第四十八話 榊と呼べ
志乃は質問をしなかった。
まず男の手首へ触れた。脈は一分に十二回ほど。人間なら意識を保てない遅さだが、皮膚にはわずかな温かさが戻っている。呼吸は深く、間隔が不規則だった。
「触ってええか」
男の瞳が志乃へ動く。
「……医者か」
「産婆や。怪我人も診る。嫌なら触らん」
男は自分の手首を見た。志乃の指が置かれていることを理解するまで、数秒かかった。
「嫌だと言えば、やめるのか」
「今の診察はやめる。死にそうでも、何が危ないかは言う」
「命令ではないのか」
「あんたの体や」
男は目を閉じた。
「続けてくれ」
志乃は大橋に時刻を書かせた。律には男の言葉を一語ずつ記録させる。ただし、返事が遅くても繰り返し問い詰めない。胸の緑板が光ったら、その質問を止める。
監察者は空席の横に立ったままだった。
「器に意思確認は不要」
志乃は振り返らない。
「診るのは私や。黙っとき」
緑の輪郭が一瞬膨らんだ。しかし〈医療〉という札は交換機にない。産院への接続は〈配給〉か〈軍〉を迂回していたのかもしれない。監察者は志乃の手を直接止められなかった。
男の胸へ聴診器を当てる。
心音は一つではない。
人間の心臓がゆっくり打つ間に、緑板の内側で細かな振動が七回続く。血を送る拍動というより、何かを読み書きする機械の音だった。
「板を外せるか」男が聞いた。
「今すぐは無理や。どこまで心臓の代わりをしとるか分からん」
「外せば死ぬか」
「死ぬかもしれん。生きるかもしれん。今は数字を出せん」
「分からない、と言う医者は初めてだ」
「分かったふりして切られるよりましやろ」
男の口元が、ほんの少し緩んだ。
律は筆を止めた。
その表情まで記録するか迷った。笑ったと書けば、監察者が糸で作った先ほどの笑みと同じ扱いになる。
〈口角が自発的に動いた可能性。緑糸の牽引なしを志乃が目視〉
そう記した。
「名前が必要です」律は言った。「田正雄と呼ばないために、今だけでも何と呼べばいいか決めてください」
「名前はいらない」
「『おい』や『遺体』では、監察者と同じになります」佐和が答えた。「呼ばれたくないなら、呼ばない。でも振り向いてほしいとき困る」
男は長く黙った。
胸の板が一度光る。
監察者が口を開く。
「管理名は田正雄」
男の指が机を掻いた。
「榊」
声は小さかった。
「榊、と呼べ」
「理由を聞いても?」律が尋ねる。
「今は聞くな」
律は紙へ〈本人選択の一時呼称・榊。理由は回答拒否〉と書いた。
拒否も答えだった。
志乃は、榊が本当に選択できる状態か確かめた。
名前を言えたから、すべての同意が有効になるわけではない。今日の日付、いる場所、胸板を外した場合の危険、地上へ出る場合の危険を、一つずつ説明して榊自身の言葉で言い直してもらう。
日付は答えられなかった。
榊にとって最後の夏は昭和九年だった。今が十年後だと告げると、目を閉じ、もう一度尋ねた。二度目は昭和十九年と答えたが、月は分からない。
場所については「第九観測口」と答えた。
「ここがどの町の下かは?」
「知らない」
胸板を外す危険は、志乃の説明どおり「死ぬ可能性と、生きる可能性の両方」と言い直した。
地上へ出る危険には、「私の名前を使う者に見つかる」と自分で付け加えた。
記憶は欠けている。それでも、分からないことを分からないと言い、危険を比較できる。少なくとも診察を続けるか、質問を止めるか、どこへ移りたいかは選べる状態だった。
大橋はその判断を志乃一人へ背負わせなかった。律は榊の言葉を記し、佐和は質問の仕方に誘導がなかったかを書く。監察者の声が重なった箇所は、回答として数えない。
「これで私は、人間になったのか」榊が聞いた。
「人間かどうかを試したんやない」志乃が答えた。「今、何を自分で決められるか見ただけや」
榊は胸板を見た。
「決められないことは」
「あとで決め直す。誰かに預けるなら、何をいつまで預けるか決める」
榊は、医療判断を次の一時間だけ志乃へ預けた。質問への回答権は預けなかった。途中で〈止めろ〉と言えば、監察者の発声が混じっていても一度中断することにした。
監察者が〈田正雄〉の札を光らせる。榊の首が後ろへ引かれた。喉から別人の声が漏れる。
「昭和九年六月十二日、軍需資材横流しのため逃亡」
榊自身の声が、その下から重なった。
「違う」
「取り調べを恐れ、身分証を廃棄」
「奪われた」
「自発的に観測管理へ移行」
「縛られた」
一つの口から、記録上の田正雄と榊の証言が交互に出る。
志乃が胸の板へ布を当てた。光を遮るためではない。熱を測る。板が発声するたび温度が上がっている。
「質問を止めるで」
榊が頷いた。
監察者は続けようとしたが、律たちは返事をしなかった。五分間、呼吸と脈だけを測る。沈黙すると緑板の振動が弱くなった。
問いかけそのものが、記録を呼び出す鍵になっている。
榊が自分から話し始めるまで待った。
「箱を、見つけた」
「いつです」
律が反射的に聞き、志乃に睨まれた。
榊は答えた。
「夏だった。操車場。名簿にない箱。中に、緑の石と……子供がいた」
「子供?」佐和が確認する。
「目が緑。日本語を話した。寒いと言った」
胸板が明滅する。
榊の呼吸が乱れた。
志乃が手を上げ、全員を黙らせる。
しばらくして、榊は自分から続けた。
「上へ報告した。翌日、命令書が来た。箱を軍の試験所へ送れ。子供には触れるな。私は同行した」
「試験所はどこです」大橋が聞いた。
緑板が強く光った。
榊の口から血が出る。
「止める!」志乃が宣言した。
質問はそこで終わった。
大橋は続きを求めなかった。場所を聞く必要はある。それでも今聞けば、答えより先に榊の体が壊れる。
監察者が言った。
「器は情報開示に耐えない。管理へ返還せよ」
「耐えなくしてるのは、その板や」志乃が返す。
榊は血を拭われながら、首を横へ振った。
「子供は、同じ顔だった」
誰も質問していない。
「十年後も。箱を持って来たときも。歳を取っていない」
律は書いた。
榊が昭和九年に見た緑眼の子供と、第四六九号箱の積み込みに関わった者が同一であると、榊本人は認識している。ただし現在の記憶が装置により編集されている可能性あり。
「そいつが田正雄を名乗ってるんですか」佐和が聞く。
榊は頷かなかった。
「私の顔ではない。私の名だけを着た。顔は、必要なときに借りる」
無面とは別の存在だ。
無面は標本庫から顔を借りる器。緑眼の子供は、人間の社会へ入るため榊の名前と記録を着た管理者。
「何と呼ばれていた」律が聞く。
榊の瞳が監察者へ動いた。
三つの緑星が明滅する。
「門衛」
榊はその語を発したあと、何度も水を求めた。
水を一気に飲ませれば肺へ入る。志乃は布へ含ませ、唇を湿らせる。榊は自分で布を持とうとしたが、指に力がない。
「持ってくれ」と言うまで、志乃は手を出さなかった。
助けを待たされたのではない。どこまで自分ででき、どこから他人の手を望むかを榊が決める時間だった。
佐和は〈榊〉という呼び名の理由をもう一度聞こうとしたが、やめた。先ほど拒否された問いは、時間が経っただけで自動的に許可されない。
榊の方から呟いた。
「家の裏にあった。母が、冬でも葉を落とさないと言った」
それ以上は話さなかった。
律は由来を記録したが、本人確認の秘密には使わないと欄外へ書いた。大切な記憶を、次の合言葉に変えないためだった。
監察者の輪郭が、榊の胸へ手を伸ばした。
志乃がその間へ立つ。触れられる相手ではない。それでも榊の視界から監察者を遮った。
「今日はここまでや」
榊は疲れ切った目で律を見た。
「地上へ、出られるか」
「あなたが出たいなら、方法を考えます」
「命令ではなく?」
「はい」
榊は目を閉じた。
「出たい」
監察者が交換機の全札を光らせる。
「管理器の移動を許可しない」
律は自分たちの紙へ記した。
〈榊、地上への移動を希望。監察権限は拒否。医療上の可否を先に確認〉
連れ出すことを、勇敢な救出劇にはしない。
胸板と九本の線を安全に外し、地上で生存を支える方法が必要だった。
その最初の一本は、明滅を続ける〈鉄道〉だった。




