第七十話 捨てない廃材
「所有者は、警察や」
大橋が言った。
門の縁で、焼けた裏戸が一寸動く。
「ただし、俺が勝手に捨ててええ物やない」
戸は警察詰所に付いていた。建物を管理するのは警察である。
だが焼け跡には、偽命令の原本、野村の死亡記録、火災の広がり方を示す煤が残る。警察だけの所有物であっても、警察だけの都合で意味を決めてよい証拠ではない。
門の声は、同じ問いを律へ繰り返した。
「所有意思を確認せよ」
「僕には決められません」
「代表者を指定せよ」
「指定しません」
律が答えるたび、門へ入った影が脈打つ。拒否もまた、律を判断者として固定しようとしていた。
佐和が袖を引いた。
「もう返事せんでええ」
律は黙った。
門が求める問いに答えないことと、何も決めないことは違う。
大橋は自分の範囲だけを決めた。
「この戸を、警察詰所の戸として再使用せん。建物部材としての役目は終わりや」
緑円が少し広がった。
「廃棄を確認」
「違う」
大橋は続けた。
「建物へ戻さんだけや。火災物証として捨てるとは言うてへん」
門の縁が揺れる。
消防組は、延焼経路について決める。
戸の上辺に残る炭化の深さ。蝶番側より閂側が強く焼けていること。濡れ筵を掛けた跡。これらは詰所火災の調査に使う。
しかし戸全体を永久に保存する必要があるかは、消防組には決められない。
片山は野村の死亡記録について話した。
「原紙は焼けた。煤がその文字を読ませてくれるわけやない。この戸だけで記録内容を証明できるとは言わん」
証拠価値を大きく見せない。
同時に、まったく無価値とも言わない。
印刷所主人は、戸の表面を写し取る案を出した。薄紙を当てて煤の形を移せば、戸を失っても焼け方の一部は残る。
門の縁へ人は近づけない。
長い竹枠へ紙を張り、地球側に残る下半分だけへ軽く押し当てる。強く擦れば煤を壊すため、一度だけ。紙を一枚にせず、警察側、消防側、印刷所側で別々の位置を写す。
三枚は同じ戸の全体像にならない。
警察の紙には閂穴。
消防の紙には炭化した上辺。
印刷所の紙には、文字だったかもしれない黒い筋。
写し終えると、それぞれ自分の帳面へ戻す。
「物証複製を確認。原物廃棄可能」
門が告げた。
大橋は首を振る。
「写しを取ったから原物が要らん、とは決めてない」
複製は原物の代わりにならない。原物が常に複製より大事とも限らない。
どちらを残すか、今夜ここで一つへ決めない。
次に、戸の金具を調べる。
蝶番は建物側からすでに外れ、一本だけ釘が残っていた。鉄は霜を通しやすい。門の縁へ最も近い部分でもある。
保線員が長柄の釘抜きを使う。
門から十尺。手袋。金具が緑に光ったら道具を捨てる。釘一本が抜けなければ二度目はしない。
最初の力で、釘は抜けた。
蝶番が戸から落ち、地球側へ転がる。
緑円は金具を追わない。
門が掴んでいるのは物質の全体ではなく、人間が〈一枚の戸〉としてまとめた履歴らしい。
「板をばらしたら、逃げるかもしれん」消防組の男が言った。
「証拠を壊して逃げることにもなる」佐和が返す。
戸には火災前から縦の割れ目がある。そこへ力を加えれば、三枚の板へ戻せる。
解体することは、破壊と同じではない。だが危機を理由に行えば、結果として証拠の形を変える。
大橋、消防組、町会の三者が、各自の範囲で意見を出した。
警察は、戸の全形を残したい。
消防は、門が町へ広がる危険を優先し、既存の割れ目で分けることを認める。
町会は、危険が去った後に保存か廃材化かを改めて決めたい。
一致しない。
多数決にしなかった。
今できるのは、門へ最も近い一枚だけを、元からある割れ目で外すことだった。残り二枚はつないだまま。外した板も捨てず、元の位置と向きを記す。
長い綱を、地球側の板へ一周だけ掛ける。
誰か一人が引かない。警察、消防、町会が別々の角度から張る。
合図を統一しない。
大橋は門との距離を見る。
消防組は板の割れを見る。
町会は人が危険線を越えていないか見る。
三者がそれぞれ続けられると答えたときだけ、一尺引く。
一度目。
戸が軋む。
二度目。
古い割れ目から黒い粉が落ちる。
三度目の前に、消防組が止めた。
「霜が綱へ来た」
全員が手を離す。
麻縄の先が凍り、門の内側へ切り取られた。
誰も倒れなかった。
板はまだつながっている。
失敗として記す。
次は引かない。
政一が窯場の灰掻きを持ってきた。押すのでも引くのでもなく、既存の割れ目へ木楔を一つ落とす。門の縁から離れた上端だけを、自重で開かせる。
楔は誰かの所有意思を伝えない。ただ木と木の間へ入る。
戸の重みで、割れ目がゆっくり広がった。
一枚目が外れる。
門へ入っていた影が三つに裂けた。
外れた板は地球側へ倒れる。残る二枚は門前。影だけが石門の奥に浮かぶ。
「物品分割。所有意思を再確認」
門はまだ諦めない。
だが、何について答えれば完全な廃棄になるのか、自分でも一つに決められなくなっている。
外れた板は消防が炭化資料として一時的に見る。
蝶番は警察が火災物品として見る。
残る二枚は危険が去るまで誰も用途を決めない。
元の一枚の戸は、もう存在しない。
捨てたのではない。
異なる責任の間へ戻した。
石門の中で、三つの影が別方向へ引かれる。
一つは警察詰所。
一つは野村が死んだ駅。
一つは律の足元。
門は三つを同じ錨へ戻そうとした。
しかし警察詰所の影には、もう建物の戸という役目がない。駅の影には、戸が野村の死そのものを証明しないという記録がある。律の影には、本人が廃棄を決めていない。
緑円が細かく震えた。
「所有主体、不成立」
門の縁が、一度だけ内側へ縮む。
傷病者へ伸びていた黒影が薄くなった。
機関士の戸板が前へ動く。榊を載せた戸板も、井戸のそばへ到着した。
志乃は搬送を止めず、その場で榊の脈を測る。
八回。
さらに落ちている。
失声と仮名喪失も続く。影が薄くなったからといって治ってはいない。
榊は応答板へ、震える木偏を一つ書いた。
その先の字は、まだ出なかった。
門前では、焼けた戸の残り二枚が急に浮いた。
所有者を決められないなら、門自身が未決定物を取り込むつもりだった。
緑円の縁が木を切る。
一枚目の先端が消える。
「引き戻すな!」大橋が叫ぶ。
引けば人のいる地球側へ門を広げる。
誰も触れない。
二枚の板は石門の中へ吸い込まれた。
それでも、外した一枚、三枚の煤写し、蝶番、各帳面が地球側へ残る。
原物の一部は失われた。
歴史全部を失ったわけではない。
大橋は、その場で〈門に奪取された〉と書かなかった。
誰が奪ったかを法的に確定できない。目に見えたのは、焼けた板二枚が緑円の縁を越えて消えたことだけだった。
警察帳には、消失前の位置、向き、門へ触れた順番を書く。
消防帳には、外した一枚と失われた二枚の炭化範囲の違いを書く。
町会帳には、原物保存か廃材化かの判断が未了のまま一部を失ったと書く。
三つの記録は、消えた時刻さえ一致しなかった。時計が二時十三分へ固定されたままだからである。警察は砂時計九回目、消防は榊が井戸へ着く直前、町会は機関士の戸板が角を曲がったあと、と別の出来事で残した。
後から一つの正確な時刻へ直さない。
外した板にも〈残存原物〉という札を直接打たなかった。札が新たな一枚物を作るため、板から離れた三帳面がそれぞれ特徴を示す。
失った物を、美しい完全な証拠だったことにもしない。
残った物を、失われた全体の代用品にもしなかった。
門は焼けた板を得た。
完全な錨は得られなかった。
緑円がさらに縮む。
その奥で、石門の影が初めて顔を上げた。
人間の顔ではない。
左右へ開く三枚の緑膜。その中央に、縦長の黒い眼がある。
眼は町を見ず、水城律だけを見た。
「所有不能を確認。観測起点を直接収容する」
律の足元から、すべての古い影が消えた。
消えたのではない。
黒い影は一つに重なり、律の身体の内側へ入った。




