第六十七話 七人目の折り手
榊の線が切れた瞬間、耀盌を引く力が倍になった。
三方向から灰袋を留めていた綱のうち、学校の綱が切れる。
器が半尺、緑円へ近づいた。
空殻は粘土穴の底で動きを止めていた。軍帽に残る星は一つ。耀盌と同期する星だけが、白く燃えている。
律の星は消えたように見えた。
しかし右目から門へ続く細線は残っている。
「星が消えたのに、線がある」佐和が言う。
「対象から外れたんやなく、器へまとめられたんかもしれません」
律が耀盌へ閉じた観測関係ごと、器物一個として回収する。
もしそうなら、耀盌を守れば律も残る。逆に器を門へ渡せば、天目の一部とともに律の記憶まで持っていかれる可能性がある。
「僕を理由に、器を引き留めないでください」
「お前を理由から外すな」片山が言った。「器の中にお前の何があるか分からん。それも保全判断の一つや」
律は黙った。
自分を特別扱いするなと、自分を数えるなは違う。
残った二本の綱が軋む。
消防の麻縄は凍り、表面から白い粉を落としている。窯場の滑車綱は灰袋へ食い込み、あと一度強く引かれれば袋ごと裂ける。
新しい綱を足せば、それも〈耀盌を保全する接続〉として緑線に拾われる。
大橋が器を撃つ案を出した。
割れれば回収容器ではなくなるかもしれない。
同時に、中へ閉じかけた天目がどこへ散るか分からない。弾丸が門へ抜ける可能性もある。
政一は、割るなら人の銃ではなく、窯の温度差で割る方が状態を予測できると言った。しかし準備に時間が掛かる。
王仁三郎は二つの案を聞き、耀盌ではなく律を見た。
「七つの輪は、七回折るんやったな」
「四つ目で止められました」
「一人で七つ折れとは、どこにも書いとらん」
律の記憶に残る賀茂静は、一人で紙を折っていた。
だが彼女が後世へ残した七つの輪は、藤継、白夜、薬師、船頭、定棟へ渡り、それぞれ違う選択を通っている。
折り目を作ったのは一人でも、運んだのは一人ではなかった。
「今から七人を選ぶんか」印刷所主人が眉をしかめた。
選ばれた七人を、天目の新しい管理者にしてはならない。
誰かが全体の手順を知り、残りへ命じても同じである。
そこで七人を集めなかった。
窯場、警察、駅、学校、産院、寺、印刷所。
七つの場所が、自分の記録から一枚ずつ紙を選ぶ。
窯場は、割れた器と残った水量の記録。
警察は、律の偽署名だけでは同意と扱わなかった記録。
駅は、暗号が正しくても路基確認を優先した記録。
学校は、五種類、六種類、四種類と食い違った生徒の記録。
産院は、患者を動かすか産院が決めた記録。
寺は、老僧の死を命令停止の代価に数えなかった記録。
印刷所は、都合の悪い憲兵報告も掲示した記録。
どの紙にも同じ文章はない。
七枚を一つの冊子へ綴じない。
各場所で、紙の端を一度だけ折る。折る向きも幅も、そこにいる者が決める。天目を閉じるためとは伝えるが、同じ形へ揃えない。
折った紙そのものは持ち出さない。
各場所の帳面へ戻す。
第九口へ送るのは、折った時刻と、誰が何を確かめて折ったかという別々の伝言だけだった。
「紙もなしに、どうやって耀盌へ入れる」大橋が聞く。
律は答えた。
「僕が全部を見るんやなく、届いた七つの違いを、分からんまま余白へ置きます」
完全な内容を集めない。
律が受け取るのは、七つの場所で誰かが自分の範囲を折ったという事実だけ。
それでも律の右目が再び統一観測になる危険がある。
停止条件を増やした。
伝言の中身を勝手に補ったら停止。
七人の顔が同じに見えたら停止。
自分の名前、現在地、直前の同意のどれかを答えられなければ停止。
身体が門へ一歩動けば停止。
佐和は前と同じ停止札を持った。
「また私が止めたら、今度も終わりやで」
「お願いします」
最初の伝言は窯場から来た。
〈安達、割れた皿の数を確かめ、右下を細く折った〉
律は安達の紙を想像しない。右下に一つ、見えない折り目があることだけを耀盌の余白へ置く。
器の底で、一つ目の輪が暗くなる。
警察。
〈片山、偽署名への本人異議が残る頁を、文字へ触れず折った〉
二つ目。
駅。
〈駅長、停止距離四十七間の頁。線路側へ折る〉
三つ目。
学校。
伝令は一つの答えを持ってこなかった。
「三人の生徒が、別々の頁を折りました。先生はどれを伝えるか決めてません」
律の右目に、三本の折り目が現れる。
一つへまとめようとした瞬間、痛みが走った。
「分かりません」と律は言った。「四つ目は、三つある」
耀盌の輪も、三つへ枝分かれした。
門の緑円が歪む。
回収対象の内部に、同じ位置へ重ならない余白が生まれた。
産院。
榊の治療を続けながら、志乃ではなく助手が頁を折った。志乃は判断に関わり過ぎており、手首にも白痕があるためだった。
五つ目。
寺。
老僧を看取った者と、命令停止を記録した者が別人だった。二人が同じ紙の上下を一度ずつ折り、どちらを六つ目と呼ぶか決めなかった。
耀盌の六つ目の輪が、上下へ割れる。
印刷所から最後の伝言が届く。
憲兵報告の紙は、押収されて手元にない。
掲示した事実を書いた印刷所帳を折る案と、紙がないこと自体を残して折らない案で意見が分かれた。
印刷所主人は、折らない方を選んだ。
〈七つ目の紙、なし。外部記録のため代わりを作らず〉
七人目の折り手はいなかった。
律は空白を埋めなかった。
「七つ目は、ここにはありません」
耀盌の底で、最後の輪だけが光ったまま残る。
失敗かもしれない。
門へ器がさらに一尺近づいた。
消防の麻縄が切れた。
残るのは、窯場の綱一本。
それでも律は、存在しない紙を想像しなかった。
緑円の向こうで、石門の影が両手を伸ばす。
「容器記録、不完全。欠損を補完する」
門が七つ目を勝手に書こうとした。
その瞬間、町の外から汽笛が聞こえた。
止まっていたはずの貨物列車ではない。
隣町から来た、小さな保線車だった。
運転手が封筒を一通、駅員へ投げる。
中には、憲兵が作成した押収記録の写し。
〈異なる号外複数を押収。発行主体未確認〉
こちらを疑い、邪術集団と記した外部の紙だった。
印刷所主人は原本を見ていない。
律も内容を知らなかった。
町の外で、こちらの同意なく折られた記録が一枚、戻ってきた。
七つ目の輪が消える。
耀盌の表面から、七つの輪も黄点も消えた。
器はただの曜黒の茶盌へ戻る。
緑線が、回収する容器を見失った。
窯場の綱が緩む。
耀盌は門の縁から落ち、灰の中へ沈んだ。
その内側、目にも指にも届かない折り目へ、天目の残片と七つの不一致だけが閉じ込められた。
誰もすぐ拾わなかった。
長柄の灰掻きで器の周囲を広げ、まず位置だけを三方向から確かめる。口縁の欠けなし。白銀のひび一本。底の署名なし。外から見える七つの輪と黄点はなし。
器の重さを、その場で量る道具はない。持ち上げれば再び保管関係を作るため、今夜は量らないと決めた。
窯場は灰の温度、警察は人が触れていない範囲、駅は門からの距離をそれぞれ記す。
天目が本当に内側へ閉じたか、外から証明する方法はない。
分かったのは、緑線が器を見失い、律の右目から七つの輪が消えたことだけだった。
それ以上を勝利の理由に足さない。
しかし緑の円は閉じなかった。
門の軍帽に、星が一つも残っていない。
それでも石門の影は、律を見ていた。
「現地容器、不可視化」
全員へ同じ言葉が届く。
「代替錨を選定する」
律の足元から、影だけが門へ向かって伸び始めた。
律自身は動いていない。
佐和が灯りを左右へ振る。普通なら影の向きが変わるはずだった。
地面の黒い筋は門を指したまま、光へ従わない。
大橋が靴で踏んでも感触はない。だが踏んだ箇所から冷気が上がり、革底へ薄い霜が付く。
影は見せかけだけではない。
門は耀盌を失った代わりに、律と地面の関係を新しい境界へ変えようとしていた。




