第六十二話 三つの時計
午前一時三十分。
駅の時計では、そうだった。
寺は一時二十八分。志乃の腕時計は一時三十一分。
耀盌の底に浮かんだ二時十三分は変わらない。
残り四十三分、四十五分、四十二分。
どれを採るか決めないまま、三つの仕事を分けた。
榊の生命を保つ。
町の退路を残す。
耀盌と執行体の接続を切る。
「全部を分かっとる者はおらん」片山が言った。「せやから、全体の指揮官も置かん。ただし互いの危険だけは伝える」
産院は榊を受け持つ。駅と消防、町内組は道を受け持つ。耀盌の周りは警察、窯場、印刷所が見る。
律は、どの組の責任者にもならなかった。
右目を狙われている。しかも二時十三分の枝を見られる可能性がある。それは役に立つかもしれないが、一人の見た未来を全員の命令へ変える危険もあった。
「見えたら、まず佐和さんへ話します。佐和さんは、僕の言葉と自分が見たものを分けて書く」
「私は正しいか決めへんで」
「それでお願いします」
榊は産院へ入れなかった。
建物には妊婦、乳児、凍傷者がいる。緑板の接続が新しい標本線になる可能性を否定できない。
志乃は産院裏の物置を空けさせた。壁一枚を隔てて診察できるが、患者の動線とは重ならない。榊本人へ理由を説明し、入院棟と物置のどちらを選ぶか尋ねる。
「物置でええ」榊は言った。「ただ、病人を遠ざけた理由を、私が危険人物やからと書くな」
「接続の危険が未確認やから、と書く」
「それで頼む」
担架、衣服、志乃の手首へ分けた三枚の素焼き片は、榊が第九口から離れても淡く光っていた。
志乃の脈が、榊と同じ十六回へ落ち始める。
「先生の方が持たへん」助手が言う。
志乃は自分の手首から片を剥がそうとしなかった。剥がせば榊の心臓が止まるかもしれない。
榊が右手を上げる。
「私のために、その人を床へ縫いつけるな」
一枚ずつ役目を調べた。
担架へ付けた片を少し浮かせると、榊の胸板の緑光が弱くなる。衣服の片では変化なし。志乃の手首の片を素焼きの皿へ移そうとすると、榊の脈が乱れた。
片山なら、ここで〈生命維持〉と一つの名前を付けただろう。だが地下の装置は、人間が与えた役目を道にする。
志乃は三枚を、もっと狭い働きへ分けて考えた。
担架の片は、身体の位置。
衣服の片は、胸の動き。
手首の片は、榊がまだ人と応答していること。
三つ目に必要なのが志乃という人間なのか、それとも応答の確認なのかは分からない。
榊の右手へ小さな板と炭筆を置いた。
〈聞こえる〉
自分で書く。
志乃は手首の素焼き片を、板の端へ一瞬だけ触れさせた。
榊の脈は十六のまま。
緑光が、志乃の皮膚から板へ移った。
「もう一度はしない」志乃が言う。「今回は移った。次も同じとは限らん」
板は榊の所有物とも、命令札とも呼ばない。本人が応答を示すために選んだ道具として、使用開始時刻だけを書く。
志乃の脈は二十四へ戻った。手首には白い輪が残り、指先が震えている。
榊の生命は、まだ三つの接点に支えられている。
しかし一人の医師を接続部品にする状態からは外れた。
町の退路でも、似たことが起きていた。
霜は西橋へ向かう荷車道を見つけ、道の両端を白く縁取った。商人が測った幅が、消防帳へ〈避難路〉として転記された直後である。
「書いたから狙われたんか」商人が青ざめた。
「書かなければ橋で荷車が詰まったかもしれません」律は答えた。「記録したことだけを悪いと決めないで」
避難路という共通名は使わない。
学校は〈北畑へ出る道〉、産院は〈二台目の荷車が通れる幅〉、寺は〈歩けない者を西へ運ぶ場合の橋〉と、それぞれ用途を限定した。
同じ道を使う可能性はある。だが全員が同時に押し寄せる一本の避難路にはしない。
執行体の足元から延びた霜が三つに分かれ、どれを固定するか迷う。
午前一時四十分。
空貨車の碧は、自分の左腕へ炭で線を引いた。白くなった範囲を十分ごとに記すためだった。
線は肘まで近づいている。
「移送が始まったら、お前も持っていかれるんか」春夫が尋ねた。
「分からへん」
「またそれか」
「分からんのに、安心させるため嘘ついた方がええ?」
春夫は黙った。
碧が知っているのは、現地個体の教育段階で見せられた移送手順だけだった。
送る場所。
送られる対象。
内と外を分ける基準。
三つが同時に固定されると、境界外移送が始まる。
「三緑星は、その三つか」片山が軍帽を見る。
「そうかもしれん。でも教本には帽子なんかなかった」
「推測やな」
「はい」
碧は執行体を見続けなかった。位置核が反応するからである。春夫が筵を立て、入口を直接見えないようにした。
保護することと、碧から情報を取ることが衝突した。
片山は質問を一つに絞る。
「対象を一人ずつ送ることはできるか」
「教本では、同じ事故に関係すると分類された物をまとめて回収する」
律、榊、耀盌。
三者が〈第九口汚染〉という一件にまとめられれば、同じ対象になる。
そこで三人を無関係だと偽ることはしなかった。
榊は十年接続されていた。律は耀盌を使った。器は現在も執行体の胸にある。
関係はある。
ただし、同じ理由で移送される物ではない。
榊は治療中の本人。律は観測被害を受けた証人。耀盌は用途別に保全された器物。
三つを一件の荷物として扱わないことを、それぞれの場所で記す。
印刷所は総括しない。
午前一時四十七分。
律の右目に、最初の枝が見えた。
第九口の上へ緑の輪が開く。
耀盌だけが消える。
次の枝では、榊の物置が空になり、板と炭筆だけが床へ落ちている。
三つ目では、町の人々は残っていた。律だけがどこにもいない。
四つ目では何も起こらず、二時十四分の時計が動いている。
未来ではない。
現在の条件から伸びた、起こり得る痕跡だ。
律は順番も省かず佐和へ話した。
「どれが強く見えた?」
「分かりません。三つ目だけ音がなかった。でも、それが起こりやすい意味か、僕が怖がっているだけか分からない」
佐和は〈律のみ不在の像、無音。確率不明〉と書いた。
大橋は、その記録を避難命令へ使わなかった。
片山も、律を拘束しなかった。
「逃げたいか」片山が聞く。
「逃げたいです」
「どこへ」
律は答えられない。
町の外へ出れば安全か、天目には見えない。むしろ律自身が移送対象なら、人の多い避難先へ危険を運ぶ。
「僕を一人で決めさせないでください。でも、僕を荷物として決めないでください」
片山は頷いた。
律は第九口から三十間、榊の物置から二十間離れた、窯場の空き地へ移ることを選んだ。周囲に線路も標柱もなく、割れた器が積まれている。
佐和と大橋が同行する。ただし三人は同じ位置へ固まらない。
動いた理由、選んだ本人、反対意見を別々に残した。
王仁三郎は窯の陰に座り、割れた茶盌の縁を布で拭いていた。
この騒ぎが始まってから、彼は一度も二時十三分の意味を説かなかった。門が開くとも、開かないとも言わない。
「先生には、何か見えへんのですか」佐和が尋ねた。
「見えたいうたら、あんたらは信じるんか」
「疑います」
「ほな、それでええ」
彼は欠けた茶盌を裏返した。
「言い当てることより、外れたあと戻れる方が難しい。律、お前さんが見た四本の道を、一本の神託に仕立てるな。けど、怖いいうた自分の声まで嘘にするな」
律は頷いた。
自分が消える枝を見た。そのため逃げたい。
恐怖は判断の理由の一つだが、未来の証明ではない。
佐和は、その区別も先ほどの記録へ追記した。
午前一時五十二分。
執行体の軍帽で、三つの星が順に光った。
一つ目は、胸の耀盌と同時に。
二つ目は、榊の素焼き片と同時に。
三つ目は、律の右目と同時に。
送る場所、対象、境界ではない。
三つの星は、三つの移送対象を別々に掴み始めていた。




