第七十二話 帰るための手順
右の木槌、押すだけ!」
政一が叫んだ。
消防組の男は振り下ろさない。緑骨の根元へ木槌の頭を当て、体重をゆっくり掛ける。
左の木槌は、肩から一尺離れた場所を下から持ち上げる。
骨は折れない。
少し弓なりになる。
律の透明になった右腕が、一瞬だけ地球側へ戻った。
指が見える。
「名前」佐和が言う。
「水城律」
「選んだこと」
「門へ渡るとは、決めてない」
「右手、動かせる?」
律は指を曲げようとした。
動かない。
見えても、感覚と運動は戻っていない。
右の木槌を押す男の手袋へ霜が付く。
停止条件だった。
「離せ!」
二人が同時に離さなかった。
右が先。緑骨が少し戻る。左は律の肩へ急に荷重が掛からないことを見てから離す。
骨が元の直線へ戻り、右腕はまた透ける。
救援は失敗ではない。
力の向きを変えれば、身体が一部戻ることを確認した。しかし人が押し続ければ、その人へ凍結が移る。
「支点を、人の手やない物へ替える」政一が言った。
窯場から、焼成済みの支柱を三本持ってくる。同じ長さではない。陶製で熱を残し、鉄ほど霜を通しやすくない。
地面へ固定すれば、門が新しい基準面として使うかもしれない。
だから土へ立てない。
割れた甕の中、窯灰の山、焼け戸から外れた一枚の上へ、それぞれ別の角度で置く。
一つは消防の炭化資料へ触れる。勝手に使ってよいか、消防組が範囲を決める。
「板を支点にする間だけ認める。終わったら資料に戻すかは、状態を見て決める」
一つは窯場の失敗作。政一が決める。
一つは町内組が運んだ灰。誰か一人の所有物にしないが、使用中の見張りは町会が受け持つ。
三本を一つの装置とは呼ばない。
右の支柱が緑骨を横へ押す。
左の短い支柱が下から受ける。
三本目は、折れた場合に骨が佐和たちへ跳ねないための止めである。
人が手を離しても、骨の曲がりが保たれた。
律の右肘まで戻る。
肩の透明な境界が、緑骨の刺さった一点へ狭くなる。
「抜くか」大橋が聞く。
引けば、門側の何かを律の身体へ通すかもしれない。押し込めば、律を向こうへ送る。
どちらにも決めない。
骨と肩の接点だけを、身体から離せるか試す。
志乃は榊のそばを離れられない。代わりに産院の助手が来た。医者ではないこと、傷口の処置を決める権限はないことを自分で言う。
「見るだけです。出血、呼吸、意識。骨を切れとは言いません」
律の肩から血は出ていない。
皮膚と服が緑骨の周囲で薄い膜になり、物質の境が消えている。傷というより、右肩だけが門の内側へ分類されていた。
長い竹箸で、服の端を一分だけ持ち上げる。
布は骨から外れた。
皮膚は外れない。
次に、素焼きの薄片を皮膚へ触れない距離で接点へ差し込む。
緑光が片へ移る。
律の呼吸が止まった。
すぐ戻す。
一息、二息。
律が咳き込む。
「接点は肩だけやない」助手が言う。「呼吸まで通ってる」
直接接続は、刺さった場所から全身の機能を門へ運び始めている。
もう一度は試さない。
門の黒い眼が、三本の陶支柱を見る。
「現地抵抗を記録。次回回収へ反映する」
今回を止めても、同じ方法は次に学習される。
碧が筵の向こうから声を出した。
「境界を閉じる手順があります」
片山はすぐ尋ねない。
碧の白化は首へ近い。説明させ続ければ、位置核が門へ反応する。
「何問なら答えられる」
「三つ」
片山は質問を選んだ。
一つ目。誰が必要か。
「内と外に、自分で観測を拒否できる個体が一人ずつ」
二つ目。物や空殻で代用できるか。
「できません。命令に従うだけの物は、境界完了を否定できへん」
三つ目。外側へ出た者は戻れるか。
碧はすぐ答えなかった。
「閉じる前なら。教本では、外側担当は回収個体やから戻す必要がない。現地の人が戻った記録は、知らない」
三問で終える。
春夫が筵を厚くし、碧を門から隠す。
「誰か一人が向こうへ行かなあかん、いう話か」大橋が言った。
律は答えなかった。
まだ選択肢を調べる。
外側には、すでに石門の影がいる。あれが拒否すればよいのではないか。
門へ問いかけても、監察者は拒否しない。
半壊した境界執行体を投げ込む案。
空殻には自主判断がない。碧の説明どおりなら外側担当にはならない。
榊の胸内緑板だけを外へ送る案。
外せば榊が死ぬ危険があり、板も命令を拒否できない。
耀盌を開き、天目を外側観測者にする案。
天目は道具であり、律が閉じたばかりである。再び開けば門の回収目標を復活させる。
どれも使わない。
「外へ出る人に、戻る道を三つ作る」佐和が言った。
一本の命綱では、門が〈回収線〉として使う。
物理の道。
人が呼ぶ道。
記録の道。
三つを別々にする。
物理の道には綱を使わない。門の縁まで不揃いな窯板を置き、外側へ出た者が自分で足を戻せるようにする。板同士をつながない。
人が呼ぶ道は、帰還命令にしない。佐和は律の名前だけを呼ぶ。ただし呼ぶ回数も時刻も決めない。律が返事をしなければ、命令として繰り返さない。
記録の道は、一枚にまとめない。窯場は出た位置、警察は本人が拒否した収容、産院は出る前の意識状態を残す。〈帰還すべき者〉という一つの身分は作らない。
さらに、地球側にも拒否できる者を置く。
佐和が名乗り出た。
「私が残る」
片山が反対する。
「お前は律と関係が近い。門が一組として扱う」
「近いから拒否できる。律を向こうへ置いたまま閉じることも、律が嫌やいうのに引き戻すことも、両方止める」
地球側担当は、律の所有者ではない。
戻るかどうかを代わりに決めない。境界が一方的に〈完了〉と宣言したときだけ、未完了と返す。
大橋、片山、王仁三郎もそれぞれ停止権を持つ。佐和一人が倒れれば門が閉じる構造にしない。
外側へ出る者は、まだ決めない。
律以外に可能か試す。
町外から届いた憲兵記録の写しを門へ近づける。外部で独立して作られた紙でも、自主的に拒否はできない。縁で切られそうになり、すぐ戻す。
碧自身が行くと申し出た。
「私は境界の命令を拒否できる。外側の構造も知ってる」
だが位置核の白化が首へ達している。門を見ただけで悪化し、歩いて縁へ行ける状態ではない。さらに監察側の現地個体である碧を、石門が外側担当と認めず回収対象にする可能性が高い。
拒否は記録する。
今は選ばない。
大橋が行く案。
門との接続がないため、縁を越えた瞬間に身体を切断される可能性がある。先端を失った素焼き片が物証だった。
佐和も、片山も同じ。
現在、境界の内外へ身体がまたがっても切られていないのは律だけだった。
緑骨との直接接続が、律を傷つけると同時に通行条件になっている。
「僕が行くしかない、とは言わないでください」律は言った。
「言わへん」佐和が答える。「行かんかったらどうなるかも、書く」
行かなければ、門は律の身体を直接引き続ける。陶支柱は霜を帯び始め、長くは保たない。折れれば佐和側へ骨が跳ねる。
門を開いたまま退けば、代替錨の選定が再開する可能性が高い。
律を気絶させて運んでも、直接接続は残る。本人の拒否だけが失われる。
門へ出れば、外側から閉鎖を拒否し、石門の監察者を境界の向こうへ留められる可能性がある。戻れる保証はない。
三つの不完全な選択だった。
律は、すぐ選ばなかった。
「榊さんと、機関士さんは」
伝令が答える。
榊は井戸まで移動し、脈八。意識あり。機関士は水場へ着き、呼吸あり。母子と元軍曹も各受け入れ先へ到着。
弱い者を置き去りにして、律だけが世界の中心になってはいない。
律は佐和を見る。
「戻るための三つの道、途中で一つ失くなったら」
「残りで続ける。二つ失くなったら、帰れとは命じへん。あんたが見えるうちは、何が起きたか言う」
「全部なくなったら」
「なくなったと、あとで嘘つかず書く」
必ず帰れるとは言わなかった。
律も、必ず戻るとは約束しない。
「僕は、門に収容されることへ同意しません」
一度区切る。
「門を閉じて、戻る道を試すため、境界の外側へ自分で移動します。身体が勝手に引かれたら、それは僕の選択に数えないでください」
佐和が復唱する。
片山、大橋、王仁三郎も聞いた範囲を別々に残す。
律は門へ命を渡すとは言わなかった。
帰るために、向こうへ一歩出ることを選んだ。




