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第七十一話 誰も代わりにしない

影が身体へ入った瞬間、律の足から感覚が消えた。


膝が折れる。


佐和は抱き留めず、肩へ手を添えて座らせた。触れた手に霜は移らない。


門はもう、律を地面へ結びつけていない。


律自身を境界にしようとしている。


「名前」佐和が言う。


「水城、律」


「場所」


律は周囲を見る。


窯場。第九口。産院裏。


どれも近くにあり、今夜何度も行き来した。


しかし自分がどこに座っているか、言葉が出ない。


佐和が停止札を上げた。


「今の同意は」


「門へ……答えない」


二つは答えられた。一つは答えられない。


天目を閉じる手順なら、ここで中止である。


だが律は、もう手順を続けていない。門の側が一方的に収容を始めた。


「本人の続行同意なし」佐和は声に出した。「停止条件に触れた。こっちの操作は全部止める」


誰も律を門へ運ばない。


誰も天目をもう一度開かない。


誰も耀盌を灰から拾わない。


止めることしかできなくても、止める。


門の黒い眼が開く。


「収容は保護である」


全員が同じ言葉を聞いた。


「現地個体の生命を維持し、観測構造を標準環境へ返還する」


「帰したあと、律は戻れるんか」片山が問う。


門は答えない。


「記憶は残るんか」


答えない。


「本人が拒否したら」


「危険判断能力を汚染により喪失」


律が現在地を答えられないことを、同意能力の全喪失へ広げた。


志乃は離れた井戸から伝言を送った。


「一問答えられんからいうて、全部決められへん人にはならん。何を理解できて、何を選べるか、選択ごとに見る」


律へ、いま起きていることを短く説明する。


影が身体へ入り、足の感覚と現在地の回答を失った。門は保護だと主張するが、帰還条件、記憶、身体状態を説明しない。こちらは全操作を止めている。


律は復唱できた。


「何を選びたい」


「門に入れられたくない」


明確だった。


門が告げる。


「拒否は汚染反応」


「拒否を病気の症状にするな」大橋が言った。


拳銃は抜かない。門を撃てば律の内側に入った影へ何が起きるか分からない。


碧が空貨車の戸口へ出た。


見張りは止めなかった。自分で出られる道を残すという保護条件がある。


左腕の白化は肩近くまで進んでいる。


「標準環境へ入ったら、個体の記憶は比較されます」


「知っとることか」片山が聞く。


「教育で見た。違いは誤差として切られる。残るのは、ほかの個体にも使える部分だけ」


碧自身が恐れていた記憶統合である。


門は否定しない。


「機能継続を保証する」


「それは律が生きるいう意味やない」


碧は門を見た。


位置核が反応し、肩の白い線が首へ一寸上がる。


春夫が筵を戻す。


「もう見んでええ。言えることは言うた」


碧は筵の後ろへ下がった。


自分を傷つけ続けて証言する必要はない。


門の縁から、細い黒糸が律の胸へ伸びる。


足だけだった無感覚が、腰へ上がった。


律の呼吸は正常。脈は速い。自分の名、門を拒否する意思、直前の説明は答えられる。


現在地だけが抜けている。


佐和は場所を教えなかった。


教えれば答えられるようになるかもしれない。だが門がその言葉を現在位置として使う。


代わりに、律へ見えるものを尋ねた。


「右に何がある」


「割れた甕」


「左は」


「佐和さんの草履。片方、鼻緒が緩んでる」


「後ろ」


律は振り返る。


「誰かが置いた窯板。名前は分からん」


場所の名前は言えなくても、周囲との関係は見えている。


門が〈現在地不明〉を理由に全人格を回収する根拠は弱い。


片山は律の位置を名づけず、四方の物だけを別々に記した。


佐和の草履。


割れた甕。


無名の窯板。


灰の中の耀盌から、およそ四十歩。ただし歩幅は測っていない。


一つの座標へまとめない。


律の胸へ入る黒糸が止まった。


「位置情報、不完全」


門は、今度は人を使った。


産院から移された乳児の一人が、遠くで泣く。


門の声が、その泣き声に重なった。


「収容を拒否すれば、代替錨を再選定する」


母親の腕の中へ、薄い影が生まれる。


脅しではない。第六十九話で、門は移動不能者を実際に選んでいる。


律の顔から血の気が引いた。


「僕を取れ」と言えば、乳児は助かるかもしれない。


それこそ門が求めている同意だった。


「言うな」佐和が先に言った。


「でも——」


「あの子を助ける方法を、あんた一人の返事にせえへん」


母親は、乳児を置かなかった。


北畑の民家へ引き返しもしない。看護婦と二人で、地面に生じた影から一歩だけ横へ出る。


影は追う。


寺から来た者が足元へ藁を敷く。学校の教師は乳児の名を呼ばず、母親本人へ次に進むか尋ねる。


母親は進むと答えた。


誰も律の判断を待たない。


影の端へ、先ほど外した焼け戸の一枚を置く。消防が炭化資料として一時的に見ている板である。


門はもう一度、それを錨にしようとする。


消防組は宣言した。


「この板は、調査中や。子供の代わりにも、律の代わりにも渡さん」


警察も、町会も同じ言葉を繰り返さない。


大橋は〈警察の廃棄判断なし〉。


町会は〈今夜の用途未決定〉。


三つの異なる拒否が、板の影を分ける。


乳児の下の影が薄くなった。


門は次に元軍曹へ伸びる。


寺の僧が、その人を寺へ運ぶ責任だけ引き受ける。軍曹は凍傷の手で自分の進行を選ぶ。


影はまた薄くなる。


機関士へ。


駅長が運転業務とは切り離し、志乃の医療判断へ従う。本人を車両にも労働力にも数えない。


影は定着しない。


榊へ。


名前欄は空白。治療は継続。管理名は拒否。生命維持線だけが残る患者。


門は一つの役目へまとめられない。


弱い者は、律の代わりではなかった。


それぞれ別の人間として、別の場所で支えられている。


黒い糸が律の腰から胸へ上がるのを止めた。


門の眼が細くなる。


「代替不能」


律は息を吐いた。


助かったとは思わない。


自分が門へ入らなくても、ほかの人々は自分の関係によって錨を拒めた。


一人の犠牲だけが道ではないことを、現実が先に示した。


その直後、粘土穴の底で音がした。


砕けた境界執行体が、最後の緑骨を自分の胸から引き抜いた。


骨は槍のように伸び、地面を通らず、門の向こうから律の背後へ現れた。


大橋が警告するより早い。


緑骨は律を狙わなかった。


佐和の胸を貫こうとしていた。


律が身体を投げ出す。


足の感覚はない。


倒れ込むように佐和を押し、代わりに右肩で緑骨を受けた。


冷たさも痛みもなかった。


ただ、右腕の輪郭が門の向こうへ透けていく。


佐和が緑骨を掴もうとする。


律は叫んだ。


「触らないで!」


片山は佐和を律から引き離さず、緑骨の届く直線から横へ転がした。大橋は発砲しない。弾が骨を通って律の肩へ入る位置だった。


政一が灰掻きを地面へ差し込み、律の身体ではなく緑骨の下へ窯灰を盛る。灰は骨を切れない。それでも地球側に現れた長さと、門側へ透けた長さの境が見える。


消防組は長柄の木槌を二本用意した。


一本で打てば、衝撃が律へ集中する。左右から同時にも打たない。同じ力へ揃えれば、門が一つの切断行為として固定するかもしれない。


片方は骨の根元を押さえる。


もう片方は、少し離れた場所を下から持ち上げる。


目的は折ることではなく、律の肩へ掛かる向きを変えること。


「痛いか」佐和が聞く。


「分からない。右腕が、見えない」


「名前」


「水城律」


「今、何を選んだ」


「佐和さんに、骨を触らせない。僕を門へ渡すとは選んでない」


意思は残っている。


救援は、律の意識確認を続けながら進める。


これは身代わりを選んだのではない。


目の前の一撃から、佐和を押した。


その結果を、これからどうするかはまだ決めていない。


門の眼が開く。


「観測起点、直接接続」


律の右肩から、身体の半分が石門の夜へ引かれ始めた。

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