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第五十話 名を返さない少年

少年は頭を下げたまま、動かなかった。


周囲の町民も近づかない。百本の蝋燭はすでに半分ほど短くなり、夕方の風に炎を揺らしている。


「返す、とは」少年が尋ねた。


声変わり前の、澄んだ声だった。


「私の名で命令するな。私の経歴を使うな。私が同意したと書くな」榊は一息ごとに区切った。「田正雄を、生きているお前の名にするな」


少年は顔を上げる。


「十年間、その名で生きたのは私です」


「十年間、椅子に縛られたのは私だ」


「あなたは社会から消えていた」


「お前が消した」


「軍はあなたを逃亡者として処理した。家族はいない。給与口座は閉鎖。捜索も終了。私が使用を始めた時点で、田正雄という社会的機能は空いていました」


人がいなくなれば、名前は空席になる。


少年は本気でそう考えているようだった。


「落とし物やない」志乃が言った。「持ち主を地下へ縛って、空いたと言うな」


「縛ったのは試験所です。私は収容された側だった」


榊の肩が動く。


「嘘だ」


「あなたが箱を開けたとき、私は拘束環の中にいた。寒いと言った。覚えているでしょう」


榊は否定できなかった。


少年も最初から管理者ではなかった。


軍需箱に入れられ、人間の試験所へ運ばれた。その後、どうやって榊を地下へ接続し、名前を使い始めたのかは語っていない。


律は少年へ尋ねた。


「あなた自身の名前は」


「地球の発声器官では再現できない」


「呼んでほしい名前は」


「田正雄」


榊の指に力が入り、律の肩へ食い込む。


「それ以外で」


「必要ありません」


「必要ないのではなく、その名に付いた権限が必要なんでしょう」佐和が言った。


少年は佐和を見た。


「名前と権限を分離する発想は、人間にも存在しなかった。軍印を持つ者が軍を動かし、戸籍名を持つ者が財産を持つ。私は人間の規則に従った」


「規則を知って、穴だけ使った」大橋が答える。


「穴を設計したのは人間です」


少年の言葉には、逃げだけではない事実があった。


印を見て従ったのも、逃亡者なら本人確認不要としたのも、軍需なら箱を開けないと決めたのも人間だ。緑星の技術がなくても、同じ穴を別の誰かが使えた。


だから少年の行為が正しくなるわけではない。


「人間の規則に従ったなら、今その規則で権限を止められたことも受け入れるべきです」律が言った。


少年の緑の瞳が細くなる。


「局地的な私文書です。国家記録では、田正雄は活動中です」


「では、町では活動できない」


「町の外ではできる」


「町の外でも、同じように止める人が出ます」


「出させないために、観測口がある」


目的を隠さなくなった。


「観測口を作ったのは、あなたですか」律が聞いた。


「違います」


「監察者?」


少年は地下を見た。


「監察権限は私を管理者とは認めない。私は現地適応個体です」


「仲間やないんか」大橋が言う。


「同じ起源であることと、同じ権限を持つことは違う」


監察者にとって、少年もまた地球側へ置かれた器にすぎない。だから軍帽の存在は、田正雄の管理名が停止されると直接接続してきた。


「では、なぜ従う」榊が聞いた。


「従わなければ、私は回収される」


「回収とは」


「機能停止と記憶統合」


少年は淡々と答えた。


無面の標本庫へ顔が保存されるように、少年の記憶も上位へ吸い上げられ、個体としては終わるのかもしれない。


「怖いんですか」律が聞いた。


「生存継続を選ぶことを、あなたたちは恐怖と呼ぶ」


「そのために榊を十年使った」佐和が言う。


「私が生きるためです」


「榊も生きたかったかもしれん」


「生命維持した」


「椅子から立てないようにして」


少年は答えなかった。


自分が上位にされることを恐れる行為を、榊には行った。その矛盾を理解できないのか、理解した上で必要としたのかは分からない。


「名前を返せば、監察者に消されるんですか」律が尋ねる。


「管理実績を失う。境界維持能力なしと判定される可能性が高い」


「だから返さない」


「そうです」


初めて、少年は権限ではなく自分の事情で答えた。


律は同情を同意には変えなかった。


少年が消される危険と、榊の名を盗み続けてよいかは別の問いだった。


少年は黒い学生服の内側から、一冊の身分証を出した。写真には今の少年の顔。氏名欄は田正雄。生年月日は明治四十四年で、三十三歳になるはずだった。


写真と年齢が一致しない。


それでも軍、鉄道、府の印が重なり、更新日は今年だった。


「会った者は、年齢の違いを疑わなかったのか」大橋が聞く。


「相手が期待する年齢の顔を見せました」


今は、固定した緑眼の少年として立っている。これは本当の姿とは限らない。ただ、無面の標本から借りた顔でもないらしい。


「榊の呼び名を、なぜ知っていた」律が聞く。


少年は榊の胸を指した。


「生命維持板は第九口の管理端末です。呼吸、脈拍、発声を監察へ送る。私は管理名を介して記録を受け取れる」


「今も?」


「受け取っています」


榊が目を閉じた。


自分で選んだ呼び名まで、胸の板を通じて盗まれていた。


志乃は布を畳み、榊の胸へ何重にも当てた。光や音を遮る効果は分からない。少年の反応を見るため、榊へ小声で数字を一つ選ばせる。


榊は答えず、律の手帳へ指で一画書いた。志乃と律だけが見る。


「何を選んだ」少年が聞く。


「答えません」


少年は一秒待った。


「七」


違った。


榊が選んだのは四だった。


胸板から音声と生理反応は読めても、紙へ指で書いた内容までは直接読めない。少なくとも今は。


律は結果を少年へ教えなかった。弱点を確認したことだけ自分たちの紙へ記す。


少年は表情を変えず、地下入口へ視線を移した。


「榊を地上へ運べば、板の有効距離を外れる。心臓は停止します」


「脅しか」大橋が言う。


「仕様です」


「仕様と呼べば、責任が消えると思うな」榊が息を吐いた。


少年は初めて榊をまっすぐ見た。


「あなたを生かしたのも、その仕様です」


「私が頼んだか」


「死を選ぶ能力は、接続時にはありませんでした」


「今はある」


「今も判断能力は損傷している」


志乃が間へ入る。


「判断できる範囲は診た。全部やない。せやから一つずつ本人に返してる」


少年は志乃へ興味を示した。


「医療系統は未整備でした。あなたを新しい接続候補にできます」


「断る」


「拒否設定は――」


「今した」


町民の間から、小さな笑いが起きた。


少年は笑いの意味を理解しようと周囲を見る。怒りではない。自分の規則が通用しないことへの戸惑いだった。


「取引を提案します」


学生服から、今度は新聞紙を一枚出した。


まだ夕刊の時間ではない。だが日付は今日、号外とある。


見出しにはこう書かれていた。


〈地震被災地で邪術集団、軍需列車を妨害〉


水城律、王仁三郎、大橋、片山の名が並ぶ。野村の死、詰所火災、薬品遅延。出来事自体は本当だった。因果だけが逆に結ばれている。


「耀盌二器と地下記録を引き渡せば、発行を止めます」


「もう刷った紙を持ってる」佐和が言った。


「一部です。百部は学校へ、三百部は駅へ向かっています」


地下交換機で未解除だった〈学校〉と〈新聞〉。


少年は軍や警察で奪えなくなった耀盌を、世論と子供たちの手で差し出させるつもりだった。


「断れば、町の外であなたたちは犯罪者になります」


律は号外を受け取らなかった。


「発行を止めなくていい」


少年の眉が、わずかに動く。


「読んだ人が確かめられるよう、こちらの記録も出します」


「国家がどちらを信じると思う」


「選ぶのは国家だけではありません」


少年は号外を地面へ置いた。


「では、学校で会いましょう」


次の瞬間、学生服だけがその場に落ちた。


少年の体は、蝋燭の影へ溶けるように消えていた。


遠くで、学校の始業鐘が鳴った。


日没後の校舎で鳴るはずのない鐘だった。


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