第五十三話 管理者はいない
志乃は心臓が止まった時刻を、午後六時四分と記した。
〈管理者不在〉が耀盌へ現れた時刻と、ほぼ同じだった。
だからといって、空席を作ったことが榊の心停止を起こしたとは限らない。胸板の動作、鉄道線を外した影響、門衛の操作、榊自身の衰弱。原因はいくつもある。
それでも今は、因果を議論している時間ではなかった。
志乃は胸骨圧迫を始めた。
緑板は六連の振動を続けているが、人間の心臓は動かない。板が生命を維持しているのではなく、心停止後も記録だけを送り続けている可能性がある。
「〈鉄道〉を戻すか」地下へ着いた律が聞く。
「戻せば動く証拠はない。けど試す価値はある」
志乃は榊本人の事前意思を確認した。
榊は医療判断を一時間だけ志乃へ預けていた。その時間は過ぎている。心停止時に本人へ聞き直せない。
事前に「地上へ出たい」と言ったことを、どんな処置でも望んだ包括同意にはできない。
「一回だけ、五分。戻して心拍が出なければ再び外す」志乃が決めた。「命を助けるための緊急処置として、私の名でやる」
大橋が素焼き片を抜き、〈鉄道〉接点を一時戻した。
緑糸が光る。
胸板の振動が七連へ戻る。
榊の心臓は動かない。
一分。
二分。
志乃は圧迫を続ける。
三分目、榊の喉から声が出た。
「管理者を、設定せよ」
監察者の声だった。
心拍はない。
生命維持ではなく、発声経路だけが復旧した。
「外す」志乃が言った。
五分を待たずに外す理由を記す。処置目的に合わず、監察者の接続だけを強めたため。
素焼き片を戻す。
緑糸が暗くなる。
律は耀盌側の〈管理者不在〉を撤回すべきか迷った。管理者を置けば榊の心臓が動く可能性は残る。
門衛が狙っていたのは、その迷いだった。
地下の壁から少年の声がする。
「私を管理者へ戻せば、榊を再起動できます」
「保証は」律が聞く。
「過去十年の稼働記録」
「十年、椅子へ縛った記録です」
「生存していた」
「本人が望まない形で」
「死者は望めない」
「死ぬ前に、地上へ出たいと言った」
少年は黙った。
律は自分へも同じ問いを向けた。
榊を救うという名目で、再び門衛の管理へ戻せば、本人の最後の要求を裏切る。拒否して死なせれば、理念のため救命手段を捨てたことになるかもしれない。
二択に見える。
無面が何度も作った形だった。
「管理者を戻す以外の方法を探します」
「時間切れです」門衛が答える。
「誰が決めた」志乃が言った。「体はまだ温かい」
胸板と心臓を分けて考える。
志乃は緑板の周囲を触診した。板は胸骨の上ではなく、その下へ細い脚を伸ばしている。七本のうち二本は心臓、一本は横隔膜、残りは首の神経へ向かう。
「板全体を動かす必要はない。心臓へ行く脚だけ刺激できるかもしれん」
窯場から持ち込んだ素焼き片を細く割り、緑板と神経脚の間へ一本ずつ差し込む。絶縁ではない。どの脚が何を担うか、反応を分けて見るためだ。
一本目。
榊の左腕が動く。
二本目。
喉が震える。
三本目で、心臓が一度打った。
志乃は位置を固定する。
もう一度。
間隔は長いが、自発的な拍動だった。
「圧迫を弱める」
律が時刻を読む。大橋が拍動を数える。
一分に九回。
十回。
十二回。
榊が浅く息を吸った。
目は開かない。
監察者の発声も戻らない。
管理者を再設定せず、板の生命補助機能だけを使えた。
志乃は成功とは書かなかった。
〈心拍再開。持続未確認。脳機能未確認〉
地上では、三者が第四六九号箱を開ける準備をしていた。
封を破るのではない。各封の状態を描き、開封目的を限定する。
目的は二つ。
耀盌が榊の胸板と接続しているか確認すること。
内部の管理者登録を、個人名なしで停止できるか試すこと。
所有権、軍への引き渡し、破壊は決めない。
車掌、宿直巡査、町会代表が、それぞれ自分の封を外した。誰か一人の許可で開けた形にしない。反対していた町民も立ち会い、異議を別紙へ記す。
箱を開ける。
耀盌は、緑の光を満たしていた。
器の内側に、人名が輪になって回っている。
田正雄。片山。大橋。志乃。佐和。律。
最後に、榊。
本人が捨てたはずの名まで、候補として取り込まれている。
律は器へ触れなかった。
名を消そうとも命じない。
三者は、白紙の札を器の周囲へ置いた。札には名前ではなく行為を書く。
〈現状を記録する者〉
〈人体への影響を診る者〉
〈移送の安全を決める者〉
〈使用を止める者〉
担当者は変えられる。札へ名前を書かず、誰が担当したかは外の帳面へ時刻ごとに残す。
耀盌の人名が、一つずつ遅くなる。
門衛の声が車内へ響く。
「管理者不在では、器は保全できない」
車掌が答えた。
「保全は俺らがする。器に俺らの上役を決めてもらわん」
「事故時の決定が遅延する」
「遅れる。せやから役割を決めた」
「責任主体が分散する」
「責任も分けて書く」
「統合効率が低下する」
「人間を一つに統合せんでええ」
器の中で、最後の人名が止まった。
〈田正雄〉。
その文字に、横線が引かれる。
次に〈片山〉。
同じく消える。
候補がすべて消えた。
器の底へ新しい表示が浮かぶ。
〈所有者なし/用途別保全〉
緑の光が弱くなる。
その瞬間、空の上で三つの緑星が光った。
星ではない。
雲の上から地上へ向けられた、三つの細い光だった。
門衛の少年が有蓋車の屋根に現れる。
初めて、その顔に恐怖があった。
「管理実績が切れた」
三本の光が少年の体を囲む。
学生服の袖から、緑の粒子が空へ吸い上げられ始めた。
「回収が始まる」
町民は少年から離れた。
「あいつを助けるんか」野村の従兄が言った。「野村を殺した連中やぞ」
「殺したのが門衛本人かは、まだ分からない」佐和が答える。
「命令は出した。列車も動かした。榊さんを十年縛った」
それは否定できない。
薬を待つ患者の兄は、少年を助ける間に輸送が遅れるなら反対だと言った。春夫は、自分を電話線へ縛った仕掛けを誰が命じたか聞くまで死なせるなと言う。元軍曹は敵性存在として拘束し、軍へ渡せと主張した。
一方、学校の生徒は、目の前で消されようとしている者を見殺しにしてよいのかと尋ねた。
意見は割れた。
律は多数を数えなかった。
「助けることと、自由にすることは別です。助けることと、耀盌の管理者へ戻すことも別です」
「助けたあと逃げたら」大橋が聞く。
「拘束が必要なら、理由と期限を決める。証言を取るためだけに生かすのではなく、本人にも拒否と弁明を認める。でも、したことの調査は止めない」
「人やないかもしれん」
「人かどうかを、救命の条件にしません」志乃からの伝令を運んだ看護婦が言った。「産院では、誰の子か分からん赤ん坊でも息をさせる」
門衛は屋根の上で会話を聞いていた。
「なぜ、条件を話す」
律が見上げる。
「助けた代わりに従え、と後から言わないためです」
少年の体から、また一片、緑の光が剥がれた。
「監察は交渉しない」
「僕たちは監察者ではない」
「私はあなたたちを殺そうとした」
「だから調べる。でも、上の者に消されることを刑罰にはしない」
佐和はその言葉を紙へ残し、救命措置は免罪、服従契約、管理権の復活を意味しないと追記した。門衛にも読めるよう、紙を車両の壁へ掲げる。
少年は理解できないものを見る顔をした。
罰する権利を持たない監察者が回収し、被害を受けた町民が救おうとしている。その順序は、少年の知る管理規則と反対だった。
律は車両の外から少年を見上げた。
「止める方法は」
「耀盌へ、私を管理者として戻せ」
「それ以外で」
少年は答えなかった。
皮膚が透け、その内側に人間とは違う細い骨が見える。
少年は手を伸ばした。
命令ではなかった。
「助けてくれ」




