第七十三話 戻らなかった一歩
門までの窯板は、七枚になった。
七という数に意味を持たせたわけではない。使える板を、長さの合う順に置いた結果だった。
同じ幅へ削らない。
一枚目は窯棚。
二枚目は角の欠けた焼台。
三枚目は、地震で割れた甕の底。
残りも、もとの用途が違う。
どの板も〈帰路〉とは呼ばない。
律が足を置ける物として、その場にあるだけだった。
緑骨を曲げている陶支柱の一本に、縦の霜割れが入る。
時間がない。
産院の助手が最後に律を見る。
脈百二十。呼吸二十二。右肩から先は見えるが動かず、両脚も感覚なし。胸から上と左腕は自分で動かせる。
「歩けへん」
「板を滑ります」
律は腰の下へ一枚目の窯板を置いてもらうことへ同意した。
人に担がれない。
左手と肘で身体を押し、板の上を少しずつ進む。佐和たちは板へ触れない。転びそうになれば、門と直角の方向から肩ではなく板の端だけを支える。
一尺進む。
緑骨が肩へ深く入るのではなく、門側へ短くなる。
律が自分から境界へ近づくほど、直接接続に引かれる力が弱まった。
監察者は収容が始まったと判断したらしい。
「帰還を受理」
「違う」
佐和が答える。
律ではない。
地球側の拒否者として、門の完了宣言だけを否定する。
「本人は収容を拒否してる。閉鎖を試すために動いとる」
門の縁が揺れた。
「行動は帰還を示す」
「行動の意味を、あんたが決めるな」
片山は佐和と同じ文を繰り返さない。
「本人の説明と門の説明が不一致」
大橋は〈保護収容としての受領なし〉。
王仁三郎は何も書かず、律へ聞いた。
「まだ行くか」
「行きます」
二枚目へ移る。
右脚が門の縁へ近づく。
切断されない。
足先は黒い氷原へ出たように見える。律自身には感覚がない。佐和には、右脚が夜の中で薄くなるだけに見えた。
三枚目。
石門の影が近づいてくる。
三枚の緑膜が開き、黒い眼が律の顔を映す。
「観測起点を確認。個体差を除去する」
律の頭へ、知らない記憶が流れ込んだ。
冥王星の暗い平原。
黄色い太陽系を監視する無数の門。
地球から上がるロケットの軌道。
到達前に失敗した設計図。
祈り、魔術、科学の名で空を越えようとした人々の記録。
すべてが本物とは限らない。
律には、もう天目がない。
未来か、過去か、監察者が見せる像か区別できない。
「何が見える」佐和が聞く。
「黒い地面。門が、たくさん。ロケットみたいな……でも、確かめられない」
断定しない。
四枚目。
律の身体が半分、円の向こうへ入る。
緑骨が肩から抜け始めた。
地球側へ残る長さが、指二本分まで短くなる。
政一が支柱の状態を見る。
「今なら骨を外せるかもしれん」
引かない。
律がもう半尺進めば、骨の先端が自然に肩から離れる位置だった。
「律」
佐和が一度だけ名を呼ぶ。
律は振り返った。
人が呼ぶ道は残っている。
窯場帳では、安達が律の出発位置を記す。警察帳は本人が収容を拒否したまま境界へ入った事実。産院帳は入る直前まで意思確認可能。
記録の道も三か所に残る。
物理の道は、背後の四枚の窯板。
三つとも、まだある。
律は五枚目へ移った。
緑骨が肩から抜ける。
血が噴き出さない。右肩の皮膚が戻り、服だけが円形に欠けている。
律の右腕が動いた。
指を一度、曲げる。
「戻れる!」消防組の誰かが叫んだ。
律は前へ進むのを止めた。
目的の一つは達した。直接接続は外れた。
ここから戻る選択がある。
石門はまだ開いている。
外側で境界完了を拒否する者がいなければ、地球側の誰かをまた錨にする可能性がある。
「戻って、別の方法を探す」大橋が言った。
命令ではなく提案だった。
「支柱はもう要らん。お前の身体も戻った」
律は背後を見る。
窯板の上に、緑骨が落ちている。
半壊した執行体は動かない。
乳児たちの影も、機関士の影も戻っていない。
今なら退ける。
同時に、門は開いたまま残る。
碧の説明が正しければ、内外の自主観測者が拒否しなければ閉じられない。
正しい保証はない。
「一度だけ、外で拒否します」律が言った。「変化がなければ戻る」
停止条件を決める。
門が律の記憶を一つでも答えられなくする。
地球側の窯板が消える。
佐和の声が聞こえなくなる。
石門の影が律へ触れる。
どれか一つで、閉鎖を続けず戻る。
六枚目。
律の身体が、円の向こうへほぼ入る。
右手だけを地球側へ残す。
「境界閉鎖を完了せよ」石門の影が言う。
「完了していません」律は答えた。「僕は、あなたの管理へ戻っていない」
地球側で佐和も言う。
「完了してへん。律は戻る道を残してる」
門の内外から、同じ完了を否定する。
緑円が縮んだ。
黒い氷原の端が、石門の方へ引かれていく。
成功しかけている。
律は七枚目へ出なかった。
六枚目から後ろへ戻ろうと、左手を窯板へ置く。
その瞬間、石門の影が律へ手を伸ばした。
停止条件。
戻る。
律は地球側の五枚目へ身体を滑らせる。
佐和の声が聞こえる。
「律!」
返事をする。
「戻ってる!」
右手が緑円から出る。
肩。
顔の半分。
門の縁はさらに縮む。
人が呼ぶ道も、記録の道も残っている。
物理の道だけが壊れた。
六枚目の窯板が、中央から音もなく切れる。
律の左肘が支えを失った。
身体が石門側へ傾く。
佐和は律の手を掴まなかった。
門が手と手を一本の回収線にする危険がある。
代わりに、五枚目の窯板を足で律の下へ押す。
片山と大橋が別角度から板の端を支える。
律の身体が一度止まった。
「引ける」片山が言う。
三人が力を揃えないまま、少しずつ板を地球側へ送る。
一寸。
二寸。
律の胸まで戻る。
石門の影が、切れた六枚目を踏む。
門の黒い眼が初めて地球側へ越えた。
霜が町全体へ走る。
第九口、線路、産院、寺、学校。切り分けたはずの境界が、同時に白くなる。
律は見た。
天目の未来ではない。
今、実際に霜が伸びている。
戻れば、自分は助かるかもしれない。門の眼も地球へ残る。
向こうへ出れば、眼を石門側へ押し返せる位置にいる。
佐和たちが作った道は失敗していない。
律を胸まで取り戻した。
だからこそ、律にはもう一度選ぶ余地があった。
「板を離してください」
「嫌や」佐和が言う。
「聞いてください」
律は現在地を言えないまま、自分の名と状況を答えた。
「僕は水城律。門から戻る途中です。門の眼が地球側へ出て、町へ霜が伸びています。板を離したら、僕は向こうへ落ちるかもしれない。でも、眼を押し戻せる」
「戻れへんかもしれん」
「はい」
「それでも、自分で離せ言うんか」
「はい。さっき佐和さんを庇ったこととは別に、今ここで選びます」
片山は反対した。
「門が見せとる二択かもしれん」
「そうかもしれません」
律は認めた。
「だから、僕を引くことも間違いではない。離すことだけが正解とも言いません」
大橋は町を見る。
霜の先は、各場所で消防、寺、学校の者が灰と筵で遅らせている。まだ誰も凍っていない。
時間は少しある。
「十数える」大橋が言った。「その間に別の案が出たら止める」
誰も黙って見送らない。
政一は七枚目の板を横から差し込もうとする。門の眼が凍らせ、板は届く前に割れた。
消防組は緑骨を眼へ押し戻そうとする。骨は地球側の支柱から外れ、灰へ沈む。
片山は律の衣服を板へ留められないか見る。服の右肩がすでに円形に失われ、結べば首へ力が掛かる。
三つの案が失敗する。
大橋が十を数え終えた。
佐和は、最後まで板を離さなかった。
「私は反対や」
「分かってます」
「せやけど、あんたの選択を、私の手で別のもんに変えへん」
佐和は板から足を外した。
片山は一息遅れて手を離す。
大橋も離す。
律の載った窯板が、石門側へ傾いた。
律は落ちながら、門の黒い眼へ右手を突き出す。
押した感触はない。
それでも眼は三枚の緑膜ごと向こうへ戻った。
緑円が急速に閉じる。
「律!」
佐和が一度だけ呼ぶ。
門の向こうから、声が返った。
「ここにいる!」
二度目は呼ばない。
命令にしない約束だった。
円は人一人分から、茶盌ほどの大きさへ縮む。
律の右手が一瞬、こちらへ伸びた。
佐和にはそう見えた。
片山には、手ではなく白い狐の尾に見えた。
大橋は、何も見なかったと言った。
誰も掴めなかった。
緑円が閉じる。
音はなかった。
霜の広がりが止まった。
地面には、途中で切れた窯板が五枚。
灰の中に緑骨。
律が最後まで載っていた板は、門と一緒に消えていた。
水城律の身体は、どこにもなかった。
佐和は、すぐ〈死亡〉と書かなかった。
片山も〈門へ入った〉と断定しない。
大橋は失踪時刻を書けなかった。三つの時計は、まだ二時十三分で止まっている。
それぞれが、見たことだけを残した。
佐和は、声が一度返った。
片山は、白い尾のようなものを見た。
大橋は、円が閉じた後に律を確認できなかった。
三つとも同じ記録にはならない。
夜明け前の窯場に、誰も一つの結論を置かなかった。




