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第六十五話 天目を閉じる

律はすぐに、自分の右目へ手を掛けなかった。


見えなくなれば門が閉じる、と決まったわけではない。


天目を捨てれば全員が助かる、と考えた瞬間、一人の犠牲で町を救う同じ形へ戻る。


まず、七つの輪が何を示しているか話した。


応永の暦。


賀茂静。


〈次に読む者のために閉じよ〉という声。


佐和は〈過去記憶と思われる像〉と書く。


「門の命令と違う証拠は」片山が尋ねた。


「ありません。僕が前にも見た記憶と同じ、というだけです」


「ほな、その声にも従うな」


「はい」


律は、天目で見えた手順をそのまま実行せず、現実に何が残っているか確かめた。


耀盌の底には署名がない。


釉に白銀のひびが一本。口縁に欠けなし。箱から出したとき、王仁三郎、佐和、片山が状態を記録している。


器の水面へ七つの輪が現れたことも、複数の者が別の時刻に見た。律だけの記憶ではない。


天目の像は、右目と耀盌の間を何度も往復していた。


窯場には、ほかにも署名のない盌がある。


新しい器へ移せば、緑線から離せるのではないかという案が出た。


政一は、棚から形の似たものを三つ持ってきた。どれも底に銘はない。だが一つは地震後に焼いた試作品、一つは釉が流れて売り物にならなかったもの、もう一つは安達が水量を見るため使っていた器だった。


同じ無署名でも、経てきた用途は違う。


律が近づいても七つの輪は出ない。緑線も動かない。


「都合のええ空っぽの器はないいうことやな」政一が言った。


現在の耀盌には、賀茂静の折り目、箱の輸送、二器共鳴、用途別保全という履歴が重なっている。新しい器なら安全だと仮定して移せば、何を一緒に移したか確かめられない。


天目を閉じる先は、すでに関係があり、物理状態と扱い方が複数の帳面に残る現在の耀盌に限った。


それでも器を律の所有物にはしない。


「閉じるいうのは、何をする」王仁三郎が尋ねた。


「僕の目にある観測の入口を、器の余白へ戻す。たぶん」


「たぶん、で目を賭けるんか」


「目だけで済むかも分かりません」


律は危険を隠さなかった。


天目を失う。賀茂静の記憶を失う。自分の記憶まで器へ移る。緑線が逆流し、門へ身体ごと引かれる。耀盌の管理権を復活させる。


起こり得る害を四つ挙げる。


成功の条件も決めた。


律への緑線が消える。


右目の像が止まる。


耀盌の〈所有者なし/用途別保全〉が変わらない。


榊と碧に新しい傷害が出ない。


どれか一つが崩れたら中止する。


「途中で中止できるんか」大橋が聞く。


「分かりません」


中止できない可能性がある手順を、可撤回とは呼べない。


そこで、一度に天目全体を移さない。


律が見ている門の像から、もっとも小さい一部分だけを耀盌へ返す。遠い黄色い光。人影や石門ではなく、光点一つ。


佐和が律の瞳を見る。片山は門の線。窯場側は耀盌の表示。産院は榊、空貨車は碧。


五か所のうち一つでも止め札が上がれば、律は右目を閉じ、七つの輪を追わない。


律は、緑線を逆にたどった。


抵抗があった。


門は律を向こうへ引く。律は身体を動かさず、見えている黄色い光だけを線へ押し返す。


右目の奥で、紙を折る音がした。


一折り。


耀盌の底に、小さな黄点が灯る。


佐和が律の瞳を確認する。


「黄いろい光、消えた」


耀盌側の記録係が返す。


「底に黄点。文字、変化なし」


榊の脈、十四。碧の白化、炭線を越えず。


停止条件なし。


律自身の状態も調べる。


名前、水城律。


いる場所、亀岡の窯場。


直前に選んだこと、黄色い光だけを器へ戻す小規模試験。


三つは答えられた。


佐和が、応永の雨の橋で見たものを尋ねる。


「白い狐と、石欄と……」


律は、その先で止まった。


石欄に七つの輪があったことは覚えている。だが雨の色が思い出せない。夜だったのか、朝だったのか。以前は記憶ではないほど鮮明に見えた景色が、古い他人の話へ戻っていた。


「一部、失ったかもしれません」


佐和は〈色と時刻を再生できず。元から不確実だった可能性あり〉と記す。


天目の切り離しは、痛みのない整理ではない。


賀茂静の像を器へ閉じるたび、律が彼女を思い出せなくなる可能性がある。前世を失うことと今の人格を失うことの境も、誰にも分からない。


志乃は離れた物置から、律の意識確認を次の停止条件へ加えるよう伝えた。


自分の名、現在地、直前の同意。この三つのうち一つでも答えられなければ、本人が続けると言っても手順を止める。


律は同意した。


同時に、ほかの仕事は止めなかった。


機関士は産院で熱傷部を冷やし、元軍曹は凍傷の指を乾布で包まれている。学校は北畑へ移せる児童を二組に分け、寺は歩けない老人の荷車を用意する。天目の処置だけを町全体の中心にはしない。


一回で終える。


成功したから全部を続ける、とはしない。


律は右目を閉じた。


門の像から黄色い太陽だけが消えている。黒い平原と石門は残った。


観測の一部を器へ移せる可能性が確認された。


同時に、耀盌へ門の座標を入れた可能性もある。


「やるなら、次は何を移す」片山が問う。


律は考えた。


人影を移せば、監察者の像まで器へ保存するかもしれない。石門なら、帰還経路を強くするかもしれない。


移すべきなのは門の中身ではない。


自分が門を見ているという関係そのものだった。


七つの輪は、未来を器へ書き込む印ではない。紙の内容と、読む者の関係を折り目へ隠す手順だった。


「天目を、器の所有物にはしない」律は言った。「僕の所有物にもせえへん。次に見つけた人が、見たことを命令にできへんよう、見える条件と疑う手順を一緒に閉じる」


印刷所主人が首を振る。


「今から手順書を一つ作ったら、また同じ文章や」


「作りません」


窯場は器の物理状態を残す。


警察は強制提出と偽署名の経路を残す。


駅は第四六九号箱と輸送記録を残す。


学校は号外の版違いを残す。


産院は予見でなく患者状態を基準にした判断を残す。


どの記録にも、天目の完全な使い方は書かない。


しかし後の誰かが集めれば、見えた未来を一人で命令に変えてはならない理由が分かる。


天目と一緒に閉じるのは、万能の説明ではない。


疑い直すための、食い違った入口だった。


午前二時十三分から、砂時計で七分余り。


門の緑円が厚みを持ち始めた。


先ほど通した素焼き片を、もう一度近づける。今度は紐が円の縁で引かれた。


すぐ戻す。


片の先端が消えている。


割れた面は冷たく、滑らかだった。像だけだった門が、物を切断する境界へ変わり始めている。


時間は多くない。


律は二度目の手順へ同意した。


今回は、自分が門を見ている関係の半分まで。右目の痛みが強くなる、名前を思い出せない、身体が一歩でも動く、耀盌の表示が変わる。そのどれかで周囲が止める。


緑線へ、七つの輪を重ねる。


一折り。


雨の橋が耀盌へ沈む。


二折り。


白い狐の尾が消える。


三折り。


賀茂静が振り返る。


律は彼女の顔を、初めてはっきり見た。


似ていなかった。


自分の前世だから同じ顔をしている、という分かりやすい証拠はない。


ただ、怖がりながら何を残すか選んでいる目だけを知っていた。


四折り目で、律の身体が前へ傾いた。


佐和が停止札を上げる。


「止めて!」


律は右目を閉じた。


身体は元の位置へ戻る。


耀盌の表示は変わらない。榊の脈も、碧の炭線も変化なし。


律の緑線だけが、細くなっていた。


「全部移せてへん」律が言う。


「全部やる約束やない」佐和は停止札を下ろさない。「身体が動いた。ここで終わり」


門の影が、石門の前から一歩近づいた。


今度は全員が、同じ言葉を聞いた。


「観測片分離を検出。現地容器を回収する」


同じ言葉で聞こえたこと自体が、危険だった。


耀盌へ伸びる緑線が二本に増えた。


灰の袋ごと、器が門へ引かれる。


窯場と消防の綱が張った。人が直接器を掴まず、灰袋を三方向から留める。


律への線は細いまま残る。


榊への線も消えていない。


それでも三つ星のうち、律と同期していた星が明滅を始めた。


天目は、律一人の目から離れかけている。


物置の榊が、応答板へ新しい文を書いた。


〈次は、私の線を外してくれ〉

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