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第六十八話 名前のある影

「動くで」


律は、誰かに命じられる前にそう言った。


佐和が現在地を記す。


窯場の空き地。割れた甕の北側。門から四十三間。ただし測った者によって一間の差がある。


律は右足を半歩だけ前へ出した。


足元の影は動かなかった。


身体と踵の間に、細い黒線が伸びる。もう半歩出すと、元の影から新しい影が枝分かれして右足の下へできた。


「止まって」


佐和が止め札を上げる。


律はその場に立つ。


新しい影は門へ伸び、古い影は最初の場所へ残っている。動けば逃げられるのではなく、地面へ位置を増やしていく。


後ろへ戻る。


新しい影は薄くなったが消えない。


消防組が古い影へ灰をかける。


黒い形は見えなくなった。しかし灰の表面に、同じ輪郭が浮かぶ。水を少量流すと、影は濡れた土と乾いた土の境へ移った。


「地面を掘ったら」夜番が鍬を持つ。


人のいない端で、影の先を一寸だけすくう。土は普通の重さだった。鍬を持ち上げると、黒い筋が土塊と地面の両方へ残る。


鍬の柄に霜が上った。


すぐ落とす。


影の付いた土を運び出せば、消すのではなく新しい場所へ増やす可能性が高い。


掘る試験は一回で中止した。土を穴へ戻さず、その場に置き、誰が触ったかだけ記す。


「昔、律が立った場所も全部こうなるんか」政一が窯場を見回した。


もしそうなら、地震後に歩き回った町全体が錨になる。


窯場帳には、律が窯温を測った場所、耀盌を見た棚、安達を探した倉庫が残っている。駅にも列車を止めた位置がある。


帳面を開かずに置いたまま、三か所を見に行く。


新しい影はなかった。


次に、窯場帳の一頁だけを離れた場所で読む。


〈水城律、北窯口にて温度を記す〉


北窯口へ黒い点が一つ現れた。


過去の記録があるだけでは影にならない。


誰かが今それを読み、律の位置として門と結び直すと候補になる。


「帳面を燃やすか」読み手が青ざめた。


「燃やしません」律は答えた。「過去に僕がそこにいたことは消さない。今いる場所として使わないだけです」


頁の文字を塗り潰しもしない。


帳面を閉じ、表へ〈過去位置。現在地の確認に用いず〉と窯場自身の言葉で添える。駅や警察へ同じ文を配らない。


北窯口の黒点はすぐには消えなかった。砂時計で半分ほど経つと薄くなった。


門は、人間が記録を読み直す行為からも現在の境界を作れる。


それでも過去を保存すること自体が悪いのではない。何のために今読むか、区別を失うことが危険だった。


佐和は、自分の記録へ律の現在地を書き足す手を止めた。


代わりに〈本人を目視中〉とだけ置く。帳面が後世に読まれたとき、どこに立っていたかは分からない。だが今夜、誰かが律を一人にしなかった事実は残る。


監察者は律の現在地だけを掴んでいるのではない。律が確かに立った場所を、境界の候補として残している。


「持ち上げたらどうなる」大橋が尋ねた。


律を人が担げば、本人を荷物へ変える。


まず同じ重さの土袋で試す。律の影の上へ置いても何も起きない。次に律自身が、低い窯板へ片足だけ載せる。


板の下へ影が移った。


板を政一が半尺動かすと、影は地面に残らず、板と一緒に動く。


「地面でなくてもええんか」


「僕が足場やと思った面を使ってるかもしれません」


律はすぐ両足を載せなかった。


窯板を〈移送台〉と呼べば、門がその役目を固定する可能性がある。試験用とも書かない。ただ、焼成を終えた厚い板として、二人が左右から持つ。


律が両足を載せる。


影は板の表へ集まった。


二人が別々の速さで動くと板が傾く。律は自分で降りた。


影の一部が板へ残り、一部が着地点へ増える。


完全には移せない。


しかし連続した地面から離れている間、門へ伸びる黒線は細くなった。


三つ目の試験は、律の名前だった。


名前を呼ばないよう町へ命令するのではない。小さな範囲で、呼び方が影へ影響するか確かめる。


片山が「水城律」と呼ぶ。


足元の影が濃くなった。


佐和が「窯場に立つ人」と呼ぶ。


変化なし。


大橋が「観測片」と呼んだ瞬間、影の先が一尺伸びた。


門の呼称へ近い言葉ほど強く反応する。


王仁三郎は「抄写の兄ちゃん」と呼んだ。


影は少し揺れたが、伸びない。


「本名を捨てたら弱なるんか」町内組の一人が言った。


榊が仮名を失ったばかりである。


律は首を振った。


「僕は、水城律です」


影が濃くなる。


それでも言い直さない。


「この名前で働いて、疑われて、助けてもらいました。門に使われるからいうて、僕まで自分の名を空欄にはしません」


名前を守るために門へ連れていかれる必要はない。


けれど生き残る条件として、本人の名を消すことも選ばなかった。


佐和は〈本人、本名継続を選択〉と記した。全町へ同じ呼び方を求めず、門の管理語〈観測片〉だけを律本人の呼称に使わない。


四つ目は、行き先だった。


駅員が窯場へ来て、「律を東寺へ移す」と仮に告げる。


影が寺の方角へ曲がった。


実際に移す予定はない。


次に、「行き先は未定」と言う。


影は元へ戻らず、寺の方角を残したまま新しい枝を作る。


言葉だけでも候補地を増やす。


「嘘の行き先を七つ流せば、分けられるんやないか」大橋が言う。


「寺や産院を偽の標的にします」律が答えた。


人のいる場所を囮にしない。


無人の畑や廃屋でも、そこを囮と決めれば土地の持ち主と周囲へ危険を移す。監察者がどこまで追うかも分からない。


行き先を作らない方を選ぶ。


律の移動が必要になった場合、出発地点は記録する。到着地点は、到着した場所だけが自分の帳面へ書き、全体へ送らない。途中の者は次の受け手を知らない。


人を秘密裏に消す仕組みにならないよう、律本人と佐和はいつでも引き渡しを拒否できる。各区間の開始と終了は別々に残す。


面倒で、遅く、途中で止まりやすい。


だからこそ一つの移送経路として門に読まれにくい。


窯板を二枚追加した。


同じ大きさにしない。一枚は厚く、一枚は角が欠けている。律は一枚から次へ自分で移る。板を持つ者も、次の板がどこへ置かれるか知らない。


最初の移動で、影は三つに割れた。


二度目で、古い影の一つが薄くなる。


三度目を試す前に、停止札が上がった。


佐和ではない。


板を持つ夜番だった。


「手が冷たい。板の裏から来とる」


見ると、指の触れていた場所へ霜が付いている。


門は律の影から、板を持つ人間へ境界を広げ始めていた。


すぐ板を地面へ置く。夜番の手を乾布で包み、試験を止める。


「続けたら、板を渡す全員が錨になる」片山が言った。


律は頷いた。


人の関係を分散すれば必ず安全になるわけではない。支える者を増やせば、危険を分けるのではなく感染範囲を増やすこともある。


門の影が、また全員へ同じ声を送った。


「代替錨、共同化を確認」


分散を、共同錨という一つの分類へ回収しようとしている。


王仁三郎が笑った。


「名前を付けるんが、ほんまに好きな相手やな」


声は聞こえたが、誰も〈共同錨〉を自分たちの呼び方に使わなかった。


板を持った三人は、それぞれ自分がしたことだけを言う。


板を右から支えた。


次の板を置いた。


冷たくなったので止めた。


一つの共同作業名を与えない。


門の黒線が少し揺れた。


そのとき、産院から鈴が鳴った。


緊急時だけ使う、一度鳴らして止める鈴だった。


機関士の熱傷が悪化したのではない。


第九口から延びた霜が、産院裏の物置と患者棟の間へ入り始めている。


榊を隔離した場所が、そのまま霜の道になっていた。


榊の管理名線は切れた。


生命維持線は残る。


門は本人を呼べなくなった代わりに、治療している場所を〈接続先〉として凍らせようとしていた。

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