第六十四話 門の向こうを信じない
最初に聞こえた言葉から、すでに一致していなかった。
律には〈第三観測片〉。
佐和には〈第三観測器〉。
大橋には〈第三種危険物〉。
少し離れた窯場の政一は、声そのものを聞いていない。門の影が口を動かしたように見えただけだと言う。
「誰の記録を正しいことにする」大橋が尋ねた。
「決めません」佐和は三つを別々に書いた。「同じ声を聞いたことにもせえへん」
門の向こうの存在は、日本語で話しているのではない。
受け手の記憶にある言葉を使い、命令へ近い意味を組み立てている。警察官には危険物、律には観測片。相手が理解しやすく、従いやすい呼び方を選んでいた。
門が本物の穴かどうかも分からない。
見えているから通れるとは限らない。黒い大地が冥王星だという証拠もない。
律たちは、門を閉じる前に三つだけ確かめることにした。
見る位置で形が変わるか。
物が向こうへ通るか。
向こうから空気や熱が来ているか。
どれも人を近づけず、一度で止める。
窯場、線路側、産院へ向かう角の三か所から、別々の者が門の輪郭を描く。描き終わるまで互いの紙を見せない。
普通の円を斜めから見れば、細い楕円になる。
三枚の紙に描かれた門は、どれも正面を向いた円だった。
背景は違う。
律の紙には氷の平原と遠い黄光。佐和は黒い面と門の影だけ。大橋は何も描かず、円の内側も外と同じ夜空だったと記した。
一つの空間を三方向から見ている形ではない。
門は見る者ごとに、違う像を重ねている。
次に、麻紐を結んだ小さな素焼き片を振り子のように通す。片には名も用途も書かない。重さと表面温度だけ、離れた場所で測っておく。
素焼き片は緑の円へ入り、向こうの氷原へ消えたように見えた。
紐を引く。
抵抗なく戻った。
重さは同じ。温度も、誤差の範囲で変わらない。表面に氷も土も付いていない。
ただし律には、片が一瞬だけ石門の足元へ落ちたように見えた。佐和には、円を通らず夜空を横切った。
像は物の動きに合わせて作られる。
まだ物質を通す穴ではない可能性が高い。
最後は空気と熱だった。
門の前後へ、煙の少ない線香を一本ずつ置く。火を〈熱源〉として執行体に拾われないよう、門から十間離し、煙だけを長い竹筒で送る。
煙は緑円へ吸い込まれない。
向こうから吹き出す風もない。
寒暖計は、門の前と後ろで一度の差。だが粘土穴そのものが冷えているため、門の効果とは断定できない。
「今は、見せる門や」片山が言う。
「今は、です」律は付け加えた。
三本の緑線は、像ではなかった。
耀盌へ伸びた線は、窯灰をすり抜けて器を少しずつ持ち上げている。榊へ向かう線が明滅するたび、物置の素焼き片も光る。律の線は右目を閉じても消えず、瞼の裏へ門を映した。
門はまだ通路ではない。
三本の線で、通路になる条件を集めている。
「線を切る」大橋が拳銃を向けた。
緑線へ弾を撃っても、背後の人や器物へ届くだけかもしれない。
撃つ前に、物を一つ置く。
耀盌の線へ、用途を書いていない瓦片を長い竿で差し入れた。線は瓦を通過する。
警察の押収札を付けた木箱を近づけると、線が箱の表面へ一瞬沿った。
〈保管〉という役目を拾い、耀盌の代わりにできるか探したらしい。しかし木箱が空だと分かると、また器へ戻る。
「物で遮る線やない」佐和が言う。「関係をたどってる」
耀盌には保全関係。
榊には生命維持接続。
律には観測関係。
三本は同じ緑色でも、運んでいるものが違う。
一つの方法で全部を切ろうとすれば、誰かの命まで切る。
榊へ向かう線は、物置の壁を透かして見えなかった。
律にだけ、壁の向こうまで続いているように見える。そこで律の像を証拠にせず、志乃たちが室内で起きている変化を調べた。
応答板を榊の右から左へ移す。緑線の明滅に変化なし。
担架へ付けた位置の素焼き片を半尺動かす。脈が一度乱れたが、門の拍動は変わらない。
衣服の片へ乾いた布を重ねても同じ。
榊の胸内に残る緑板だけが、門の光と同時に冷たくなる。皮膚へ直接触れず、胸の左右に置いた寒暖計で差を測ると、板のある側だけ三度低かった。
「線は私やなく、板を呼んどるんか」榊が板へ書いた。
志乃は、そう断定しなかった。
緑板は十年にわたり榊の神経と心臓へ接続されている。装置だけを呼んでいても、引き抜かれれば本人が死ぬ可能性がある。
門から届く声も、榊には別の言葉だった。
〈現地管理名、帰任せよ〉
「何という名を呼ばれた」
榊は炭筆を止めた。
〈書かない。あの名を、また線へ渡したくない〉
志乃は強要しなかった。すでに門衛が盗用していた名だろうと推測できても、本人が口にしない選択を記録するだけにする。
榊は〈帰任〉にも答えなかった。
管理者として戻る意思がないことは、以前の証言で十分だった。同じ拒否を何度も言わせれば、そのたび本人へ盗まれた役目を思い出させる。
緑線の先が胸板なら、次に切るべきは姓名ではない。
板と生命の接続を、一本ずつ分ける必要がある。
午前二時十六分と記された。
三つの時計は二時十三分で止まっているため、印刷所の砂時計を使った。落ち始めた時刻の正確さは保証できない。〈三時計固定から砂三分〉と添える。
門の影が再び口を動かした。
律には、はっきり聞こえた。
「観測片は所有位置へ帰還せよ」
「所有者は誰ですか」
佐和が振り向いた。
律は命令に返事をしたのではない。意味を確認する質問を出した。
影は答えない。
「帰還先は、どこですか」
答えない。
「僕の身体を運ぶんですか。見えているものだけですか。器も一緒ですか」
緑線が強くなる。
質問に答えず、従った場合だけ結果を示そうとする。
「説明がないので、同意しません」
門の影が初めて動いた。
上げていた手を、律へ向ける。
「残留を選択するか」
はいと答えれば、選択したことになる。いいえなら、帰還へ同意したと扱われるかもしれない。
律は二択を受け取らなかった。
「誰を、どの状態へ残す質問か説明してください」
影の輪郭が崩れた。
遠い黄色い光が一度、赤く瞬く。
その間に、粘土穴の執行体が動き出した。
下半身を失った空殻が、両腕で灰を掻く。耀盌へ近づくたび、器が宙へ浮く高さも増す。
消防組は水を使わず、長柄の木鍬で灰を横から崩した。人が近づく前に、窯場の滑車綱を器の周囲へ投げる。
器を縛るのではない。
灰ごと包み、空殻との間へ厚い袋を作る。
緑線は灰を通る。執行体の腕は通れない。
一時的に、器へ届く速さだけが落ちた。
榊の物置から伝令が来た。
「脈が、線の明滅と同じになってます。十四、止まる、十四、止まる」
緑線が生命を運んでいるのではない。
遠い門の拍動へ、榊の心臓を合わせ始めている。
志乃は接点を切らず、榊の胸の動き、応答板、脈を別々に測る。線を止めるために心拍まで止めてはならない。
空貨車では、碧の白化がまた肘を越えた。
門を直接見ていないのに進んでいる。
「私も対象なんか」
碧自身の声が震えた。
緑線は見えない。
対象でないとは言い切れない。執行体の空殻が、もともと碧と同じ現地個体の構造を使っているため、損傷が位置核へ返っている可能性もある。
春夫は碧の腕へ新しい炭線を引き、時刻の代わりに砂時計の回数を書く。
「助ける。でも、あんたが門のこと全部知っとることにはせえへん」
碧は頷いた。
律の右目に、七つの輪が浮かんだ。
門の像ではない。
耀盌の底に以前からあった、雨染みに似た輪だった。
応永の古い暦。白い狐。紙を折る少女の指。
賀茂静の声が、未来の枝ではなく、すでに残された記憶として聞こえる。
――次に読む者のために、閉じよ。
開いた門を閉じろという命令ではない。
天目そのものを、誰か一人の目から閉じるための手順だった。




