。パピーはどうするべきかと考え、答えを出す代わりに再び大きな溜息を吐いた。
「相変わらずロマンチストね。現実なんて、こんなものよ」
そんな男の苦悶を、灰色の獣は鼻で笑い飛ばす。
地味に傷付くパピー。「それがパピー様の良い所なんです!」とビーズが擁護するが、何の救いにもならない。むしろビーズにもロマンチストだと思われていたことが発覚し、傷口は広がったようだ。
「それより、もっと他に言うべき事があるんじゃないの?」
「こっちのセリフだ馬鹿。お前こそ俺に言うべき事があるだろ」
「……ご馳走様?」
「ちげえよ!」
反射的に頭を引っ叩くパピー。軽口に反応して、ようやくペースを取り戻す。
「ったく。言いたいことは山ほどあったが、そんな気分じゃねえよ」
言いながら、パピーは目一杯の愛情を持って獣の頭を撫でる。耳の付け根のあたりを掻いてやると、灰色の獣は赤い両目を細めて小さく啼いた。獣もお返しとばかりに首筋をパピーの体に擦り付ける。
かつて毎日のように繰り返していた他愛もないじゃれ合い。
懐かしい柔らかな毛並みに触れながら、パピーは獣の性分を思い出す。
都合が悪い話題を露骨に逸らそうとしたり、悪いことをしたら露骨に甘えてきたり。
十年経っても変わってない。
要は恐がりなのだ。
このタイミングで唐突に現れたのも、男に余計なことを言わせないように振る舞うのも、全ては男に嫌われまいとする精一杯の虚勢なのだ。
「まったく、しょうがねえ奴だな、お前は」
男が察したのを感じ取ったのか、獣は顔を背け、恥ずかしそうに大事な言葉を口にする。
「……ごめんなさいは言わないわ。久しぶりね、小さな主様」
パピーも笑いながら大事な言葉を返す。
「いや、俺としては謝ってもらいたいが……まあいい。久しぶりだな、サリス」
どこかぎこちなく、けれど温かい応酬。
こうして二人はようやく、十年ぶりの再会を果たした。
「私も私も! お久しぶりです、お母様!」
「あら、感傷に浸ってる時に割り込んでくる無粋なあなたは誰かしら?」
「ひどくないですか!?」
……なお、母娘も十数日ぶりの再会を果たしたのだが、こちらはぞんざいな扱われ方だった。
「そう言えば、小さな主様に叩かれたのは初めてね」
サリスの指摘に、パピーは右目を見開く。
先程、会話の流れで頭を引っ叩いてしまったが、かつてパピーがサリスに手を上げたことなど一度たりとて無かった。どうやらここしばらくビーズの相手をしていたせいで、叩き癖が付いてしまったらしい。無意識に取ってしまった行動に、パピーは大いに動揺する。
「す、すまんサリス。痛くなかったか?」
滑稽な程に下手に出てサリスを気遣うパピー。サリスは「大丈夫よ」などと言いつつ、耳を垂らして消沈の態度を取る。傍から見ればあからさまな演技なのだが、パピーはますます狼狽える。
一方、どこか面白く無さそうな顔のビーズ。
「……謝る必要なんてありませんよ。大体パピー様、お母様に会ったら説教をしてやるって言ったじゃないですか。もっと叩いてやった方がいいくらいです」
「馬鹿! 説教と体罰は別物だろうが。女性に手を上げるだなんて最低の行為だ!」
「……わふん?」
真面目な顔で述べるパピーに、「あれれ?」と小首を傾げるビーズ。
「え、ですがパピー様……私のことは頻繁に叩いて……」
「本当にごめんなサリス。怪我とかしてないか? 薬いるか? 痛み止めでも傷薬でも何でもあるぞ?」
「…………」
しかし、もはやビーズなど眼中にないかのように、パピーはサリスの心配をする。先ほど叩いた辺りを「よしよし」と撫で回し、そのまま全身の愛撫へと移行する。サリスもこれに応じ、じゃれ合いが再開される。
「おー、前よりデカくなったか? よーしよしよし!」
「小さな主様に言われたくないわね。どれだけ大きくなってるのよ。ジャカの木じゃあるまいし」
「なんだ。生意気なことを言うのは、この口か? ほーれほれほれ!」
「わひふんほひょ」
「はっはっは! ごめんなサリスー! よーしよしよし! よーしよしよし!」
仰向けになり、蕩けた表情で身を任せるサリス。パピーの指が、わしゃわしゃと体毛を掻き分ける度に、サリスの口からは「くぅん」と甘い鳴き声が漏れ出す。
まるで互いの十年間の空白を埋めるかのように。男は少年に戻り、魔獣はただの狼に戻る。
……ただ、二人とも時折ビーズにちらりと意味ありげな視線を向けるあたり、わざとやっている面もあるのだろう。
一方、蚊帳の外に置かれたビーズは頬を膨らませ、唇を尖らせる。
パピーがサリスに逢いたがっていたことは知っている。サリスがパピーに逢いたがっていたことも知っている。だからビーズは我慢する。我慢しようとする。「私はパピー様の飼い犬なのだから。お利口な飼い犬なのだから」と自分に言い聞かせて。
だが二人のじゃれ合う姿を見詰めていると、浸かっている澄んだ泉とは正反対の、暗くて重くて熱いどろどろした何かが小さな胸の奥から湧き上がり、ビーズを内側から蝕んでいく。
生まれて初めて覚えたその感情の名を、少女はまだ知らない。
「……っ、パピー様っ!」
とうとう我慢しきれなくなり、ビーズは叫んだ。
パピーの手が止まり、サリスの鳴き声が止まる。二人は顔を見合わせ、それから同じ様な動きでビーズの方に向き直った。
二人からの視線を受けて、なぜかビーズは泣き出したくなった。けれど泣きたくなかった。泣く姿を見せたくなかった。だから泣かないように叫んだ。
「さっきからお母様ばかり! 私のこと飼ってくれるって言ったじゃないですか!」
洟を啜る。泣いてるのではない、泉に浸かって体が冷えたせいだと自分に言い聞かせる。
体がぷるぷると震える。泣いているのではない。体が冷えたせいだ。後でパピー様に風邪薬をもらうんだと自分に言い聞かせる。
決して泣いてなんかいない。泣いてなんかやるもんかと、ビーズは自分に言い聞かせる。
唇を引き結んで下を向く。水面に映った顔が醜かったので、ビーズは両目もぎゅっと閉じた。
マグナの森は静かだ。
植物たちは何も語らず、ただ風に揺れて囁くのみ。
静かな静かな囁きの中に、小さな小さな嗚咽が混じる。
「……あー、悪い。ごめんな、ビーズ」
からかい過ぎたことを反省したのだろう。パピーはいつになく真摯に謝る。
やっぱりパピー様は凄い薬師だ――ビーズは思う。
一声掛けてもらっただけで、あれだけ嫌だった胸の中のドロドロが綺麗に無くなる。それどころか今すぐ飛び付いて、すりすりしたくなるくらいに嬉しくなる。
けれど駄目だ。ビーズは自制する。
パピーが泉の中に入り、ちゃぷちゃぷと近寄ってくるのが分かる。しかしビーズは顔を上げない。
パピーはビーズの頭に手を置き、優しく撫でる。普段のビーズならば、ここで全てを許して甘えてしまう。しかし今のビーズの決意は固い。くねくねしそうになる腰を必死に抑え付け、毅然とした態度を取る。
「やです。許しません」
パピーの手が驚いた様に止まる。
ほら見ろ、とビーズは内心でほくそ笑む。パピーは「なでなで」だけで許してもらおうと思っていたのだ。そうはいくもんか、とビーズは決意を新たに固める。
ビーズは知ってしまったのだ。「なでなで」よりも、もっと凄いモノを。ビーズは見た。パピーの手の動きを。ビーズは見た。サリスの蕩けきった顔を!
キッとパピーを睨み付け、ビーズはお願い――否、要求をする。
「許して欲しければ――私の体も、お母様みたいに「わしゃわしゃ」して下さい!」
パピーの顔が驚きに固まる。
しかしビーズは確信している。ああ、パピー様の手が私の全身をわしゃわしゃ撫で回してくれる、と。
優しいパピー様のことだ。ましてや今回は己の非を認めているのだ。お願いを聞いてくれるに違いない。あの両手で体中をまさぐってくれるのだ。きっと「うれション」してしまうだろう。だけど平気だ。お風呂ではしてはいけないと言われているが、泉では禁止されていない!
頭の中で展開される桃源郷。赤い瞳を期待に輝かせて、ビーズはパピーを見詰める。
しかし……
「いや無理だ」
「!?」
想定外の言葉に、ビーズの顔が驚きに固まる。
助けを求めるように視線を向けた先では、サリスが目を伏せて、首を左右に振っていた。
「な……何でですか! やっぱりお母様の方が良いんですか! 私の体じゃ欲情しないんですか!」
硬直が解け、パピーに詰め寄るビーズ。
「いや、お前にもサリスにも欲情なんざしねえよ! だからそういう問題じゃなくてだな……」
パピーはビーズの裸体を上から下まで眺め。
「お前の体、つるつるだろ」
「!?」
愕然とするビーズ。己の体を見下ろし、ぺたぺたとあちこちを触る。そして理解する。
ムダ毛一本生えていない滑らかな肌。これではいかにパピーとは言え「わしゃわしゃ」など出来ようはずがない。
赤い両目を限界まで見開き、絶望の表情を浮かべたビーズは、水飛沫を上げて両膝を着く。
「……犬は不憫ね」
そんな憐れな娘の姿から目を逸らし、サリスは小さく呟いた。




