第四十九話 鉄道を返す
鉄道線を外すため、律たちは再び地上へ戻った。
榊を一人にはしない。志乃が円形室へ残る。監察者の命令へ返事をせず、脈、呼吸、胸板の温度だけを測る。異常があれば入口の板音を止める。
「私が無面になって出てきたらどうする」志乃が聞いた。
律は答えを用意できなかった。
「出てきた人の権限を、すぐ使わせません。診察内容は地上の記録と照合します」
「本人やと証明できるまで閉じ込める?」
「証明はできないかもしれません。だから期限を決める」
志乃自身が二時間を選んだ。二時間後に地上へ戻り、別の医者か産院の看護婦が交代する。戻った志乃は患者への指示権をいったん預けるが、本人としての発言は封じない。
駅では、新しい暗号表を作る作業が始まっていた。
府の統制所へ更新を求めても、そこが侵入されている可能性がある。町だけで勝手に暗号を変えれば、他駅との運行が食い違う。
駅長は本線そのものを二つに分けた。
受損路基を挟む区間は、物理的にレールを外したまま閉鎖。ここを通る命令は、暗号が正しくても実行不能とする。東西の列車はそれぞれ手前で止め、貨物と乗客を道路で振り替える。
閉鎖区間の両端には、別々の保線員を置く。
再開には、両端の路盤確認、駅長の運行判断、機関士の現場確認が必要。三つのうち一つが反対すれば通さない。ただし一人が永遠に拒否して鉄道を占有しないよう、反対理由は日ごとに見直す。
「戦争中に、こんな悠長なことをしていたら処罰される」元軍曹が言った。
「今走らせたら谷へ落ちる」駅長は答えた。「処罰を恐れて列車を落とす方が、よほど軍需妨害や」
暗号表も全廃しなかった。
符号は命令内容を短く伝えるために使う。だが、符号が正しいことを命令者本人の証明には使わない。田正雄の特扱穿孔は即日無効。軍用封印箱でも、番号の連続と重量を現場で確認する。
車掌は新しい運行帳の最初へ書いた。
〈暗号は内容を運ぶ。責任は運ばない〉
誰が判断したかは、別に名前を残す。
正午から止まっていた医薬品は、道路輸送へ切り替えられた。荷車が足りず、窯場の水甕を運ぶ予定だった二台を使うことになる。
政一は反対した。
「甕は地震の集落へ今日届ける約束や」
薬も必要。水甕も必要。安全手順を作っても、足りない荷車は増えない。
医者、窯場、駅、集落の代表が、到着時刻と代替手段を出した。血漿のうち急ぐ十二箱を一台へ。水甕は割れにくい厚手だけをもう一台へ積み、途中の村で荷を分ける。残る薬と甕は翌朝。
誰も満額を得ない。
決定理由と遅れる品を記録し、後で「すべて救った」と美化しないことにした。
午後五時、鉄道関係者へ新手順が読み上げられた。
駅員の一人が尋ねた。
「田正雄本人が来たらどうする」
「本人という言い方をやめる」駅長が答えた。「その名を使う者が来ても、命令内容と現場を別に確かめる」
「顔も身分証も本物なら?」
「顔と証明書は、その人がそこにいる証拠や。線路が安全という証拠やない」
人物を完全に見抜けなくても、列車を落とさない判断はできる。
写しが両端の保線所、駅、機関区へ置かれた。
地下からの伝令が来る。
〈鉄道〉札の光が消えた。
律、大橋、駅長の三人が地下へ向かった。駅長は自分の系統が何に接続していたかを見る責任を引き受けた。
円形室へ戻ると、志乃は榊の隣に座っていた。
二時間にはまだ早い。
「胸の熱が下がった。鉄道が消えた時刻も記録した」
〈鉄道〉札は暗い。
大橋が接点へ素焼き片を差し込む。緑糸を切らず、札だけを隔離する。
榊の胸板から、細い光が一本抜けた。
心拍が十二回から十八回へ増える。
人間としてはまだ遅い。それでも機械の七連振動は六回へ減った。
一本外すごとに、緑板の支配が弱まる。
同時に、板が補っていた生命維持も弱まるかもしれない。
律たちは地下の変化だけで成功と決めなかった。
駅長が入口へ戻り、両端の保線所へ人を走らせる。地下では志乃が榊を診続け、律と大橋が〈鉄道〉札の光、交換機のベル、壁標本の反応を記録する。
三十分後、地上から最初の報告が届いた。
西側保線所で、駅員が繰り返し聞いていた「線路は安全」という幻声が止まった。東側では、田正雄名義の再開電文が一通届いたが、暗号の照合数字が昨日のものへ戻っていた。新手順を知る者は受理しなかった。
一方、機関区の若い職員は激しい頭痛を訴えた。鉄道線を外した直後から始まっている。接続が切れた反動か、別の原因かは不明だった。
成功とだけ記録すれば、その職員の痛みが消える。
律は〈幻声停止一件・旧暗号電文一件・頭痛発生一件・因果未確認〉と並べた。
さらに一時間、線路を動かさない。頭痛が悪化すれば地下接点を一時戻す選択も残した。ただし戻す場合も田正雄名義の権限は復活させず、接点の生理的影響だけを調べる。
四十五分後、職員の頭痛は軽くなった。新しい発作はない。
そこで初めて、鉄道線を暫定的に隔離継続と決めた。
「次を急がない」志乃が言った。「一時間、体がどう変わるか見る」
監察者は軍帽の下で沈黙していた。
〈監察〉札だけが強く光る。
駅長は交換機の暗号表を見た。自分が去年紛失した一日分の表もある。紛失届には、風で飛ばされたと書いた。
「あの日、拾ったいう若い兵が届けてくれた。礼を言うて、そのまま受け取った」
「顔を覚えていますか」律が聞く。
「覚えとると思ってた」
壁の標本庫には、その若い兵らしい顔が三つ並んでいた。どれも少し違う。
駅長は一つを選ばなかった。
「分からん。これからは、分からんと書く」
榊が目を開いた。
「門衛は、顔を持たないわけではない」
「どんな顔です」律が聞く。
「変わらない顔を、隠している」
「緑の目の子供?」
「子供に見えた。十年後も。だが子供ではない」
榊は息を整えた。
「あれは、この国で育った。言葉も、礼も、命令の通し方も、人から学んだ。無面は道具だ。あれは……人の中へ入るため、人になろうとした」
監察者が初めて榊の言葉を遮らなかった。
律には、その沈黙が肯定か放棄か分からない。
入口側から、板が五回割られた。
予定にない合図。
地上で訪問者があり、全員戻れという意味だった。
通常の訪問者なら三回でよい。五回は、相手が既存のどの組織にも属さず、しかも田正雄名義の停止文を読んだ上で面会を求めている場合にだけ使う合図だった。
名前を尋ねた伝令へ、訪問者は答えなかったという。
代わりに第四六九号箱の最初の重量、暗号表を削った刃の形、地下にいる榊が今選んだ呼び名を告げた。
最後の情報は、地下からまだ外へ運ばれていない。
監察者か、交換機と別の経路で榊の言葉を読める存在だった。
四人は榊をどうするか決めなければならない。
「ここへ残るか、一緒に入口まで動くか」志乃が尋ねた。
「動けば板が外れるかもしれん。残れば監察者と二人や」
榊は監察者を見た。
「入口まで行く」
椅子から立つため、胸板につながる残りの糸へ余裕を作る必要がある。切らずに、交換機側の巻き取り輪を手で戻す。大橋と駅長が機構を押さえ、志乃が心拍を測る。
榊は十年ぶりに、自分の足を床へつけた。
膝が崩れた。
律が支えようとすると、榊は首を振った。
「肩だけ貸せ。運ぶな」
自分で一歩を出す。
緑糸が背後で長く伸びる。
円形室を出る直前、監察者が告げた。
「門衛が到着した」
地下入口の外には、一人の青年が立っていた。
軍服ではない。仕立てのよい黒い学生服。背は低く、十四、五歳に見える。
目だけが、暗い緑色だった。
青年は榊を見て、丁寧に一礼した。
「十年ぶりですね、田正雄さん」
榊は律の肩を借りたまま答えた。
「その名を、返せ」




