第五十九話 ばらばらの証人
鐘を止めるため、誰も鐘楼へ一斉に走らなかった。
駅の鐘は駅員が見る。
寺は僧。学校は教師。産院は志乃の看護婦。窯場は政一と夜番。
それぞれ、自分の鐘が誰の手で鳴っているか確かめる。
警察の鐘だけは、焼けた詰所の梁から勝手に揺れていた。綱は切れている。緑の糸が鐘の内側へ巻きつき、舌を動かしていた。
大橋は銃で撃たず、消防組へ鐘全体を梁ごと地面へ下ろさせた。糸を切れば別の接続へ飛ぶかもしれない。鐘へ土を詰め、鳴らない状態にする。
ほかの鐘も、原因は違った。
学校では教頭が鳴らしていた。軍命令だと信じている。寺では避難者の一人が、空襲警報と思い込んだ。駅の鐘は緑糸。産院は誰も鳴らしておらず、患者たちにだけ音が聞こえた。
同じ三度の鐘でも、一つの仕組みではない。
「第九口へ集まるな」と全町へ命じれば、また一つの文章になる。
各場所が自分の判断を出した。
駅は、運行に関係ない呼集として無視。
寺は避難者を現状の建物へ留め、火災があれば境内へ出す。
学校は、生徒を家へ一斉帰宅させず、保護者か町内組ごとに引き渡す。
産院は移動させない。
窯場は火番を残し、ほかの者は自宅の確認へ戻る。
結果として、第九口へ誰も集まらない。
しかし全員が同じ行動をしたわけでもなかった。
実際には、七人が集合命令に従って線路へ向かった。
元軍曹、駅前の商人、寺の避難者二人、学校の教頭、それに号外を配った生徒二人。
消防組は道を塞がなかった。七人を取り囲まず、第九口へ入る前の空地で、それぞれ何を聞き、なぜ来たかを尋ねる。
元軍曹は、命令への服従が町を守ると考えた。
商人は、従わなければ自分の店が記事へ載ると聞いた。
避難者は空襲警報だと思った。
教頭は校長が敵に操られたと信じた。
生徒の一人は友人が連れて行かれたという声を聞き、もう一人は理由を言えず、鐘が鳴ったから来た。
同じ命令へ従った七人でも、接続された恐怖は違う。
「帰れ」と一括命令しなかった。
元軍曹には観測口へ入れば何が起きる可能性があるか説明し、自分で入口から距離を取るか決めてもらう。商人には店の見張りを手配する。避難者は寺の僧が現在の警報状態を確認する。生徒は友人の所在を学校へ照会する。
理由が解けると、五人は戻った。
元軍曹と教頭は残った。
二人は監視下で空地に留まることを選び、第九口へは入らない。反対意見を持つ者を町から排除すれば、監察者は「異議を言うには自分へ従うしかない」と示せる。
二人の存在も、統一観測を拒む違いになった。
監察者の統一観測は始められない。
空貨車の碧が、また三度壁を叩いた。
見張りが距離を保って聞く。
「監察席には、観測対象の共通位置が必要です。集合命令が失敗すれば、代わりに代表個体を使う」
「誰を使う」春夫が聞く。
「水城律」
律の右目が冷えた。
「因果外観測の反応が最も強い。律を第九口へ置けば、町全体を彼の観測関係としてまとめられる」
監察者が律を殺したいのではない。
律に町を見させ、その視界を一つの標本庫として使いたい。
「右目を潰せば止まるか」片山が聞いた。
碧は答える前に、律を見た。
「一時的には。だが観測構造は脳と耀盌にも残る」
「潰さない」佐和が言った。
律自身も、自分の目を対価にして町を救うという物語へ飛びつきかけていた。
一人の犠牲で全員を救う。
無面が何度も差し出した、分かりやすい形だった。
「僕を一人にしないでください」
律は初めて、そう頼んだ。
守ってくれという意味だけではない。
自分一人の観測を、町の代表にしないためだった。
片山は律の隣へ立った。
「俺は律を疑う」
佐和も立つ。
「私は、律が見たものと書いたものを分ける」
大橋は少し離れた。
「俺は二人の行動を止める必要があるか見る」
安達は窯場へ残ったまま、伝令へ言葉を託した。
〈律が俺の同意を代わりに言うたら、違うと書け〉
一緒に集まらない者も、律へ代表権を渡さない意思を示した。
監察者が右目へ入ろうとする。
視界の端に、町の全景が浮かんだ。
駅、寺、産院、学校、窯場。上から見下ろす一枚の地図へ変わる。
その上に、人の位置が緑の点で現れる。
律が「町はこうだ」と認識した瞬間、点は固定される。
律は目を閉じなかった。
代わりに、分からない場所を口にした。
「産院の裏は見えない」
佐和が記す。
「駅の西に何人いるか分からない」
片山が、駅の伝令へ確認を求める。ただし答えが来るまで空欄にする。
「東寺の鐘を鳴らした人が、今どこにいるか知らない」
大橋が〈未確認〉と書く。
町の地図に、空白が増える。
緑の点の一つが、律の知らない家へ置かれた。
「そこに誰がいる」監察者が尋ねる。
答えれば、点へ人の名前がつく。答えなければ、その家ごと危険として処理されるかもしれない。
律は片山へ聞かなかった。
「その家を知る人は、自分の範囲で確認してください。僕へ全員の名前を集めないで」
伝令が町内組へ走る。返答は律へではなく、学校、寺、警察の三か所へ別々に置く。
家には老女一人がいた。学校帳には配給を受けた記録。寺には今朝の参拝記録。警察には何もない。
三つを統合すれば、律は老女の行動を一日分把握できる。
統合しなかった。
「家に一人いることだけ、避難確認に使う。名前と一日の動きはここへ集めない」
緑の点は名前を得られず、揺れた。
監察者は、保護のため情報を集める行為まで利用しようとしていた。律たちは情報を拒否するのではなく、目的を越えて集めないことで一枚の地図を欠けたままにする。
監察者は空白を嫌った。
緑の像が勝手に人を置こうとする。
律はそれを自分の観測として認めない。
「見えた。でも確かめていない」
一枚の町が完成しない。
監察者の声が強くなる。
「観測者は結果を確定せよ」
「しません」
「不確定は危険である」
「確定したふりの方が危険です」
右目から血が流れた。
佐和が布を当てようとする。
律は拒まなかった。ただし視界を完全には塞がないよう頼んだ。見ないことで逃げれば、次に目を開いた者へ同じ負担が移る。
外から二つ目の返信が届いた。
薬品荷車に載せた資料は憲兵に押収されたが、荷車の御者が内容を口頭で近くの医師へ伝えていた。医師は患者受領記録へ「薬品遅延は線路損傷によると御者から聞いた。真偽未確認」と書いた。
こちらの文章とは違う。
号外の断定とも違う。
町外に、また一つ独立した不確かな記録が生まれた。
三つ目の返信は、こちらに不都合な内容だった。
憲兵側の記録である。
押収した封筒には、号外の版違いを示す紙が一枚しか入っていなかった。そのため憲兵は「邪術集団が偽新聞を複数作り、軍務を混乱させた疑い」と記録した。
こちらの説明を信じてはいない。
しかし、号外が一種類だけではなかったことを、敵対的な立場からも記している。
印刷所主人は、その報告も掲示するよう求めた。
「こっちを疑う紙でも、版が複数あるいう事実は残る」
都合のよい外部記録だけを真実扱いしない。
監察者は、賛成と反対の両方を一つの観測へまとめられず、〈新聞〉線の光をさらに失った。
〈新聞〉線が暗くなる。
地下交換機から緑の炎が引いた。
監察者は律の右目を通じて統一しようとするが、町外の記録までは律が見ていない。
観測範囲が閉じない。
「碧」律は貨車へ呼びかけた。「〈新聞〉接点を外せるか」
「今なら。逆流が弱い」
「権限は」
「一回操作が必要」
碧を地下へ連れて行かない。
第五十七話と同じ空札を、地下から地上へ外す。今回は〈新聞〉接点の隔離だけ。期限は一回。碧側を春夫、巡査、印刷所主人。地下側を大橋の部下、佐和の助手、寺の僧が見る。
律は操作担当にならない。
右目を監察者に狙われている者が、接続権限まで握らないためだ。
碧が札へ指を置く。
「隔離する」
地下で素焼き片が〈新聞〉接点へ入る。
緑の炎が消えた。
町の紙から監察者の声が途切れる。
同時に、律の視界から上空の町が消えた。
右目の痛みが少し引く。
だが第九口の円形室で、空の無面外殻が立ち上がった。
顔も声も接続部も外したはずの器。
その頭上へ、三緑星の軍帽が落ちる。
緑の骨格が空殻の中へ満ちた。
監察者は新聞も律の目も使わず、残された無顔の器を自分の身体に選んだ。
地上の碧が、初めて叫んだ。
「逃げろ! それは回収個体やない。境界執行体だ!」
地下入口から、冷たい風が噴き出した。
地面の霜が、夏の線路へ一瞬で広がっていく。




