第五十五話 助けた敵をどこへ置く
碧を警察詰所へ入れることはできなかった。
建物は焼け、警察名義の拘束権も一部停止中だ。産院へ運べば、患者と子供を危険へ近づける。学校は検証の場として人が集まり、新聞線も残っている。地下観測口へ戻せば、監察者の接続へ近づく。
安全な場所がない。
「第四六九号車へ入れる」車掌が提案した。
耀盌と同じ車両だった。
碧が管理権を取り戻す危険が高い。
「別の貨車を使います」律は言った。
医薬品を移し終えた空の有蓋車を一両、側線へ離す。扉は閉めるが外から錠を掛けない。碧が出れば、車輪止めの外にいる三人が確認する。逃走を物理的に完全不可能にすれば、火災時にまた焼却箱になる。
碧は条件を聞いた。
耀盌へ十間以内に近づかない。
無面標本へ指示を出さない。
学校、新聞、鉄道、警察、軍の名義で命令しない。
町民の顔を変えて見せない。
生命に迫る異常があれば、自分から申告できる。
「違反した場合は」
大橋が答える。
「その行為を止める。必要な力は使う。何をしたか確かめず、即座に殺すとは決めない」
「拘束ではないと言うのか」
「拘束や」大橋は言った。「ただし、お前を物として保管する拘束にはせん」
期限は翌朝。見張りは三人一組で二時間交代。警察、被害を受けた者、どちらにも属さない者を一人ずつ置く。
最初の組には、宿直巡査、春夫、印刷所主人が入った。
春夫は自分から志願した。
「怖くないのか」巡査が聞く。
「怖い。せやから、見ん場所で何される方が嫌や」
三人は見張りと取り調べを分けた。
夜間の見張りは、扉の開閉、碧の呼吸音、位置核の発光、外部から近づいた者だけを記録する。事件について質問しない。眠らせずに証言を取れば、碧が何を自分で覚え、何を誘導されて答えたか分からなくなる。
正式な聞き取りは明朝、春夫や野村の遺族とは別の場所で行う。被害者へ碧を問い詰める役まで負わせない。ただし本人が直接質問したい場合は、拒否せず時間を設ける。
春夫は不満そうだった。
「今聞いたらあかんのか」
「あかんとは言わん」印刷所主人が言った。「けど今夜の俺らは、こいつが消えへんか見る役や。答えを取る役まで一緒にしたら、都合ええ返事が出るまで寝かさんようになる」
春夫は考え、自分がすぐ聞きたい問いを紙へ書いて封じた。
〈誰が俺を選んだ。なぜ俺やった〉
明朝、自分がまだ聞きたいなら開く。気持ちが変われば破る。その紙を碧には見せなかった。
碧は空貨車へ入る前に、学生服を脱いだ。
服の内側には、何十枚もの身分証が縫い込まれていた。
田正雄。軍通信兵。鉄道補助員。府職員。学生。寺の小僧。名前も年齢も違う。
「全部出してください」大橋が言う。
「これがなければ、私は外で活動できない」
「今夜は活動させない」
碧は一枚ずつ外した。
最後に、無記名の身分証が残る。写真は緑眼の少年。氏名、生年月日、所属は空欄だった。
「これは」律が聞く。
「回収時の空き枠です。監察へ統合されると、別の現地個体へ再発行される」
碧はそれも渡した。
身分証は一つの箱へまとめなかった。軍関係は大橋、鉄道は駅長、学校は校長、その他は町会が預かる。田正雄の証明書だけは榊本人が扱える状態になるまで封じた。
各預かり手は、身分証が本物か偽物かを今夜決めない。印や紙が正式でも、碧がその地位を正当に得た証拠にはならない。反対に偽造でも、その身分で実際に受けた命令、給与、通行記録は調査対象として残る。
「全部偽物なら燃やせばええ」巡査が言った。
「燃やしたら、誰がどこでこいつを通したかも消える」大橋は軍証を封筒へ入れた。「紙は碧を守る盾やった。同時に、何をしたか追う道でもある」
碧自身にも、何を誰が預かったか一覧を渡した。没収品を秘密にすれば、後から不利な証明書だけ消されたと争うことになる。
碧が貨車へ入る。
扉を閉める前、春夫が尋ねた。
「俺を電話に縛ったんは、お前か」
碧はすぐ答えなかった。
「命令を作ったのは私。実行したのは無面個体」
「死んでもええと思った?」
「死ねば、停止行為と死者数の関連が強化される」
春夫の顔から表情が消えた。
「質問に答えろ」
碧は緑の目を伏せた。
「死んでもよい対象として配置した」
許しを求めなかった。
言い訳もしなかった。
春夫は拳を握り、貨車へ一歩入る。
巡査が腕をつかもうとする。
「離して」
春夫は自分で止まった。
「殴ったら、俺が悪いことにされるんか」
「殴った事実は残る」佐和が言った。「碧がしたことは消えへん。あんたが殴らんかったことも、碧を許した意味にはならん」
春夫は貨車を出た。
扉は閉じられた。
外から錠は掛けない。その代わり、扉の開閉が分かる紙帯を三本貼る。碧自身にも一本渡し、火災や発作で出る場合は自分の帯を切ってよいとした。
救命と調査が始まった。
一方、地下では榊が再び目を開いた。
心拍は毎分十六。胸板の七脚のうち、心臓へ行く一本だけが素焼き片で調整されている。志乃は地上へ運ぶ前に、碧が選んだ名と救命措置を伝えた。
「助けたのか」榊が聞く。
「一晩だけ保たせた。あんたに許可を取る時間はなかった」
榊は天井を見た。
「私が嫌だと言えば、今から殺すのか」
「殺さん。助けた責任は助けた者が持つ。あんたに報恩も許しも求めん」
「では、なぜ知らせた」
「あんたの名を使った相手が近くにおる。会うか、会わんかを決めてもらうためや」
榊は長く考えた。
「今は会わない」
「いつまで」
「地上へ出て、自分で座れるまで」
期限ではなく状態を条件にした。志乃は、それでは永久に会わない可能性もあると伝えた。
「それでもいい」
榊の選択が記録された。
〈碧との面会を現時点で拒否。自力で着座できる状態になった後、本人へ再確認。拒否は証言協力の拒否を意味しない〉
碧へは、榊が会わないとだけ伝えた。理由や再確認条件は、榊の許可なく教えない。
夜八時、外から最初の新聞報告が届いた。
隣町の駅で、号外を読んだ憲兵が水城律と王仁三郎の拘束命令を出したという。記事の五種類は届いていない。邪術集団が軍需列車を襲い、田正雄輸送官が行方不明になったという一版だけが流れていた。
〈新聞〉線は町の外で生き続けている。
律たちは、反論記事を一部だけ送らなかった。
五種類の号外、印刷版の違い、受領時刻、列車の運行記録、野村の死亡推定、薬品の到着予定。それぞれを別の封筒へ入れ、異なる経路で送る。
鉄道便は止まっている。
自転車の郵便、寺の使い、薬品を運ぶ荷車、帰宅する旅客。四つに分けた。
全部が届く保証はない。
一つだけ届いて唯一の真実になることも避けられない。だから各封筒に、他に三系統の資料があると明記した。
夜九時、空貨車の内側から三度、壁を叩く音がした。
碧が申告に使うと決めた合図だった。
見張り三人が扉から距離を取り、声だけを聞く。
「位置核が再び動いている」
「回収か」巡査が尋ねる。
「違う。監察が私を見失ったため、第九口の全記録を消去する」
「いつ」
「夜半」
「確かめる方法は」春夫が聞く。
「地下の〈新聞〉線を見ろ。点滅が逆向きになっているはずだ」
門衛の言葉を、そのまま命令にはしない。
地下入口の見張りへ別経路で確認を頼む。
戻った報告は一致した。
〈新聞〉札の光が、交換機から外へではなく、外から交換機へ流れ込んでいる。
町の外へ出た号外と反応を使い、監察者が観測口の記録を回収し始めている。
記録庫には、無面が盗んだ顔だけではない。
町の人々の記憶、榊の十年、命令を止めた過程、そして碧が個体として残した全記録がある。
消せば敵の力を削げる。
同時に、被害を証明するものも失われる。
大橋が碧へ聞いた。
「止める方法は」
「観測口を閉じる」
「どうやって」
「記録庫を、監察より先に切り離す」
「切り離した記録はどこへ行く」
碧は答えた。
「耀盌へ移す」
誰もすぐ賛成しなかった。
管理者をなくしたばかりの器へ、町中の顔と記憶を移す。
空の器が、今度は町そのものを入れる器になろうとしていた。




