第五十七話 夜半の消去
四百三十二件を、内容ではなく同意状態で分けた。
本人が消去を希望したもの。
本人が一部保存を希望したもの。
死亡または連絡不能で、無断取得された私的内容。
事件調査のため最小限抽出を待つもの。
操作手順と採取索引。
最初の三群は、一括消去の対象にできる。
四群目は今夜判断できない。内容を監察へ渡さず、耀盌にも入れず、地下で凍結する方法が必要だった。
五群目は人格内容を含まない範囲だけ、紙と写真へ写す。緑星技術そのものを完全保存しようとすれば、再び無面を作れる資料になる。再現に必要な数値と配線順は消し、人間社会のどの穴が使われたかを残す。
碧は反対した。
「再現情報を消せば、監察への対抗手段も失う」
「あなたも無面を使えなくなる」春夫が言った。
「無面がなければ、監察個体へ対抗できない」
「俺を縛ったんも、その対抗手段やろ」
碧は黙った。
再現技術を残せば、いつか必要になるかもしれない。残さなければ、同じ侵入へ備えられないかもしれない。それでも今ここにいる被害者の人格を、未来の武器として保有することはできない。
無面の構造は、顔を入れていない空の外殻一体だけを残すことになった。
動力も接続権限も外す。形状、材質、可動範囲は調べられるが、人の顔や声を再生できない状態にする。
「誰が保管する」大橋が聞く。
「今夜は地下から出さない」佐和が答えた。「明朝、保管するか壊すかを決める」
今決めないことにも期限を置く。
事件調査待ちの記録は、碧が提案した凍結槽へ移す。ただし耀盌ではない。地下交換機の九席のうち、すでに接続を失った〈警察〉と〈鉄道〉の二席を互いに切り離し、その間へ内容を読めない素焼き板を挟む。
記録の存在番号だけ外から見える。開くには、本人か遺族側、調査側、記録者の三者が別々の接点を外す必要がある。
「監察には取られない?」律が聞く。
「夜半の回収対象は、稼働中の標本庫と接続線。切断済み二席の間は、管理対象として認識されない」
「確認したこと?」
「一度だけ。第六口で」
「結果は」
「七年後まで残った。その後は知らない」
永遠の安全ではない。
今夜を越えるための封じだった。
午後十一時十分、消去が始まった。
碧は空貨車の中で、消去札へ右手を置く。半透明だった小指はまだ冷たい。春夫が番号を読み、巡査が対象群を確認し、印刷所主人が開始と終了を記す。
地下では佐和が顔膜を見張る。大橋は交換機の他札が光らないか確認する。律は入口に立ち、地上と地下の報告を受ける。
碧へ「全部消せ」とは命じない。
各群の開始前に、地下と地上で対象件数を別々に数えた。数字が合わなければ札を接続しない。碧には顔や氏名ではなく、連続番号と処理種別だけを渡す。
最初の照合で、本人希望群が一件合わなかった。
地上は百二十七。地下は百二十八。
調べると、無面が偽安達として地下から出た際、新たに採取した消防組員の標本が本人確認なしで「消去希望」へ入れられていた。本人は標本が増えたことすら知らない。
数だけ合わせて進めば、その一件は誰の判断でもないまま消える。
消防組員を呼び、残り時間と内容を説明した。男は迷う時間がないことに怒った。
「化け物が期限を決めて、あんたらが今すぐ選べ言う。結局同じやないか」
律は否定できなかった。
「選ばないことも選べます。その場合、私的内容は無断取得として消去し、索引だけ残す。あなたが同意したとは書きません」
男は顔を消し、接触時刻だけ残すことを選んだ。
開始は七分遅れた。
夜半へ間に合わない危険が増えても、一件の違いを端数にしなかった。
第一群、本人希望の百二十七件。
範囲を告げ、碧が復唱し、地下側が該当番号の最初と最後を確認する。消去後に索引が残っているかを見る。
顔膜が、端から白くなる。
五十件目で、〈寺院〉札が一瞬光った。
地下の佐和が停止旗を上げる。地上で春夫が碧の手を札から離すよう求め、碧は従った。
寺院標本に変化はない。監察者が消去線へ接続を試みた可能性があるが、確認できない。〈寺院〉接点へ仮の素焼き片を置き、地上の寺へ伝令を出す。避難者名簿と命令権限に異常なしと返るまで、十二分間作業を止めた。
「時間がない」碧が言った。
「分かってる」春夫は答えた。「せやけど、止めろ言うた条件や」
再開時、碧の一回権限を新しく発行する。古い札は使わない。
処理が遅れるたび、監察の逆流は強くなる。それでも停止条件を危機のたび緩めれば、最初から条件ではなかったことになる。
安達の顔が消えた。
片山の私生活が消えた。
佐和の声が消え、公開用に選んだ静止表情だけが紙へ残った。
第二群、部分保存。
保存箇所を先に凍結席へ移し、元標本を消す。移した内容の数と外側の索引を合わせる。中身を読んで確認しない。
第三群、本人不在。
野村の顔膜が白くなる前、従兄が地下へ入った。
「最後に見んでええか」
「見れば、私的記憶まで開く可能性があります」律が説明した。
従兄は膜の前に立ち、長く迷った。
「顔だけ見ても、あいつやないな」
触れずに戻った。
野村の標本が消える。採取日、使用先、死亡推定は紙に残った。
午後十一時四十二分。
〈新聞〉線の逆流が強くなる。
外へ送った四系統の資料のうち、寺の使いが隣町へ到着したという知らせが来た。駅の掲示板へ五種類の号外差異が貼られ、拘束命令の執行が一時保留になった。
一方、薬品荷車は憲兵に止められた。資料の一封も押収された。
外部の反応は一つではない。
〈新聞〉線は弱まりながら、別の場所で太くなる。
監察者は、信じた者と疑った者の両方を通じて記録庫を探していた。
午後十一時五十分。
凍結席へ最後の調査記録を移す。
榊の記録だった。
箱を開けた日から地下へ接続されるまで。それ以外の十年は、本人の希望どおり消す。
碧の手が止まった。
「消せない」
春夫が身構える。
「なんでや」
「私の管理実績と重なっている。榊の十年を消すと、私の記憶も欠ける」
「自分を守るために残すんか」
「違う。消去命令が私自身へ戻る。どこまで失うか予測できない」
碧が初めて、作業の停止を求めた。
一時権限を与えられた者にも、危険を理由に止める権利はある。
律は消去を強制しなかった。
「榊の選択は変わりません。別の方法を探します」
残り十分。
地下の榊へ、短く説明する。自分の記憶を消すと、碧の記憶も損なわれる可能性がある。
榊は目を閉じた。
「だから残せと?」
「碧は、危険で止めました。残せとは言っていません」
「私の十年を、あれの命として持たせるのか」
答えはなかった。
榊は呼吸を三度整えた。
「私の夢は消せ。あれが何を失うかは、あれの問題だ」
碧にもその言葉を伝える。
少年は消去札を見た。
「実行すれば、私は田正雄として過ごした十年の一部を失う」
「実行しない自由はある」律が言った。「その場合、権限を返して作業者を替える。間に合わない可能性も記す」
命令ではない。
碧は自分で選ぶ。
午後十一時五十六分。
「実行する」
消去札へ手を置いた。
地下で、榊の十年分の顔膜が白くなる。
碧が息を呑んだ。
「何を失った」春夫が聞く。
碧は答えようとして、言葉が出なかった。
涙だけが流れた。
何を忘れたかは、忘れた本人にも分からない。
午後十一時五十八分。
空の無面外殻から、顔接続部を外す。再現数値を消去する。採取索引と社会経路だけが紙へ残る。
午後十一時五十九分。
標本庫は空になった。
凍結席に二十三件。紙の索引四百三十二件。静止教材一件。空殻一体。
耀盌には、一件も移していない。
夜半。
三緑星の光が、第九観測口へ落ちた。
壁の窪みが一斉に砕ける。
交換機の〈新聞〉札から、外へ向かって緑の炎が走った。
監察者の声が町中の紙から響く。
「記録返還失敗。現地汚染を焼却する」
印刷所の紙、学校の掲示、駅の運行帳、寺の写し。
緑の火が、分散した記録を一つずつ探し始めた。
地下だけ空にしても、監察者は町が覚えたことまで消そうとしていた。




