第六十六話 名を呼ぶ線
志乃は、榊の頼みをすぐ手術の同意として扱わなかった。
「どの線を外すか、分かっとる?」
榊は応答板へ書く。
〈門から胸の板へ来ている線。私の心臓を止める線まで切ってくれとは言っていない〉
「分けられへんかったら」
炭筆が止まった。
門の緑線が明滅するたび、榊の胸も浅く上下する。十四回。停止。十四回。停止。
やがて榊は続きを書いた。
〈一度だけ止まった線を戻す。それでも分けられなければ、今夜は切らない〉
死んでも外せとは書かなかった。
自分だけを犠牲にして門を閉じるとも言わない。
志乃は本人の言葉を二人に読ませた。助手と寺の僧が、それぞれ同じ内容を聞いたと答える。榊は現在地、自分が選んだ仮の名、これから行うことを説明できた。
「榊さん。途中で書けんようになったら、右手で板を二度叩けば中止。一度は痛い、三度は続けてええ。できる?」
榊は二度叩いた。
中止の動作を先に確かめる。
物置の戸を閉め切らなかった。外から見える隙間を残し、治療に関係ない者は入れない。律も入らない。天目で胸の中が見える気がしても、それは診察ではない。
緑板そのものは胸骨の裏にある。
十年前の切開痕から、髪より細い七本の緑糸が皮下へ伸びていた。志乃は以前、素焼き片を差し込んで神経脚を一時的に分けた。しかし今は門から来る光が七本すべてを同じ色に染めている。
どれが生命を支え、どれが管理名を運ぶか、色では分からない。
一度に切らない。
胸の動き。
手首の脈。
応答板へ字を書けるか。
門の線が変わるか。
四つを別々の者が見る。
一番外側の糸へ、米粒ほどの素焼き片を差し入れる。
榊の左手が動かなくなった。
心拍は十四。呼吸あり。門の線、変化なし。
榊は右手で板を二度叩く。
すぐ戻す。
左指が少しずつ曲がる。
「一本目、運動。少なくとも左手に関係」
完全な機能名ではない。戻した時刻と回復範囲だけ記す。
二本目。
榊の喉から、空気の抜ける音が消えた。呼吸は続くが、声が出ない。門の線は一瞬細くなり、また戻る。
榊は三度叩いた。
続けてよい。
志乃は素焼き片を残した。声を失うことを承諾したからといって、永久に切ったとは決めない。試験中だけ隔離する。
三本目。
心拍が止まった。
助手が数える前に、志乃は片を抜く。
一度だけ戻すという条件だった。
三秒。
五秒。
榊の胸が動かない。
助手が胸骨を押し始める。志乃は緑糸へ二度目の操作をしない。
八秒目、脈が一つ戻った。
十秒目、もう一つ。
十四ではない。九回。間隔も不揃い。
榊が右手を持ち上げ、二度叩いた。
この糸は中止。以後触れない。
四本目では、呼吸が浅くなる。すぐ二度。戻す。
五本目。
応答板の炭筆が止まった。
榊の目は開いている。右手も動く。だが〈榊〉の一字を書こうとして、最初の木偏で固まった。
門の向こうから、全員へ同じ声が来る。
「管理名照合不能」
緑線が大きく揺れた。
志乃は榊を見る。
続けるか。戻すか。
榊は板を三度叩いた。
仮名を思い出せないまま、それでも続行を選んだ。
「本人確認は」助手が不安そうに言う。
「仮名だけやない」
志乃は榊へ、ここへ来る前に何を選んだか尋ねた。
榊は文字を書けない。そこで物置の床、胸、外の門を順に指し、最後に糸を左右へ分ける仕草をした。
自分の名は出ない。
しかし目的と危険は理解している。
志乃は五本目の素焼き片を残した。
門の線が半分ほど薄くなる。
六本目へ触れたとき、榊の瞳が緑に染まった。
口から声が出た。
二本目を隔離しているため、榊自身の声帯ではない。胸板が肋骨を鳴らしている。
「現地管理名、田——」
榊の右手が、応答板を二度叩いた。
志乃は六本目を戻す。
盗まれた名は、最後まで発音されなかった。
七本目。
何も起きない。
脈九。呼吸浅い。右手は動く。線も変わらない。
三十数えても同じ。
役目がないとは限らない。まだ使われていない機能か、ほかの糸が切れたときだけ働く予備かもしれない。
触ったままにはしない。元へ戻す。
結果として、二本目と五本目だけが隔離された。
声を門へ渡す線。
管理名を照合する線。
そう推定できるが、紙には〈声喪失と線減弱を確認〉、〈仮名再生不能と管理名照合不能の発声を確認〉としか書かない。
緑線は完全には消えなかった。
榊の心臓を支える糸が残っているためだろう。門は生命維持まで回収経路に使っている。
「残りも切るか」志乃が聞いた。
榊は二度叩いた。
今夜は切らない。
最初に決めた条件どおりだった。
門の軍帽で、榊と同期していた星が消えかけ、細い輪郭だけになる。
榊の緑線はまだある。だが門へ身体を引く強さは失い、物置の壁の手前で揺れていた。
榊は応答板へ炭筆を走らせた。
木偏を書く。
その先が出ない。
彼は自分で選んだ〈榊〉という仮名を思い出せなかった。
志乃は答えを教えなかった。
紙へ大きく名を書いて見せれば、五本目を別の経路でつなぎ直すことになるかもしれない。
代わりに尋ねる。
「今、呼ばれたい名前が要る?」
榊はしばらく考え、首を横へ振った。
名前なしで治療を受ける。
名札がなくても、脈九、胸内緑板あり、声を失った一人の患者として扱える。
「ほな、今は名前を書かへん」
助手は診察帳の姓名欄を空けた。
空欄の隣に、治療を止めない理由だけを書く。
〈本人の選択により仮名を一時使用せず。診療継続〉
門の影が、その空欄を埋めようとした。
物置の壁に、緑色の三文字が浮かぶ。
田正雄。
榊はそれを見た。
思い出した様子はない。
右手で炭筆を持ち、三文字の上へ一本ずつ横線を引いた。
自分の名が分からなくても、盗まれた名を拒むことはできた。
三本目の緑線が、物置の手前で切れた。
軍帽の二つ目の星が消えた。
線が切れても、榊の容体は良くならなかった。
脈は九。二本目を隔離したため声は出ない。五本目を隔離したため、自分で選んだ仮名を思い出せない。左手は動くようになったが、指先に力が入らない。
志乃は成功と書かなかった。
〈門との管理名照合線、遮断した可能性。患者、徐脈・失声・仮名再生不能。生命維持線残存〉
門を弱めたことと、患者を治したことは別だった。
二本目と五本目の素焼き片は、体内へ残したまま固定できない。ずれれば心臓脚へ触れる危険がある。助手が布帯で胸を押さえ、榊自身にもずれた感覚があれば板を一度叩くよう伝える。
一度は痛み。
二度は中止。
三度は意思確認。
同じ叩き方に複数の意味を持たせないため、手術後は合図を一つに減らした。
二度だけが、すぐ人を呼ぶ合図になった。
凍傷の元軍曹を診ていた看護婦が、物置へ温めた布を持ってくる。熱傷の機関士には冷却が必要で、榊には保温が必要だった。同じ夜の負傷者でも処置は反対である。
志乃は湯たんぽを胸板へ直接当てさせなかった。緑板が熱をどう使うか分からない。足元と脇だけを温め、五分ごとに皮膚の色を見る。
空貨車で結果を聞いた碧が、見張りへ腕を差し出した。
「私の線も切って」
白化は肘を越えたまま止まっている。指先の感覚はない。
春夫は、すぐ志乃を呼びに行こうとした。
片山が止める。
「榊と同じ身体やいう証拠はない」
碧には胸内緑板がない。少なくとも人間の診察で確認できる切開痕はない。位置核がどこにあるか、碧自身も知らない。榊の七本をそのまま当てはめれば、切る場所を探すために身体を傷つけることになる。
「でも、同じ現地個体です」
「似た構造かもしれん。せやけど榊は人間の身体へ板を入れられた。お前は、その身体ごと作られた可能性がある」
助けないという意味ではない。
同じ方法を使わないという判断だった。
碧には、視線を遮る筵、三方向の位置見証、腕の炭線、空貨車から自分で出られる道を維持する。白化が次の線を越える、意識が乱れる、門の声を自分の声と思い始める。そのどれかで再検討する。
「榊だけ助けて、私を後にするん?」
「榊は治ったんやない」春夫が言った。「声も名前もなくして、やっと線一本や。あんたには、あんたの止め方を探す」
碧は腕を下ろした。
納得したとは言わない。
〈異議あり。同一手順を希望〉と自分の紙へ書き、見張りに渡した。
保護される者にも、処置の違いへ異議を残す権利があった。




