第五十一話 新聞は命令書ではない
学校へ向かう道で、号外を持った子供たちとすれ違った。
高等科の生徒が十人ほど。教師に配れと言われたという。誰も脅されていない。紙には学校長の印があり、戦時協力の一環として各戸へ届けるよう書かれていた。
律は紙を取り上げなかった。
「どこでもらいましたか」
「講堂です」
「誰から?」
「田先生」
「どんな人でした」
生徒たちは答えが違った。
若い男。老教師。軍人。学生服の少年。
同じ講堂で紙を受け取ったのに、見た顔が揃わない。
「配るなと言わないんですか」佐和が聞く。
「僕たちが止めれば、記事どおり言論を封じたことにされます」
「ほな、このまま?」
律は生徒へ頼んだ。
配るとき、学校が記事内容を確認したとは言わないこと。自分が誰から、何時に受け取ったか、紙の余白へ書くこと。書きたくない者は配らず学校へ戻してよいこと。
命令ではなく、選択肢を伝える。
三人は紙を持ったまま進んだ。二人は帰ると言い、残りは迷った。
学校の講堂には、百部どころか五百部以上の号外が積まれていた。
輪転機はない。町の小さな印刷所で刷れる量ではなかった。紙質も一部ずつ違い、古い教科書、配給票の裏、軍の通達用紙まで使われている。
印刷所の主人が床へ座り込んでいた。
「版は組んだ。せやけど、こんな数は刷ってへん」
昨夜、軍の依頼だという原稿が届いた。内容には疑問を持ったが、正式印と紙の割当票がある。試し刷りを十部作り、朝に確認を求めるつもりだった。
目を離した間に、活字版から緑の糸が伸び、紙が勝手に増えたという。
主人の証言だけでは確認できない。
だが活字版には、使ったはずのない文字まで摩耗している。号外の五百部は同じ版面に見えながら、見出しの一字が少しずつ違った。
〈邪術〉
〈妖術〉
〈幻術〉
読む者が最も恐れる言葉へ変わっている。
新聞そのものが、相手に合わせて内容を変える無面になっていた。
学校長は、自分の印が本物だと認めた。
「昨日、軍の勤労動員名簿へ押した。印箱から離したのは一刻もない」
印影を盗むのに、印を持ち出す必要はない。学校長が押す動作、紙へ残る形、印箱の置き場所。そのどれかを標本庫が記録していればよい。
「学校を閉じます」校長が言った。
「いつまでです」律が聞く。
「安全になるまで」
「安全を誰が決めるんです」
校長は答えられなかった。
学校を閉じれば、生徒は散らばる。号外をどこで受け取ったか確認できなくなる。門衛は「邪術集団が学校を止めた」と次の記事に書ける。
授業は行わない。ただし校庭と講堂を開き、受け取った紙を持ち寄る場所にする。生徒を帰すか残すかは家庭と本人が選ぶ。教師は記事内容を教えず、紙の違い、受領時刻、配布者の証言を整理する。
学校の役割を、命令の配布所から検証の場所へ変えた。
新聞への対処も、発行禁止にはしなかった。
印刷所の主人は活字版を壊そうとしたが、佐和が止めた。
「壊す前に、何が変わったか写して」
五種類の号外を横へ並べる。
共通する事実は、軍需列車が止まったこと、野村が死亡したこと、詰所が燃えたこと、薬品が遅れたこと。
確認できないのは、律たちが地震を起こした、野村を殺した、薬品を盗んだという部分。
異なる紙では、同じ人物が別の場所にいたことになっている。
印刷所は訂正号外を出さなかった。
訂正という形にすれば、どちらか一方が唯一の正しい物語になる。代わりに一枚の大きな紙へ、確認済み、証言のみ、未確認、相互矛盾の四欄を作った。
見出しは小さかった。
〈本日配布された号外について〉
煽る言葉はない。
誰でも自分の号外を持って来て、どの版かを照合できる。新しい事実が出れば欄を移す。律たちへの疑いも削除しない。疑いの根拠が何かを記す。
「こんな地味な紙、誰が読む」印刷所の主人が言った。
「読まれないかもしれません」律は答えた。
派手な嘘より、慎重な記録は遅い。
それでも記事を焼けば、嘘を信じた者の記憶だけが残る。残して比べるしかなかった。
生徒の一人が手を上げた。
「僕らが家で読んで説明します。先生が言え言うたんやなくて、自分で見た違いを」
校長が止めかけた。
律は生徒へ危険を伝えた。家で反発されるかもしれない。軍の命令へ逆らったと見られるかもしれない。無理に行く必要はない。
最初の十人のうち四人が残った。
四人は記事の内容ではなく、紙によって文字が違うことだけを伝えると決めた。
午後六時、学校長は自分の印だけで出た配布命令を停止した。以後、学校が生徒へ校外活動を求める場合、担当教師、生徒代表、保護者か町会の三者が目的と帰還時刻を確認する。
命令をなくすのではない。
子供を誰かの手足にする命令へ、子供自身の確認を加えた。
印刷所も、匿名の軍原稿をそのまま刷らない。差出人、受領時刻、確認できた資料を紙面へ付す。軍事機密で出典を書けない場合は〈出典非公開〉と明記する。
秘密を禁止しない。
秘密であることを、真実の証明に使わせない。
地下の〈学校〉線が暗くなったと、入口の見張りから報告が来た。
〈新聞〉線は消えない。
弱くなったり、強くなったりを繰り返している。
記事はすでに町の外へ出た。駅へ向かった三百部のうち、何部かは列車へ載せられた可能性がある。外の読者には、比較する五種類の紙も、町の記録も届いていない。
「追いかけて回収するか」大橋が聞いた。
「回収しません」印刷所の主人が答えた。「次の紙を出す。遅くても、出し続ける」
自分の仕事を取り戻す声だった。
夜になり、講堂の窓へ石が投げ込まれた。
紙が巻きつけてある。
〈耀盌を渡せ。さもなくば次号に全員の家族を載せる〉
脅迫状の下に、学校長の印と、印刷所主人の署名があった。
二人とも目の前にいる。
今度は誰も、署名だけで信じなかった。
だが窓の外には、号外を読んだ町民が集まり始めていた。
「耀盌を差し出せば、町は助かるんやろ!」
「水城を外へ出せ!」
声は十、二十と増える。
門衛は命令を偽造するだけではなく、読んだ人間の本当の恐怖を集めていた。
最前列の男は、線路の向こうで薬を待つ患者の兄だった。血漿が一日遅れると聞き、弟が死ねば誰が責任を取るのかと叫んだ。
その隣の女は、詰所の火で家の軒を焼かれていた。消防組が間に合わなければ家ごと失っている。耀盌を持っているから狙われるのなら、町の外へ捨てろと言う。
老人は野村の従兄だった。
「因果は分からん言うて、あいつの死まで分からんで済ますんか」
誰も、新聞だけを理由に怒っているのではない。
記事は実際の損失へ、分かりやすい犯人と解決策を与えた。律を追い出し、耀盌を渡せば終わる。その約束が本当か確かめられなくても、何も決められない苦しさより楽だった。
反対側から、産院の春夫が首の痕を見せた。
「渡したら、あいつらがもう人を使わんいう証拠はあるんか」
声は震えていた。
春夫も律を全面的に信じているわけではない。ただ、自分を電話の部品にした相手へ道具を渡せば安全になるという説明を信じられなかった。
議論は二つに割れなかった。
律を疑う者。門衛を恐れる者。軍令に従いたい者。薬を急ぐ者。地下を埋めたい者。榊を救うべきだと言う者。それぞれ理由が違う。
一つの賛否へまとめれば、また多数の札に従う形へ戻る。
律は講堂の壇上へ上がらなかった。
上から説明すれば、次の命令者になる。
校庭へ降り、最前列の男と同じ高さに立つ。
「耀盌を渡すべきだと思う理由を、順に聞かせてください」
男が答える前に、校舎の裏で破裂音がした。
第四六九号箱を隔離した有蓋車の方角だった。
三つの封印は破られていない。
それでも車両の内側から、緑の光が窓を突き破っている。
門衛は箱を開ける必要がなかった。
耀盌の方が、彼の名前を管理者として受け入れ始めていた。




