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第六十九話 行き先のない搬送

患者棟と物置の間には、幅三尺の渡り廊下があった。


屋根はあるが壁はない。夜露を避けるため敷いた板が、霜で白くなっている。


志乃は廊下を壊させなかった。


患者棟から物置へ薬と湯を運ぶ道でもある。切れば榊の接続は弱まるかもしれないが、診療も止まる。


「まず、人を動かす」


産院には出産直後の母親二人、乳児三人、凍傷の元軍曹、熱傷の機関士がいる。ほかに地震で足を傷めた老人と、炭火壕から救出された春夫を診た寝台が一つ。


全員を同じ場所へ運ばない。


母子は北畑側の民家。


元軍曹は寺の庫裏。


機関士は窯場近くの水場。ただし冷却用の清潔な水を先に運ぶ。


老人は現在の部屋に残す。霜が届くまで距離があり、動かす方が骨折を悪化させる。


榊は本人へ尋ねる。


応答板には名前がない。


〈ここに残れば、廊下を通じて患者棟へ霜が進む可能性がある。移れば生命維持片がずれる可能性がある〉


榊は読み、物置の外を指した。


移る。


「どこへ」助手が聞きかけ、口を閉じた。


行き先を先に一つへ固定すれば、門へ新しい接続先を渡す。


榊には、最初の区間だけ説明する。


物置から裏庭の井戸まで。そこで脈と素焼き片を確認し、続けるか本人へもう一度聞く。


担架という同じ道具を使うと、前に凍結された後脚の関係を拾われるかもしれない。


戸板へ毛布を重ねる。固定帯は胸を避け、榊の右手を自由にする。四人で持たず、前を二人、後ろを一人。高さが傾き過ぎるときだけ交代する。


一つの歩調に揃えない。


「傷病者搬送を開始する」大橋が言いかけた。


志乃が首を振る。


全員の移動を一つの作戦名へまとめない。


産院は母子を移す。


寺の者は元軍曹を迎える。


駅員は機関士の水を用意する。


榊の戸板は、物置から井戸まで出る。


それぞれ違う理由と責任で動く。


律は窯場から来た。


影は足元から四方へ細く分かれ、歩くたび古い位置を残している。


「ここへ来たらあかん」志乃が言った。


「影が霜を追ってます。僕が離れても、産院へ向く枝だけ残る」


律の行き先を試したとき、〈東寺へ移す〉という言葉だけで影が寺を向いた。同じように、町中で「患者をどこへ運ぶ」と話した言葉が、影の候補地になっている。


律は自分の影を増やしただけではない。


町の移動先を、門へ見せる窓になっていた。


「僕に行き先を聞かせないでください」


耳を塞げばよいわけではない。すでに聞いた場所は消えない。


律は産院の裏庭へ留まり、これから先の受け渡し場所を教えないよう頼む。避難者は律から離れた門を使い、律の視界を横切らない。


自分を中心から外す。


しかし、全員から孤立はしない。佐和が裏庭の別の隅へ立ち、大橋は門の霜を見る。二人とも次の行き先は知らない。


最初に母子が出た。


母親は乳児を自分で抱き、看護婦が足元だけを支える。もう一人は荷車を使う。三人の乳児を一つの車へまとめない。


霜は動かなかった。


次に元軍曹。


彼は凍傷の両手を胸へ抱え、自分で歩こうとした。二歩で膝が折れる。寺の二人が左右から支える。


「わしも荷物にせんでくれ」


「歩けんことと、荷物は違う」僧が言った。「行くか止まるかは、あんたが言う」


元軍曹は進むと答えた。


影の寺へ向かう枝が濃くなる。


律は見たことだけを言う。


寺へ行くと口にしない。


大橋が影の先へ灰を撒く。黒線は灰の下を通るが、速度が落ちる。


元軍曹は産院の門を越えた。


次は機関士だった。


熱傷で意識が朦朧としている。本人に行き先を説明しても、同意を保持できるか分からない。志乃は治療上必要な移動として自分の責任で判断し、理由を助手に残す。


「本人が起きたら、勝手に運んだ理由を読めるようにする」


戸板が動き出す。


影の窯場側の枝が伸びた。


同時に、門の緑円が産院の屋根越しに大きくなる。


どの方向から見ても正面を向く円が、今度は空の半分を占める。


黒い縁から、白い霜が雨のように落ちた。


「戻すか」駅員が叫ぶ。


戻せば安全とは限らない。元の部屋にも霜が近づいている。


志乃は機関士の呼吸、戸板の安定、前方の地面を見る。


「水場まで続ける。急がん。走らん」


律の影が、機関士の戸板へ触れた。


戸板の下に、律と同じ形の黒影が現れる。


律は触れていない。


名前も呼んでいない。


〈移送される者〉という関係だけを、門が律の代替錨から傷病者へ広げた。


「共同化やない」佐和が叫んだ。「患者を律の代わりにするな!」


門は答える。


「代替錨候補、移動不能個体を優先」


逃げにくい者を選んだ。


機関士の影が門へ引かれる。戸板が後ろへ滑った。


駅員が綱を掛けようとする。


律は止めた。


「綱を結んだら、また一つの移送関係になります」


代わりに三人が、戸板そのものではなく、地面へ置いた別々の木片を足場にして前へ押す。誰か一人が引かない。戸板が一尺進むたび、後ろの木片を横へ捨てる。


影は木片へ分かれ、機関士の身体から少し薄くなる。


それでも消えない。


門は弱い者へ次々と錨を移せる。


律が自分だけ逃げても、次は榊、機関士、歩けない老人、乳児へ移る。


だからといって、律が門へ入ればよいとはならない。


監察者が用意した二択だった。


自分が錨になるか、弱い者を代わりにするか。


律は三つ目を探した。


錨をなくすのではなく、門が回収しても誰も運ばれない関係。


行き先がなく、持ち主もなく、傷病者も乗っていない移動。


窯場の方を見る。


地震後、薬、水甕、器を運んだ荷車が何台も残っている。どれも誰かの物で、用途の履歴がある。空だから無関係とは言えない。


駅の保線車も、鉄道という明確な行き先を持つ。


そのとき、春夫が一枚の戸を担いで来た。


警察詰所の火事で外れた、焼け焦げた裏戸だった。


役目を失い、家にも戻せず、薪にするか決まっていない。


表には〈警察〉の字も、立入札もない。


「これ、誰のや」律が聞く。


「詰所のもんやった。でも大橋さんは、証拠に残すか燃やすか決めてへん」


大橋も頷く。


「今は保管品にも廃材にもしてない」


完全な無関係ではない。


命令が燃えた場所の戸であり、何になるか未決定の物だった。


律は戸へ乗らなかった。


まず機関士の黒影の端へ、戸を触れさせる。


影が焼け跡へ移った。


門が告げる。


「代替錨候補、移載」


春夫が手を離す。


誰も戸を運ばない。


焼けた裏戸だけが、地面を滑り始めた。


律の影、機関士の影、榊の物置へ残っていた細い影が、一本ずつ戸の上へ集まっていく。


門が自分で、代替錨を移している。


「このまま門へ取らせたらええ」誰かが言った。


律は戸の焼け跡を見た。


中には、焼失した命令原本と野村の死亡記録に関わる煤が残っている。


誰も乗っていないから、失ってよいとは限らない。


証拠として残すか、廃材にするか、まだ決めていない物である。


門へ渡す決定も、まだ誰もしていない。


「止められる位置まで追います」律は言った。


「乗るなよ」佐和が釘を刺す。


「乗りません」


律、佐和、大橋、春夫は距離を取って、ひとりでに滑る裏戸を追う。


その間も傷病者の移動は続く。


門との戦いを理由に、患者を道へ止めない。


焼けた戸は第九口を通り過ぎ、線路の外れた側線へ向かった。


その先には、緑円が地面すれすれまで降りている。


戸の上に集まった影が、門の中へ先に入った。


板そのものは、縁の前で止まる。


向こう側の石門から、別の声がした。


今度は全員へ同じではない。


律にだけ聞こえた。


「錨に履歴あり。所有意思を確認せよ」


門は、誰か一人に裏戸を捨てると決めさせようとしていた。


裏戸を門へ渡すとも、持ち帰るとも、律は答えなかった。


決めない間にも、板上の影だけが石門の奥へ引かれていく。


焼けた木そのものは地球側へ残り、煤の匂いも消えていない。


門が欲しいのは戸ではない。


誰かが「これはもう要らない」と確定する、その判断だった。

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