1 編入の朝
「ここ……で、いいんだよね」
都立特別学校の正門前に、月丘泰奈は戸惑いがちに立っていた。
それまで通っていた公立中学や近隣の高校とそう変わらない光景が、目の前に広がっている。四角い校舎と、そこそこな広さを誇る校庭がフェンスの中に収まっている。
正門から玄関までの一角に、シンボルツリーらしい桜の木が植えられていた。葉桜の時期だ。瑞々しい葉が、たっぷりと光を受けている。
指定された時刻は午前八時半。それまであと十五分ある。ちょうどこの特高に通う生徒たちが、次々と校舎に吸い込まれていくのと重なる時間帯だった。
能力に覚醒する場合、それは十五歳の誕生日であるとされる。だから当然、各人でその覚醒時期は異なる。よって、編入時期も統一されてはいない。
通知書によると、泰奈はこれから職員室に向かわねばならないことになっていた。
「……入って、いいんだよね?」
真新しい特高の制服に身を包み、割れた紅玉を入れた小さな布袋のペンダントをその下に潜ませ、泰奈は不安そうに呟いた。
通知書には、彼女が覚醒した能力について、何も書かれていなかった。通知書が届いてから今日までの一週間ほどの間にも、特にこれまでと異なるような、明らかに何らかの異能に覚醒した、と自覚できる出来事もなかった。
だから泰奈は少し不安なのだ――ここは、本当に自分が通うべき学校なのだろうか、と。本当に自分は、何らかの能力に覚醒したのだろうか、と。
能力監督局からの通知だから、間違ってなどはいないのだろう。これまでに監督局がそうしたミスをした、という記録はない。何らかの能力に覚醒すれば必ず監督局がそれを把握するし、それは監督局に所属する特殊公務員である能力者たちの異能に裏打ちされているらしい。通達ミスは発生しない。
ただ、泰奈がこうした通知を受け取るのはもちろん初めてのことで――普通は一生に一度あるかないか、なわけである――同じように公立学校から先に特高へ編入した数人の同級生たちの元には、具体的にはどういう通知が届いたのかを、彼女が知る由もなかった。
「あら、どうしたの?」
ふいに後ろから柔らかな声が掛けられた。泰奈はびっくりして振り向く。
声の主は、明るい橙色の髪をゆるく結った、どことなく上品さを漂わせる少女だった。制服の胸元のリボンの紺色は、二年生の色だったはずだ。ちなみに泰奈のリボンは、予備学年を示す緑色。あとは確か、一年が臙脂、そして三年は黒だった、と記憶している。
「あ、あの、えっと私、今日からここに通うことになった、月丘泰奈と言います。えっと……職員室、に、行かないといけなくて」
やや慌てながら答えると、その先輩はにこりと微笑んだ。周囲の空気がふわりと和らぐ。
「緑のリボン――新入生ね。ようこそ、特高へ。私は二年の神庭有寿よ。良かったら、職員室まで案内するわ」
「い、いいんですか?」
「ええ、もちろんよ」
有寿は再び微笑んで、
「こっちよ、着いてきて」
先に立って玄関を目指す。泰奈も慌ててそれを追った。
「月丘さん、だったわね。新入生ということは、予備学年だから靴箱は一番奥の列よ。けど今日は初日みたいだし、来客用になるからこっちね」
「ありがとうございます、神庭先輩」
「どういたしまして。二年の靴箱はこの真ん中だから、ちょっと履き替えて戻って来るわ。月丘さんもこっちのスリッパに履き替えて、ここで待っててね」
「はい」
泰奈が頷くと、有寿は一つ向こうの靴箱の方へと姿を消した。泰奈も言われた通り、来客用のスリッパに履き替え、靴を仕舞う。
有寿はすぐに戻ってきた。
「職員室はこっちよ」
再び泰奈の先に立って歩き始める。
親切な先輩に出会えて良かった、と泰奈は安堵しながら、有寿のあとを追った。有寿に声を掛けられなかったら、まだ正門前で戸惑っていただろう。指定時刻に遅れていたかもしれない。
生徒たちがざわめく廊下を進み、二人は職員室の前に辿り着いた。途中で有寿の知り合いらしき生徒が数名声を掛けてきて、彼女は笑顔でそれに応じていた。
「ここが職員室よ。ちょっと待ってね」
そう言うと有寿は、職員室の扉を開けた。
「失礼します、二Bの神庭です。新入生の月丘泰奈さん、登校しました」
「おお、神庭か、おはよう。ええと、月丘泰奈――よし、こっちに入れー」
一番手前の机に座っていた男性教師が、端末で何かを確認してから応じる。
「は、はい、判りました。えっとあの、神庭先輩、ありがとうございました」
「気にしないで。じゃあ、また会えるといいわね」
「案内ありがとうな、神庭。予鈴鳴るから急げよー」
「はい」
教師に応えてから有寿は手を振って、職員室に入っていく泰奈を見送った。
「じゃあ月丘、通知書は持ってるな。初日はオリエンテーションな。手続きと説明があるから、こっちへ――」
教師はいつものように、新入生に対する説明を始める。泰奈はまだ緊張しているため小さな声で「はい」と返事をしながら、教師に示された席の方へと向かい始めた。
新しい場所に対する僅かな高揚感もあったが、それよりも不安の方が大きかった。だから泰奈の挙動は、少しだけこわばっていた。
職員室の扉を閉めた有寿は、自分の教室に向かうために方向転換する。
感じの良い新入生だ、と思った。少し自信なさげにも見えたが、どことなく気が合いそうな予感がしていた。
「ふふ、本当にまた会えると良いんだけど」
微笑みながらそう言って、そこで一瞬動きを止めた。
「……? 今のって……」
小さく独りごちる。
「……何かの、気配……?」
有寿は神社の娘である。そして彼女が保持する能力は〈退魔〉だ。
「何かしら、気のせい……? 特におかしなところはなかったはずだけど……」
その気配が何から発せられたのか、それは判らなかった。そして、そこまで明確な気配でもなかった。
何か悪いモノであれば、危険なモノであれば、もっとはっきりとした気配が感じられるはずだ。そこまでの存在感を放つような気配では、なかった。
「あ、いけない、予鈴だわ」
響いたチャイムに有寿ははっとして、止めていた動きを再開する。廊下にいる生徒たちも、それぞれの教室へと急ぎ始めた。
その日は再び二人が会うことはなかった。
泰奈はオリエンテーションが終了すると、今日はそれで帰宅するよう指示を受け、有寿の方は普段通りに、六時間の授業を受けた。
泰奈と有寿が再会することになるのは、翌日のことである。




