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第六十話 凍る境界

霜は、地面の高いところから低いところへ流れなかった。


線路、電信柱の根元、側溝の縁。人が境と決めた場所だけを選び、白い筋になって伸びていく。


第九口の前に立っていた元軍曹が、反射的に境界標へ手を掛けた。


「触るな!」


律の声より早く、標柱の文字が白く凍った。


〈第九観測口〉


彫られた文字から霜が男の指へ移る。皮膚が蝋のように白くなった。


消防組の二人が背後から胴を引き、標柱から離す。凍った手袋は柱へ貼りついたまま、手だけが抜けた。


志乃が駆け寄った。


「擦らんといて。急に火へ近づけるのもあかん」


濡れていない布で手を包み、産院へ運ばせる。元軍曹は自分で歩けたが、指先の感覚がない。


「わしが命令に従ったせいや」


「今は原因を決めないでください」志乃は言った。「凍傷を診ます」


霜は標柱から二つに分かれた。


一本は線路を町へ向かう。もう一本は、地下へ残った者たちの帰路を逆にたどっている。


地下には榊、志乃の助手、寺の僧、警察と消防の見張りがいる。耀盌を調べるため残した者も二人いた。


「入口を塞ぐな」律が言う。「まだ人がいる」


大橋は爆薬の箱へ伸ばしかけた手を止めた。


「崩せば執行体も止まるかもしれん」


「榊さんも埋まります」


「分かっとる」


分かっていて、口にした。時間がないときほど、捨てる案は誰かの胸の中で正しい顔をする。


大橋は爆薬箱を消防組へ渡した。


「俺一人では使わん。入口から二十間離せ」


地下から伝令が転がるように出てきた。眉と髪の先に霜が付いている。


「円形室からこっちへ来ます! 歩いた床が全部凍る。銃は——」


「撃ったんか」


「一発だけ。弾が途中で落ちました。凍って砕けた」


「榊は」


「運べません。担架へ乗せようとしたら、緑板の脚が床へ伸びた」


執行体が榊を離さないのか。生命維持板が観測口を離れられないのか。二つは同じではない。


律は空貨車へ走った。


碧は床に片膝をつき、右手を左脇へ挟んでいた。失われかけた小指が、今度は手首まで白くなっている。


「あれは何をする」


「境界を越えたものを、違反として止める」


「止めるって、殺すこと?」


「監察側の言葉では固定です。動き、熱、接続、記憶の更新を止める。人間なら死ぬ」


碧の歯が鳴った。寒さだけではない。


「どこまで来られる」片山が聞く。


「分からへん。現地執行は見たことない」


「知ってることと、推測を分けろ」


碧は一度息を整えた。


「知ってるのは、執行体には基準面が要ること。観測口の床、国境線、施設の壁、分類された回線。何が内で何が外か決められへん場所では、固定範囲を広げにくい」


「広げにくいだけで、広げられないとは限らない」


「はい」


入口前の霜は、線路の左右で速さが違った。


枕木の上では一息ごとに一尺。砂利へ外れると、白い先端が細く枝分かれして止まり、またレールへ戻る。


鉄が冷えやすいからとは限らない。電信柱の銅線へは上らず、柱と土地を分ける根元だけを凍らせている。


律は試験を提案した。


入口から離れた線路の一部を使う。人は近づけない。まず長い竹竿で、鉄片、木片、警察の立入札、名前のない瓦片を順に霜の前へ置く。白線が十尺を越えたら中止し、全部捨てる。


片山が条件を書き、大橋が承認する。碧は見るだけで、操作しない。


鉄片へはすぐ霜が移った。


木片へも移ったが、遅い。


〈立入禁止〉と書いた札へ触れた瞬間、霜は文字を囲み、竹竿まで一気に走った。消防組が決めていた位置で竿を落とす。


名前のない瓦片では、霜が縁を探すように二度揺れ、止まった。


「文字だけやない」佐和が言った。「役目が決まった物を通り道にしてる」


駅のレール。警察の札。観測口の標柱。


人間が何かを一つの用途へ定めた境界ほど、執行体には歩きやすい。


律は窯場へ伝令を出した。


同じ形の煉瓦を大量に運ばせない。割れた皿、失敗した甕、窯の灰、砂、焼け残りの炭を、それぞれ別の荷車で持ってきてもらう。


駅には保線用の砂利と古い枕木。消防には乾いた筵と土。産院には湯ではなく、毛布と乾布。


一つの防壁を作るのではない。


入口から町へ続く、人が名を与えた真っ直ぐな道を崩す。


駅長は第九口前の側線を、運行用線路から一時的に外すと自分の帳面へ記した。保線員が継目板を外す。警察は標柱を〈立入境界〉として使うことを止め、ただの汚染物として土の山で囲う。町内組は道の左右へ勝手な呼び名を付けず、瓦、灰、砂利、筵を不揃いに敷いた。


霜の先端が迷った。


灰へ入り、割れた甕の内側へ回り、砂利の途中で細くなる。


止まってはいない。


それでも町へ届くまでの時間が延びた。


駅前の商人が、今のうちに町全体を西へ逃がすべきだと訴えた。


子供から先に、寺の裏道を通す。簡単で正しい案に聞こえた。


しかし西には崩れた橋があり、担架は通れない。寺の避難者には歩けない老人がいる。産院には出産直後の母親が二人。線路沿いを使えば霜の進路と重なる。


「ほな、何も決めんのか」商人が声を荒らげた。


「町全部の避難先は、今ここでは決めません」律は答えた。「学校は子供、産院は患者、寺は避難者について、移動できる人とできない人を分けてください。道の状態は駅と消防が、それぞれ見た範囲だけ伝える」


一斉避難を拒むことと、逃げないことは違う。


学校は校庭から北の畑へ出られる児童だけを保護者へ返す。産院は建物内の奥側へ患者を移し、荷車を二台確保する。寺は歩ける者に寝具を持たせ、歩けない者のそばへ水と人を残す。


商人自身は店へ戻らず、西橋の手前で通行できる荷車の幅を測る役を引き受けた。


町は一つの方向へ逃げなかった。


それでも、それぞれが逃げ道を持ち始めた。


「十五分か、二十分」片山が見積もる。


「榊さんを出すには足りない」


地下の床へ伸びた緑板の脚を外す必要がある。


志乃が戻ってきた。元軍曹の指はまだ白いが、脈はある。彼女は入口を見た。


「本人に聞く」


「聞ける状態ですか」


「さっきまではな。今も同じとは限らん」


電話線は使わない。緑糸が接続へ入り込む危険がある。寺の僧と消防組が、互いに見える距離で地下へ入り、声を中継する。


問いは短くした。


緑板の脚を切れば、心臓が止まる可能性がある。切らなければ執行体に捕まる可能性が高い。耀盌を近づけて維持する案は、管理接続を戻す危険がある。本人はどうしたいか。


地下から返事が届くまで、霜がまた一尺伸びた。


「榊さんは、脚を一本ずつ切って、そのたび脈を見てほしいと言ってます。止まったら一度だけ戻す。二度目は戻さず、胸を押して運べ、と」


志乃が確認する。


「誰の言葉や」


「榊さん本人。助手と僧が別々に聞きました」


「運ぶ方法は」


「担架に縛りつけない。意識がある間は、右手を自由に。止めたければ床を三度叩く」


物として運ばれないための条件を、榊自身が決めた。


志乃は地下へ降りた。


第一脚を素焼き片で隔てる。


脈、変わらず。


第二脚。毎分十八から十五。


三十数える。十六へ戻る。


第三脚を離したとき、榊の心臓が止まった。


助手が一度だけ接点を戻す。心拍が再開する。


約束どおり、同じ方法は繰り返さない。


志乃は脚の位置を変えた。床へ戻すのではなく、三枚の大きさの違う素焼き片へ分ける。それぞれを担架の脚、榊の衣服、志乃の手首へ仮留めした。


管理者を一人作らず、生命維持の負担を分ける。


安全かどうかは分からない。脈が戻ったという事実だけ確認し、階段を上る。


そのとき、地下の暗がりで硬い音がした。


一歩。


また一歩。


境界執行体が円形室を出た。


逃げる者の背中ではなく、床へ置かれた耀盌を見ている。


顔のない頭部が傾く。


「保全対象ヲ、標準位置ヘ返還スル」


榊が担架の上で目を開けた。


自由にした右手で、床を三度叩く。


止まれ、ではなかった。


志乃が耳を寄せる。


「耀盌を……置いていけ。あれを持てば、そいつも町へ出る」


誰も、耀盌を救済の象徴として抱えなかった。


三方の保全担当が床へ降ろす。所有権も管理権も戻さない。地下に置くのは放棄ではなく、人命搬送を優先した時刻つきの判断として、地上の帳面へ残す。


担架が階段を上り始めた。


執行体は耀盌を拾った。


白い指が器へ触れた途端、空だった顔に一本の亀裂が走る。


耀盌は、執行体さえ管理者として認めなかった。


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