第七十四話 見つからない者を探す
門が閉じても、霜はすぐには溶けなかった。
第九口の標柱。外した側線。産院の渡り廊下。寺へ続く道の端。
白い筋は、伸びるのを止めたまま地面に残っている。
「消えた」と誰かが言った。
片山が訂正する。
「門が見えなくなった。霜の拡大が止まった。律は確認できへん。三つは別や」
緑円のあった場所へ、誰もすぐ近づかなかった。
門が見えないだけで縁が残っていれば、物も人も切断される。
長い竹竿の先へ、名前も用途も書いていない粘土片を結ぶ。人は十五尺離れる。抵抗、冷却、先端の消失のどれかで中止する。
一度目。
粘土片は、空気を通った。
温度は周囲と同じ。先端も欠けていない。
二度目はしない。
門が完全に消えたとは記さず、〈一回の通過試験で異常を確認せず〉とだけ残す。
佐和は、律の名をもう一度呼びたかった。
門が閉じた後まで約束が続くかは決めていない。一度だけ呼ぶという言葉は、境界の中で帰路を命令にしないためのものだった。
それでも、繰り返せば自分が聞きたい返事を作る気がした。
呼ばなかった。
代わりに、捜索範囲を決める。
第一は門の跡から五十間。倒れた窯板、灰、側溝、粘土穴。
第二は第九口の地下。別の出口や落下した空洞がないか。
第三は産院から駅までの傷病者移動路。律が戻った後、別の場所へ出た可能性を捨てないため。
夜明けまで。新しい霜、緑光、声、地盤崩落があれば、その班だけ退く。傷病者の診療と消防を減らしてまで人数を増やさない。
捜索しない場所も書く。
町外、川、山、冥王星。
今夜の人員では確かめられない範囲を、「いない」とはしない。
門跡では、五枚の窯板が見つかった。
一枚目から四枚目は位置がずれている。五枚目には、律の左肘を支えたと思われる浅い擦り跡。血はない。
律と一緒に消えた六枚目、または最後の板は見つからない。見ていた者によって何枚目か数が違うため、〈一枚不足〉とだけ書く。
灰の中には緑骨があった。
長さ二尺七寸と測る者と、二尺八寸と測る者がいる。端が光によって透けるためだった。素手で触れず、割れた甕を逆さに被せる。
甕へ封印の札を貼らない。
窯場は〈異物へ覆い〉、警察は〈現状変更を避けるため接触せず〉、消防は〈周囲三尺、温度低下なし〉とそれぞれ記す。
第九口の地下では、円形室の交換機が止まっていた。
田正雄の遺体を載せていた椅子。顔標本を外した棚。切り離した警察、鉄道、新聞の接点。すべて暗い。
無面の空殻はない。
粘土穴で砕けたはずの外殻片も見つからない。門と一緒に回収されたのか、緑骨へ変わったのかは分からない。
地下の奥に新しい通路もない。
壁を壊して探さない。崩落させれば、まだ残る二十三件の凍結資料と榊の過去記録を失う。
〈地下に律の身体、衣服、血痕を確認せず〉。
確認できた範囲だけで終える。
移動路の班は、産院裏で律の草履跡に似たものを見つけた。
右足だけ。
大きさも合う。
しかし霜が土を押し上げてできた窪みかもしれない。左足跡がなく、草履そのものもない。
佐和は律の跡だと書かなかった。
〈右足形の窪み一。形成時刻不明〉。
夜が明ける。
捜索を終える時刻が来た。
「あと一刻」佐和が言った。
片山は反対した。
「人を替えれば続けられる」
「替える人は、どこから出す。産院か、消防か、配給か」
佐和は答えられない。
律を探すことは必要だった。
見つからない者一人のために、生きている負傷者への手を無期限に減らすこともできない。
捜索終了は、死亡認定ではない。
昼に地盤と霜の状態を見て、地下だけをもう一度確認する。町外への照会は各機関が通常の経路で行う。新しい物証があれば再開する。
条件を残して、夜間捜索を終えた。
佐和は納得したとは書かなかった。
〈延長を希望。人員配分を示せず、夜明けで終了に異議を残す〉。
異議があっても、終了には参加した。
産院では、負傷者の順番が決め直されていた。
機関士の左肩と首には水疱が広がっている。感染を避けるため布を替える。鉄道へ戻れる時期は未定。本人が目を覚ますたび、列車はどうなったと尋ねた。
駅員は「運転は止まっている」とだけ答える。安心させるため復帰を約束しない。
元軍曹の指は二本が黒ずみ始めた。
温めても感覚が戻らない。切断が必要になるか、志乃は今決めなかった。軍曹は命令に従って第九口へ来た自分を責め続けている。
「来たことと、指がどうなるかは別に診る」
志乃は説教をせず、病状を説明した。
自分を罰するため治療を拒むことも、同意とは扱わない。
志乃の手首には白い輪が残った。
指先の震えもある。彼女は診察を続けようとしたが、助手が一時間の交代を求める。
「私が決める」と言いかけ、志乃は止まった。
自分を唯一の医療判断者にしないと、今夜何度も言ってきた。
交代する。重症判断だけを二人で確認する。
井戸脇の榊は、脈八から九の間。
失声。仮名再生不能。二本目と五本目の素焼き片はずれていない。右手で応答板を二度叩く緊急合図も理解している。
名前欄は空白のまま。
助手が食事を運ぶと、榊は板へ木偏を書いた。
昨日までなら、その先に〈神〉が続いた。
今は、横線を一つ足して止まる。
無理に思い出そうとしているのか、新しい字を書こうとしているのか分からない。
誰も続きを教えない。
空貨車の碧は、首まで白くなった範囲が進まなくなっていた。
戻りもしない。
左腕は動かず、右手で水を飲む。門が閉じたから自由だとは言わない。春夫への殺害布置、偽命令、無面操作に関する調査は残る。
同時に、治療を受ける権利も残る。
志乃の助手は人間と同じ脈を探して見つけられなかった。だから診察不能とはせず、皮膚温、応答、瞳孔、白化境界を記す。
碧はもう一度、自分の構造に合う隔離法を求めた。
「榊と同じ手術やなくてええ。私の身体を、私に説明して」
要求は調査協力の取引にしない。
現時点では方法なし、と正直に答え、外部の医師や技師へ相談する範囲を本人と後で決める。
昼近く、窯灰の温度が周囲と同じになった。
耀盌を取り出す時刻を検討する。
門が閉じたから安全だとは決めない。
窯場、警察、町会の三者が遠距離から状態を見る。佐和は参加しなかった。律の失踪直後に自分が器の扱いを決めれば、助けられなかった思いを保管へ置き換える気がした。
安達が窯場側を受け持つ。
長柄の木匙で灰を少しずつ除く。器へ直接触れない。
口縁、欠けなし。
白銀のひび、一本。
底、署名なし。
七つの輪も黄点も見えない。
表面温度、周囲と同じ。
緑光なし。
事前に決めた停止条件は出ない。
厚い布を敷いた素焼き箱へ、木匙で転がす。
箱に鍵は付けない。鍵の所有者が管理者になるためではない。陶器は鍵がなくても割れるし、鍵があっても権限乱用は止まらない。
箱には〈天目〉とも〈耀盌〉とも書かなかった。
窯場帳に外観と箱の特徴。
警察帳に強制提出を認めない経緯。
町会帳に移動理由と見届けた人数。
器物本体は窯場が物理的に預かる。ただし開封、使用、移送を一人で決める権限は持たない。
「場所が知られたら」安達が言う。
「隠し場所一つを秘密にしたら、知っとる人が次の田正雄になる」片山が答えた。
存在を完全に消さない。
正確な棚位置を全帳面へ配らない。
窯場は保管場所を知る。警察は器物の特徴を知る。町会は移送を見たが、最終棚は見ない。
誰か一人の記録だけでは使えず、誰か一つを焼いても存在全部は消えない。
昼の光が窯場へ入った。
素焼き箱は、銘のない茶盌が並ぶ棚の奥へ置かれた。
佐和はその場所を見なかった。
代わりに、最後に聞いた声を自分の紙へ書いた。
〈律、と一度呼んだ。ここにいる、と返事を聞いた〉
その下には、何も足さなかった。




