第五十四話 保護対象という席
律は、伸ばされた手をすぐには取らなかった。
「何をすれば、回収を止められる」
少年の指先が透けていく。
「耀盌へ私を戻す」
「それ以外を聞いています」
「ない」
「分からない、ではなく?」
少年は答えなかった。
回収される恐怖の中でも、自分の管理権を取り戻す機会を捨てきれない。助けを求めたから、すべてを正直に話すとは限らない。
佐和が紙へ三つの欄を作った。
〈門衛が確認したこと〉
〈門衛が推測していること〉
〈門衛が望んでいること〉
「耀盌へ戻れば止まる、はどれ?」
少年の唇が震えた。
「確認したこと」
「以前にも回収されたの?」
「別の現地個体が。管理権限を再取得した時点で、光は止まった」
「その個体は助かった?」
「三日後に監察へ統合された」
管理者へ戻しても、救命にならない可能性が高い。
「ほかに試された方法は」
「遮蔽。逃走。別個体との接続。すべて失敗した」
「なぜ失敗した」
「三本の回収線は、光ではない」
少年が空を見た。
「一つは権限。一つは記憶。一つは身体位置。壁や地下は遮れない」
三本の細光は、目に見える目印にすぎない。屋根の下へ隠しても、管理記録、保存された記憶、肉体の三つから追われる。
権限の線はすでに切れかけている。
耀盌が〈所有者なし〉になったことで、少年は管理者ではなくなった。だから回収が始まった。
記憶の線は、第九観測口の標本庫と監察者につながる。
身体位置の線は、少年自身の骨と皮膚へ刻まれている。
「全部切ったらどうなる」大橋が聞く。
「私であった記録が消え、身体は停止する」
助かることと、追跡不能になることも同じではなかった。
春夫が群衆の後ろから声を上げた。
「名前を持ったらええんやないか。田正雄やない、自分の」
少年は首を横へ振った。
「呼称は権限にならない」
「榊さんは、名前を選んだだけで人になったわけやない。それでも呼べるようになった」
少年は春夫を見る。
自分が電話線へ縛った少年だったと気づいているのか、表情からは分からない。
「あんたを助けたいわけやない」春夫は首の痕を押さえた。「何をしたか聞く前に、上の奴に消されるんが嫌なんや」
救いではなく、消去を拒む理由だった。
律は耀盌の周囲に置いた四枚の役割札を見た。
現状記録。人体影響の診察。移送安全。使用停止。
そこに五枚目を置く。
〈保護対象の状態を確かめる者〉
少年を管理者にしない。
所有物にも、無罪の客にも、即時処分する敵にも決めない。今夜だけ、生命を失わせず調査を続ける対象として扱う。
「対象という言葉も、器と同じやないか」野村の従兄が言った。
「違いは、本人が拒否できることです」律は少年へ向き直った。「この扱いを受けますか。拘束される。耀盌へ触れられない。町の人へ命令できない。質問への回答は拒否できる。ただし、拒否したことも記録する」
「拒否すれば、保護を打ち切るのか」
「命に迫る間は打ち切りません。調査の方法を変えます」
「逃げたら」
大橋が答えた。
「追う。必要なら止める。せやけど、逃げたことだけで撃つとは決めん」
少年は三本の光に削られながら、条件を聞いた。
「期限は」
「明朝まで。その時点で続けるか、本人を含めて見直す」
終わりのない保護は、名前を変えた拘束になる。
「受ける」
少年が言った。
その言葉を、百人の同意にはしなかった。少年自身が提示された条件を受けたことだけを記す。
「途中で、保護をやめたいと言ったら」少年が尋ねた。
「外へ出る自由と、町で自由に動く権限は分けます」大橋が答えた。「保護条件は拒否できる。せやけど、危険が残る間は別の拘束理由が必要かを、その場で見直す」
「私が何も答えなければ」
「黙る権利はある。黙ったことを無罪とも有罪とも決めん。ただ、回収を止める情報がなくなる危険は伝える」
「保護する側が、私を殺そうとしたら」
町民の何人かが顔を背けた。
実際、入口を焼けと言った者も、軍へ渡せと言った者もいる。
「三人以上が同じ場所で判断する。一人は警察、一人は被害を受けた側、一人はどちらにも属さない者」佐和が言った。「それでも安全とは保証できない。誰が何を言ったかは残す」
少年は、その不完全な答えを聞いた。
監察者なら「規則上安全」と告げただろう。律たちは、守る側も間違い、怒り、復讐する可能性を隠さなかった。
「明朝の見直しで、私の意見は一票か」
「票にはしない」律が答えた。「あなたが何を望むか、被害を受けた人が何を求めるか、逃走や再接続の危険が何か。別々に扱う。多数であなたの生命を終わらせない」
少年は初めて、条件を自分から言い足した。
「監察へ私の位置を送る行為を、保護側も行わないこと」
佐和が六つ目の条件として記した。
問題は、紙に書いただけでは三本の回収線が止まらないことだった。
「監察が個体として数える条件は?」律が聞く。
「管理実績。固有記憶。位置核」
「管理者でなくても、固有記憶と位置があれば個体でしょう」
「監察にとって、管理しない現地個体は余剰です」
「監察の分類を使わない」佐和が言った。「この町で、今夜この人を一人として数える条件を作る」
少年は理解できない顔をした。
律たちは三本を一本ずつ扱った。
権限については、何も与えない。耀盌の〈所有者なし/用途別保全〉を維持する。
記憶については、標本庫へ独占させない。少年が自分で残したい記憶を三つ選び、別々の場所へ置く。ただし秘密の口令にはしない。
少年が選んだ一つ目は、軍需箱の中で初めて聞いた雨音。
二つ目は、榊が箱を開けたとき差し入れた毛布の匂い。
三つ目は、十年前、試験所の窓から見た柿の実だった。
立派な情報ではない。
境界任務にも命令権にも役立たない。だからこそ、監察の管理記録とは別に少年自身の記憶として残せる。
一つは学校の生徒が文章にした。一つは佐和が絵にした。一つは印刷所主人が活字へ組んだ。三か所へ分け、少年が撤回を望めば破棄する期限も明朝とした。
記憶の回収線が細くなる。
身体位置については、少年が仕組みを隠そうとした。
「位置核は外せない」
「どこにある」志乃の看護婦が尋ねる。
「答えない」
「分かった。触らずに測る」
緑粒子が吸い上げられる順を観察する。袖、肩、胸、最後に左の脇腹。そこだけ皮膚が消えず、光が内側へ集まってから空へ抜けている。
位置核は左脇腹にある可能性が高い。
少年は否定しなかった。
志乃が地下から運ばせた素焼き片を、体へ触れない距離で三方向へ立てる。耀盌を絶縁したのと同じ材質だ。完全に遮れないが、位置核から出る光が三方向へ分かれた。
一つの座標として読めなくなったのか、空の三光が揺れる。
少年の足が屋根へ戻った。
粒子化は止まらない。
だが速度が落ちた。
「保護対象の位置を、一か所に固定しない」律が言った。「三人が別々に見て、今いる範囲だけを記す。正確な一点は誰も持たない」
車掌は車両上。消防組は線路内。町会は学校敷地。
三つの範囲が重なる場所に少年はいる。
監察者へ渡す座標ではなく、町で見失わないための範囲だった。
空の光がさらに細くなる。
少年が屋根から降りた。
膝をつく。
完全には助かっていない。右手の小指と学生服の袖口が半透明のままだった。
志乃の看護婦が、透明になった指へ触れずに熱を測った。左手より四度近く低い。脈は右手だけ拾えない。位置核の周囲には毎分六回の緑振動がある。
保護記録を置く前は、粒子が十息ごとに一寸ほど腕を上がっていた。三つの記憶を外へ分け、位置を範囲記録へ変えた後は、三十息数えても境界が動かない。
「止まったように見える、やな」看護婦が言った。
律はそのまま書いた。
〈回収停止の可能性。右小指の低温・脈拍不検出は継続。保護手順との因果は未確認〉
救えたと宣言すれば、次に悪化したとき誰かが記録を隠したくなる。今夜を越えられるかは、まだ分からなかった。
それでも空へ吸われる動きは止まった。
監察者の声が、雲の上から降る。
「未登録保全は境界違反である」
律は空へ答えなかった。
少年へ聞く。
「今夜、何と呼ばれたいですか」
少年は田正雄と言いかけた。
榊の顔を思い出したように、口を閉じる。
「碧」
短い名だった。
「碧と呼べ」
今度は、権限の付いていない名前だった。




