第六十一話 町には同じ火がない
境界執行体の指が、耀盌の縁へ凍りついた。
器の表面に文字が浮かぶ。
〈所有者なし〉
続いて、少し間を置いて二行目。
〈用途別保全 継続中〉
人間が決めた保全の意味は、耀盌を地下へ置いたくらいでは消えなかった。
執行体が器を持ち上げる。
腕の緑骨が軋み、顔の亀裂が首まで伸びた。それでも手を離さない。
「標準位置ヘ返還」
同じ文句を繰り返しながら、階段へ向かう。
榊を載せた担架は半分まで上がっていた。
先頭を持つ消防組の足元へ霜が届く。地下の石段が一段ずつ白くなった。
「走るな!」志乃が叫ぶ。「落としたら終わりや」
四人は速度を揃えなかった。
前の二人は一段上がる。後ろの二人は止まり、担架を水平にする。それから後ろが上がる。
訓練された搬送ではない。歩幅も腕力も違う。執行体にとっては一つの運搬動作として固定しにくいらしく、霜は担架の脚へ触れては外れた。
榊の右手が、また床を叩こうとした。
空を打つ。
志乃が手を取らず、声だけ掛けた。
「言えるか」
「……止めるな」
本人の選択を確認して、運び続ける。
入口の外では、蒸気機関車がゆっくり側線へ入ってきた。
駅長が本線運行と切り離した保線用機関車だった。機関士は汽笛を鳴らさない。吹き出し管を入口へ向ける案は拒否していた。
高温の蒸気を人のいる地下へ送れば、執行体より先に榊たちが火傷する。
機関車が温めるのは、外したレールと砂だけだ。
窯場から来た荷車は、まだ赤い窯灰を別々の穴へ落とす。消防組は火を一列に並べず、入口の周囲へ大小の炭火を置いた。寺は護摩木、学校は薪、商人は練炭を持ってきたが、燃やし方も火力も揃えない。
町には、同じ火がなかった。
煤の多い火。赤いだけの炭。すぐ消える藁。長く熱を持つ窯灰。蒸気で温めた砂。
監察者が一つの温度として扱おうとするたび、境目がずれる。
霜は消えない。
溶けた場所から水になり、隣の冷たい砂利でまた凍る。滑りやすい氷が増え、消防組の一人が転んだ。
「火を足せ!」という声が上がる。
政一が止めた。
「どこへ、どれだけや。全部へ足したら榊さんらの逃げ道がなくなる」
熱も、多ければ正しいわけではない。
入口正面の火は弱め、左右の灰だけ足す。蒸気は人が出るまで止める。凍った通路には乾いた灰を撒き、溶かさず足場にする。
産院の看護婦が担架の先端を掴んだ。
榊が地上へ出る。
志乃も続く。最後の消防組が入口を越えた瞬間、地下から白い腕が伸びた。
指先が担架の後脚へ触れる。
素焼き片の一枚が緑に光った。
榊の胸に留めた接点である。
心拍が十八から、十二へ落ちた。
「担架を置け!」
地面へ置けば、その場所が新しい標準位置になるかもしれない。
志乃は言い直した。
「前だけ下げる。後ろは持ったまま!」
担架を斜めにして、執行体の指が触れた後脚だけ外す。駅員が古い枕木を差し込み、榊の体重を受けた。
用途を失った担架脚は瞬時に凍り、粉々になった。
榊の脈は十二のまま止まらない。
執行体が入口へ姿を現した。
学生服だった空殻は、もう碧に似ていなかった。肩と腕が不自然に長く、緑の骨が布を突き破っている。顔の中央には縦の亀裂。右手には耀盌が凍りつき、軍帽の三つ星だけが炎のように揺れていた。
大橋が拳銃を構える。
撃たない。
代わりに、誰が撃つ判断を持つか口にした。
「接触して人命へ直接危険が出た場合のみ、俺ともう一人の確認で発砲する。今は退路を開ける」
片山が横に立った。
「確認する」
律たちは榊を産院側へ運ぶ。一直線には行かない。窯場の荷車を避け、学校の薪を回り、途中で担架から戸板へ載せ替える。
執行体は追わなかった。
入口から三間出たところで止まる。
霜は足元から広がるのに、空殻の身体だけが前へ進まない。
「基準面」律が言った。
第九口の石床から、標柱、側線、立入境界へ続いていた一本の面。そのつながりを外したため、執行体は町のどこまでが観測口の内側か決められない。
片山は律を制した。
「まだ推測や」
「はい」
試す条件を決める。
人は近づかない。機関車の入換えで、外したレール一本だけを入口前へ戻す。執行体が三尺以上動けば、レールを横へ引く。動かなければ、二度目は行わない。
保線員が長い鎖を継目穴へ通した。機関車が後退し、レールの先端が石段へ触れる。
執行体が一歩出た。
霜がレールを走る。
二歩目。
「引け!」
機関車が前進する。レールが横へ抜け、砂利へ落ちた。執行体の二本目の足は入口を越えられず、緑骨だけが前へ伸びて空を掴む。
一時的な制限は確認できた。
同時に、もっと悪いことも分かった。
執行体は右手の耀盌を、自分の胸へ押し込んだ。
器は割れない。空殻の方が裂け、緑骨が縁を包む。
〈用途別保全〉の文字が一度消え、別の表示へ変わりかける。
〈移送——〉
佐和が地上の保全帳を開いた。
「移送は決めてない!」
鉄道、警察、町民の三担当が、それぞれ同じ意味を違う言葉で記す。
駅長は〈当駅は当該器物を運送品として受領せず〉。
大橋は〈警察保管場所の変更を認めず〉。
印刷所主人は〈町民側の預かり先、決まらず〉。
表示が揺れ、〈移送〉の二字が崩れた。
執行体は耀盌を持ち出せない。
だが手放しもしない。
軍帽の星が一つ、強く光った。
入口周囲のすべての火が、同じ高さまで小さくなった。
窯灰も炭も薪も、燃料が違うのに炎だけが指一本分へ揃う。
「熱源、標準化」
碧が空貨車から叫ぶ。
「火やない! 燃えてるいう分類を固定したんや!」
次の瞬間、揃えられた火が一斉に凍った。
黒い氷柱が入口を囲む。
熱をばらばらにした方法を、執行体が学んだ。
政一は凍った炭火へ近づかず、荷車の底を叩いた。
「窯の熱は、炎だけやない」
底には、焼成を終えた厚い窯道具が入っていた。火は見えない。それでも中まで熱を抱え、近づけた手の甲へじわりと熱が来る。
機関士も主蒸気弁を開かなかった。罐の中に残った湯と鉄の塊そのものが、夜気へ熱を渡している。執行体が〈燃えているもの〉を凍らせても、すでに蓄えられた熱までは同じ速さで奪えていない。
消防組は黒い氷を溶かそうとせず、熱い窯道具を筵で包み、榊の退路と空貨車の周囲へ間隔を変えて置いた。
「これも熱源として固定されるかもしれん」片山が言う。
「せやから全部は出さん」政一は答えた。「一つ凍ったら、残りの置き方を変える」
学校から来た教師は、理科室の寒暖計を三本持ってきた。一本は入口から十間、一本は産院への曲がり角、一本は空貨車の下。製造元も目盛も同じだったため、律は同じ位置へ並べさせなかった。
測る者も別にする。数字は一枚の表へまとめず、その場で人が退く基準にだけ使う。
入口の寒暖計は、零下まで落ちて下端へ張りついた。曲がり角は二度。貨車の下は七度。
町全体が同じ寒さになったわけではない。
まだ動ける場所がある。
一方、凍った炎の周囲では、金属の器具が音もなく割れ始めた。熱を失う速度だけが不自然に揃えられている。大橋は拳銃を上着の内側へ移し、消防組は鳶口を捨てて木の棒へ持ち替えた。
執行体へ通じた手段は、次の瞬間には危険へ変わる。
成功した方法を、成功したまま繰り返さない。その原則だけが残った。
町内組の一人が後ずさる。
別の者は、まだ温かい窯灰を取りに走ろうとした。
律は止めなかった。命じもしなかった。
代わりに、執行体の胸へ半分沈んだ耀盌を見た。
器の底に、これまでなかった文字が浮かんでいる。
〈境界外移送先 冥王星監視門〉
その下に、時刻が一つ。
午前二時十三分。
今から、四十七分後だった。
律は自分の懐中時計だけを見て計算しなかった。
駅の標準時計は午前一時二十六分。寺の柱時計は一時二十四分で、先ほどから二分遅れている。志乃の腕時計は一時二十七分。三つとも動いていた。
耀盌の時刻が正しい保証はない。四十七分後に何か起きる保証もない。急がせるための表示なら、残り時間は途中で書き換わるかもしれない。
駅長は〈器物表示二時十三分、意味未確認〉とだけ運行帳へ書いた。寺は見た時刻を自分の時計で残す。産院は榊の脈を測った時刻だけを記す。
誰も〈移送開始まで四十七分〉とは断定しなかった。
それでも、待って確かめるには危険が大きすぎる。
三つの時計が二時十三分へ届く前に、耀盌と空殻の接続を断つ方法、榊と律を観測口の外へ留める方法、そして町民を凍結範囲から出す道を、別々に用意する必要がある。
監察者は町を凍らせるためだけに来たのではない。
耀盌と、榊と、律の観測構造を、地球の外へ運び出そうとしている。




