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第五十八話 同じ文章を捨てる

最初に燃えたのは、警察詰所の写しだった。


紙そのものに火はつかない。


〈水城律に対する逮捕命令を停止する〉という一行だけが緑に光り、墨が紙から浮き上がった。文字は細い煙になって窓の外へ吸われる。


同じ瞬間、駅と寺に置いた写しからも、同じ一行が消えた。


「水を掛けるな!」印刷所主人が叫んだ。


緑の火は熱を持たない。濡らせば紙が読めなくなるだけだった。


佐和が三枚の残りを比べる。


時刻、署名、余白の異議は残っている。消えたのは、三枚へ同じ文句で写した停止宣言だけ。


「同じ文章を、一つの記録として拾ってる」


律は確認のため、消えた文を別の紙へ一字ずつ同じに書こうとした。


三文字目で、右目が焼けるように痛んだ。


紙の上へ緑の点が現れる。


佐和が筆を取り上げた。


「試すなら、止める条件を先に決めて」


同じ文を完成させない。十文字まで。痛み、発光、ほかの紙への変化のどれかで中止。律以外が見張る。


もう一度、最初から書く。


〈水城律に対する逮捕〉


十文字へ届く前に、寺の写しで消え残っていた〈水城〉の二字が光った。


佐和が止める。


書きかけの紙を裏返した。


監察者は意味だけを読んでいるのではない。第九口から広がった文章の同一部分を、離れた紙でも同じ記録として扱っている。


「言い換えれば残るんか」安達が聞く。


「今は分かりません」


駅長が、自分の言葉で書いた。


〈当駅は、律という青年を捕らえよとの電話を、発信元不明として運行判断に用いなかった〉


緑火は出ない。


寺の僧は別の文にする。


〈東寺では、顔や声だけを理由に人を縛らないと決めた〉


産院の志乃は、もっと短かった。


〈患者を運ぶかは産院が決める〉


どれも、逮捕命令停止の同じ出来事へ関係している。しかし立場も確認範囲も違う。


一時間残ったからといって安全とは言えない。それでも、緑の火はつかなかった。


「全員、言い換えて書き直せ!」大橋が言いかけた。


印刷所主人が止める。


「同じ指示で一斉に書かせたら、今度は書き換え手順ごと一つにされる」


各場所が、自分で確認したことだけを書き直す。


警察は命令を受けた時刻、印の扱い、停止した権限。


駅は列車番号、路基亀裂、暗号表、停止距離。


寺は避難者、老僧の病状、札の書き換え。


産院は炭を置かれた横穴壕、春夫の傷、搬送中止。


窯場は温度、割れた器、水量、導火束。


学校は号外の版違い、配布時刻、生徒が見た配布者。


全体の結論を、どこにも置かない。


紙以外の痕跡も、記録として数え直した。


窯場には、導火束を切った跡、土をかぶせた十間ごとの溝、急冷を避けたため割れた皿、水甕を残すと政一が斜線を引いた窯詰め図がある。


駅には、外したレール、崩れた路基、鳴らなかった古い雷管、車輪の制動痕が残る。


産院の横穴壕には、炭火鉢、塞がれた換気口、春夫の首へ巻かれた緑糸。警察詰所には、電話盤から始まった焼け跡と、延焼を止めた濡れむしろの位置がある。


物も、意味を自分で話さない。


制動痕だけ見れば、列車が止まったことは分かる。なぜ止めたか、誰が命じたかは分からない。緑糸があっても、誰が春夫へ巻いたかは分からない。


だから物証を「真実」と呼ばず、何を直接示し、何を示さないかを場所ごとに書いた。


緑火が文章を消しても、崩れた地面を元へ戻すことはできない。反対に、地面が残っても人間の責任まで自動で証明されない。


紙、証言、物のどれか一つを、ほかの代わりにしなかった。


「ほな、あとで誰が事件を説明する」片山が尋ねた。


「一枚読んで分かった気にならんようにする」佐和は答えた。「必要な人が、必要な場所の記録を集める」


遅い。


食い違いも残る。


しかし総報告一枚を消されれば全体が消える構造よりは、失敗が局所に留まる。


緑火は、次に番号を狙った。


四百三十二件の紙面索引。その共通見出し〈第九観測口採取記録〉が一斉に燃える。


番号も、地下で使われた連続番号から消え始めた。


索引がなくなれば、凍結二十三件と被害者を結べない。


律は番号を書き直そうとしなかった。


各場所へ返す。


片山の三標本は警察帳へ、採取年と場所で記す。


安達は製糸場、窯場、偽筆跡の三件として窯場帳へ。


野村は駅の宿直日誌へ、死亡前に標本利用された事実だけ加える。


共通番号を失っても、出来事との関係は残る。


凍結資料の外側には、誰の記録かを書かない。開くための三者が揃ったとき、地域帳の時刻と凍結時刻を照合する。


「番号なしでは、取り違える」大橋が言った。


「取り違える危険は上がります」律は認めた。「だから、開く前に複数の帳面を比べる。便利な一つの番号に戻さない」


監察者が消しやすいものは、人間にも扱いやすいものだった。


一つの番号。一つの名前。一つの結論。


それを捨てれば、調査は面倒になる。面倒さそのものが、支配への抵抗になっていた。


午前零時二十分。


学校の号外比較表が燃え始めた。


四欄の見出しから、〈確認済み〉だけが消える。


読んでいた生徒が、突然口を止めた。


「何を確認したんやった?」


紙だけではない。


同じ見出しで整理した記憶まで、引かれている。


教師が生徒へ答えを教えようとした。


律は止めた。


「先に、自分が見たことを話して」


生徒は目を閉じる。


「紙が五種類あった」


「どこで見た?」


「講堂の床」


「誰と?」


友人の名を三人挙げた。


〈確認済み〉という分類は消えた。それでも床に並べた紙、隣にいた友人、文字の違いは覚えている。


別の生徒は、紙の種類を六つと言った。


教師が五つへ直そうとする。


「直さないでください」佐和が言った。「六つ見たなら、そう残す。あとで現物と比べる」


食い違いは誤りかもしれない。


門衛の可変号外が、実際に六種類目を作った可能性もある。


統一しない記憶は、不正確だった。


同時に、監察者が一つの命令で消し切れない。


生徒たちは、思い出した内容を互いに相談する前に別々の紙へ書いた。


一人は号外を五種類。


一人は六種類。


一人は四種類しか覚えていない。


配布者の顔も、老教師、少年、軍人と違う。


書き終えてから現物と比べる。五種類は今も講堂にある。六種類目に似た紙は見つからない。四種類しか覚えていない生徒は、そのうち二種類を自分で配った記録が残る。


「間違った紙は捨てる?」教師が尋ねた。


「捨てません」律は答えた。「緑火の後に、誰が何を思い出せなかったかも記録です」


六種類目は見間違いかもしれない。監察者が一時だけ見せた可変版かもしれない。結論を保留したまま、現物なしと添える。


緑火は正しい記憶だけを消すとは限らない。間違いだけ残し、あとから人間同士で争わせることもできる。


食い違いを隠さず、現物と照合した時刻を残すことで、少なくとも「全員が同じように覚えていた」という偽の一致を作らせない。


印刷所主人は、活字を溶かさなかった。


〈確認済み〉を組んだ活字だけを版から外し、ほかの文字と混ぜる。どの語を作っていたかは、自分の帳面へ「外した」とだけ記す。


記事を再印刷しない。


代わりに、空白になった紙もそのまま外へ送る。


「消された跡も記事や」


緑火は、空白そのものを消せない。


午前零時三十五分。


寺の使いから返信が届いた。


隣町の駅長が、五種類のうち二種類を受領。片方には水城律が列車を止めたとあり、片方には列車を動かしたとある。判断不能のため拘束命令保留、と自分の運行帳へ記した。


町の外に、こちらと同じ文章ではない記録が生まれた。


〈新聞〉線の逆流が、一度途切れる。


地下の緑火が弱くなった。


監察者の声が、白くなった顔膜から漏れる。


「観測不一致。誤差を統合せよ」


誰も統合しなかった。


「六種類やった」と言う生徒の記録も、そのまま残す。


監察者にとって誤差でも、本人が見たという出来事だった。


午前零時四十分。


緑火は紙から離れた。


今度は、町の鐘がすべて同時に鳴った。


警察、学校、寺、駅、産院、窯場。


違う役目の鐘が、同じ調子で三度鳴る。


空に声が響いた。


「統一観測を開始する。全住民は第九口へ集合せよ」


分散した記録を消せないなら、記録した人間を一か所へ集める。


監察者は町そのものを、次の標本庫にしようとしていた。

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