第五十六話 顔を保存しない
碧の提案を、そのまま採用する者はいなかった。
「耀盌へ移せば、監察には取られないのか」大橋が貨車の外から尋ねた。
「器を局地保全状態へ固定すれば、直接回収はできない」
「できない、は確認済み?」佐和が聞く。
「類似器で三度成功している」
「移した記録は、誰が読める」
「用途別保全の担当者」
「顔や記憶を入れた用途は、誰が決める」
碧は答えに詰まった。
耀盌へ記録を入れれば、監察者から隠せるかもしれない。しかし器の中に、町民の顔と深い記憶が残る。用途を決める者が変われば、再び無面の標本庫として使える。
敵に奪われないことと、こちらが持ってよいことは別だった。
律は記録庫の内容を四つに分けた。
一つ目は、採取索引。
誰の顔が、いつ、どこで、どれほどの接触によって採られたか。命令系統のどこへ使われたか。人格内容ではなく、被害と操作の履歴だった。
二つ目は、顔と声の標本。
三つ目は、私的記憶。
家族、恐怖、後悔、職務上の癖。無面が本人らしく振る舞うため盗んだもの。
四つ目は、操作手順。
無面をどの顔へ接続し、命令のどの部分を強調し、どの恐怖を使えば人が動くか。緑星側の技術と運用記録である。
「全部必要な証拠やないか」宿直巡査が言った。
「全部を持つ必要はありません」律は答えた。「盗まれた記憶そのものがなくても、盗まれた時刻と使われ方は残せる」
野村の従兄は反対した。
「野村が何を見たか消したら、殺された理由が分からん」
「残せば、死んだあとまで他人が中を見る」佐和が言う。
本人へ尋ねられない。
遺族が代わりに許可できる範囲も、決まっていなかった。
王仁三郎は、保存を既定にしなかった。
「盗んだ側が残した写しや。本人が決められんからいうて、こっちの所有にしてええ理由にはならん」
死亡者や連絡不能者の私的記憶は、原則として地域側へ移さない。監察へ回収もさせない。今夜、現地で消す。
ただし、その人の標本が存在した事実、採取日、利用先、消去した時刻は残す。
「消したら無罪の証拠までなくなるかもしれん」片山が言った。
「だから索引と使用履歴は残す」律は答えた。「内容を読まないと証明できない部分は、読んだ人、目的、範囲を書いてから最小限だけ抜き出す」
誰でも読めるわけではない。
事件ごとに、必要な問いを先に書く。
野村が列車停止前に何を見たか。
片山の名が接続候補へ入った経路は何か。
榊が昭和九年にどこへ運ばれたか。
問いに関係ない家族の記憶や感情は開かない。
「読む役は誰や」大橋が聞く。
「一人にしない。本人か遺族側、事件調査側、どちらにも属さない記録者」
「遺族が読みたくないと言ったら」
「読まない。必要な証拠を失うことも説明して、それでも決めてもらう」
野村の従兄は長く迷った末、首を横へ振った。
「あいつが隠してたことまで、わしが開ける権利はない。死んだ時刻と、駅で使われた記録だけ残してくれ」
その選択が記された。
生きている者へは、可能な限り本人に尋ねた。
子供の標本も二十七件あった。
学校長は保護者へ決めてもらうべきだと言った。だが、親に知られたくない記憶まで標本に入っているかもしれない。親だから、子供の内側をすべて開く権利があるとは限らない。
十歳以上の子には、顔、声、出来事の記憶が別々に保存されていることを、怖がらせない言葉で説明する。消したい、残したい、分からないの三つから本人が選ぶ。保護者は危険の説明を聞くが、子供の私的内容を読むことはできない。
十歳未満、意識障害、精神干渉から回復していない者は、私的内容を開かず消去を原則とした。採取索引だけを残し、成長後に本人が読むための内容保存はしない。
「大きくなって、知りたかったと言うかもしれん」学校長が言った。
「その可能性はあります」律は答えた。「でも、未来の本人が知りたいかもしれないことを理由に、今盗まれた記憶を持ち続けるのも危険です」
正解はなかった。
決めた理由と、失われる可能性を残すしかない。
緑の粉を吸った巡査は、自分で選べると言った。しかし水城律の名を聞くと、まだ命令文が口から漏れる。選択が接続の影響を受けている可能性がある。
彼の顔と私的記憶は消す。職務記憶の保存判断は三日後まで保留したかったが、夜半の期限がある。本人は消去を望んだ。
「警察のこと忘れたら、戻れんかもしれんぞ」杉本が言った。
「俺の記憶を、戻すためいうて誰かが持つ方が怖い」
巡査の意思を優先し、職務履歴は外部の勤務帳から再構成する。本人の頭の中の警察経験を保存しない。
記録を失えば回復が難しくなる場合もある。それでも治療のためという名目で、本人の記憶を無期限に保有しないと決めた。
安達は顔と声を消すことを望んだ。私的記憶も全部消す。ただし自分の筆跡が偽命令へ使われた日時と、製糸場での命令一覧は残す。
片山は職務上の記憶だけ調査用に期限付きで残し、家族と私生活は消す。三日後に必要性を見直し、延長には本人を含む再確認を求めた。
佐和は自分の顔標本を教材として一部残すと言った。
「ほかの人の顔を使わず、無面がどう表情をずらすか見せられる」
しかし期限は一か月。保存場所は耀盌ではなく、紙と写真へ落とした静止例だけ。声と深い記憶は消す。
本人が自分の被害を、どこまで証拠に使うか決めた。
榊の選択は、急がせなかった。
志乃が地下で意識状態を確認する。心拍は続いているが、長い判断を求めれば胸板が熱を持つ。
「今夜消えるかもしれん記録がある」志乃が説明した。「残す、消す、いったん封じる。どれも危険がある」
榊は目を閉じたまま答えた。
「箱を見つけた日から、椅子へ座らされるまでだけ残す。椅子の中で見られた夢は消せ」
「理由は書く?」
「書くな」
理由を語らない権利も残した。
問題は、現地消去を誰が実行できるかだった。
第九口の標本庫は、碧の旧管理権限か監察者の上位権限でしか書き換えられない。
「私に一時権限を戻せ」碧が言った。
「耀盌の管理者へ?」律が聞く。
「違う。第九口の消去担当。対象は選択済みの標本だけ。時間は一刻」
碧は自分から範囲を狭めた。
権限を戻す場所は耀盌ではなく地下交換機。〈管理者〉ではなく〈消去担当〉。終了条件は、選択した標本数と一刻の早い方。
それでも碧が別の記録を消したり、無面を動かしたりする危険はある。
「操作を見られる者は」
「私以外にはいない」
「なら、一件だけ試す」佐和が言った。
試験用に選んだのは、校庭で全員が見た公開掲示の記憶だった。学校長が自分で保存してよいとした、号外五種類を並べた場面。私的情報が少なく、現実側の紙とも照合できる。
碧は空貨車から出さない。
地下交換機まで連れて行けば、監察者と標本庫へ近づく。代わりに、交換機から消去操作に必要な空札一枚だけを地上へ外す。地下側では大橋と佐和が接点を見張り、碧側では春夫、巡査、印刷所主人が手元を見る。律は両者の伝令をつなぐが、操作命令を一人で完結させない。
空札へ書くのは標本番号、消去範囲、期限。
碧の名前は書かない。
〈一回操作を行う者〉とだけ記す。
碧が札へ指を置く。
緑の線が一本、地下へ走った。
三十秒後、地下から報告が来る。
該当する顔膜が白くなった。隣の標本に変化なし。索引の採取日と使用履歴は残る。
学校の掲示記憶を律たちが紙から読み上げる。
保存された現実記録と一致した。
消去した内容が耀盌や別の標本へ移っていないかも調べる。耀盌に新しい光はない。碧の位置核にも記憶反応は増えていない。
一件だけでは安全と証明できない。
しかし、仕組みは働いた。
試験後、碧へ与えた空札はすぐ回収された。
権限を一度与えたからといって、次の操作まで自動継続させない。札の接点を素焼き片で外し、地下側の光が消えたことを確認する。碧の手へ緑の残光がないか、位置核の振動が変化していないかも測った。
右手の温度が一度上がったが、五分で戻った。原因は不明。
「一括処理なら、札を置いたままの方が早い」碧が言った。
「早い代わりに、途中で止めにくい」春夫が答えた。
本処理でも、群ごとに札を外す。地下側と地上側の結果を照合し、次の群へ進むたび新しい一回権限を発行する。碧が意識を失う、対象外標本が変わる、別の接続札が光る。このどれか一つで即時停止する。
碧自身にも停止を申告できる条件を書かせた。
位置核の痛み。田正雄記憶の混入。監察者の声。消去範囲が見えなくなること。
「申告したら、作業から外されるか」
「一度外す。戻れるかは原因を確かめて決める」
失敗を隠した方が権限を保てる仕組みにしない。止めたことで碧の協力実績を減点しないことも記した。
夜半まで、あと一時間四十分。
消去対象は四百三十二件。
人間が一件ずつ確認していては間に合わない。
碧が尋ねた。
「一括消去を許可するか」
律は時計を見なかった。
「許可する単位を、もう一度分けます」
時間切れを理由に、全員分の判断を一つへまとめないためだった。




