第四十七話 田正雄を死亡させる
入口の外には、町民が百人いた。
警察だけではない。消防組、駅員、配給係、寺の僧、窯場の職人、産院の志乃。地下交換機の札に書かれた系統から、少なくとも一人ずつ来ている。
全員が武器を持つわけではなかった。
手にしているのは帳面、提灯、印のない紙、測量棒、薬箱。自分の仕事で確かめられる物だった。
「誰が焼却命令を持ってきたんです」律が尋ねた。
王仁三郎は紙を地面へ置いた。
差出人は田正雄。肩書は境界監察輸送官。地下入口へ油を流し、午後二時までに点火せよ。従わなければ軍需妨害として処罰する、とある。
軍の印も押されていた。
「本物ですか」
大橋が印影を見た。
「使われとる型は本物に近い。だが、こんな肩書は知らん」
命令を届けたのは、軍服姿の若い通信兵だった。駅前から自転車で来て、そのまま西へ走り去った。顔を見た者は五人。証言は一致していない。
一人は丸顔だったと言う。
一人は痩せていたと言う。
残る三人は、片山に似ていたと話した。
無面か、人間の協力者か、精神干渉で違う顔を見せられたか。まだ分からない。
王仁三郎は命令を破らなかった。
〈火を持って観測口へ集まれ〉という部分だけを、各組織へそのまま伝えた。ただし目的を「焼却」ではなく「出入口と帰還者の共同確認」と明記し、自分の名前で責任を負った。
「命令の意味を勝手に変えたんですか」石黒が聞く。
「命令する側は、ずっと勝手に人の意味を変えとったやろ。受けた側にも、何に使うか決める頭はある」
百人分の目で見ても、律たちが本人だと完全には証明できない。
集まった者が全員、王仁三郎の判断に賛成したわけでもなかった。
元軍曹の男は焼却命令をそのまま実行すべきだと主張した。軍印が本物なら、目的を町民が変えること自体が命令違反だという。
「地下から何が出るか分からん。四人を助けて町が全滅したら、誰が責任を取る」
産院で子を産んだばかりの女は、逆に入口を永久に埋めろと言った。律たちが本人でも、緑の糸を体内へ持ち帰っているかもしれない。
消防組の中には、詰所が燃えている間に地下へ人を割いたことを責める者もいた。
王仁三郎は反対者を監察者の仲間と呼ばなかった。
「せやから、火は消さん。入口も開け放さん。出た四人をすぐ町へ戻さん。反対した理由も書いとく」
四人は共同確認が終わるまで線路脇の空地へ隔離された。食事と水は離れた場所へ置かれ、佐和も律も自分で取りに行く。町の仕事へ口頭命令を出さない。
助けるか焼くかの二択にせず、戻った者を一時的に分離しながら記録を受け取る第三の手順を作った。
元軍曹は最後まで納得しなかった。それでも自分が見た人数と時刻を書いた。賛成しない者の記録も、本人確認の一部に含められた。
しかし地下から何人出たか、何を持っていたか、誰がどの順番だったかは、一人の証言より改変しにくい。四人は別々の場所へ座り、入る前に預けた袋の石、持ち物、紙の封を確認された。
律の石の傷は一致した。
それでも佐和は記録へ〈本人と断定〉と書かなかった。
〈入坑時の水城律と所持物・行動記録が連続〉
同じ魂かどうかではなく、観測できる連続性だけを残した。
地下で得た最新三日分の暗号表は、駅長が持つ写しと照合された。田正雄の身分証は、大橋が焼け残った人事照会簿の断片と比べる。
昭和九年六月、田正雄という輸送嘱託が行方不明になっていた。
当時の報告では、軍用資材の横流しを疑われ逃亡したとされている。家族欄は空白。捜索は三か月で打ち切り。その半年後から、同じ田正雄名義の特別取扱印が輸送文書へ現れ始めた。
本人が失踪したあと、名前だけが権限を得ている。
「逃げた犯罪者の名前なら、誰も本人に会わせろと言わん」片山が言った。「裏で働いとると言えば通る」
人間の社会が、顔の見えない命令を受け入れやすい形だった。
大橋は田正雄を死亡扱いにしようとした。
しかし志乃が反対した。
「遺体を見たのは四人だけ。医者も診てへん。今日の日付で死亡と書いたら、地下の人がいつ死んだか消える」
佐和も同意した。
目的は都合のよい死亡証明を作ることではない。現在活動する命令主体と、地下の遺体を同一人物として扱わないことだった。
書面は二つに分けられた。
一つ目。
〈昭和九年失踪の田正雄とみられる遺体を第九観測口で発見。死亡時期・死因未確認〉
二つ目。
〈本日以降、田正雄名義の命令は、本人の生存と対面確認がない限り受理しない。軍印・特扱穿孔・暗号符号のみを本人確認としない〉
ここでも反対が出た。
駅長は、戦時輸送で対面確認など待てないと言った。田正雄名義の命令が本物だった場合、列車を止めた責任を駅だけでは負えない。
大橋は「すべて拒否」から文言を修正した。
人命に直結する緊急命令は、現場責任者が内容を独立確認して自分の名で実行できる。ただし田正雄の権限を根拠にせず、実行後に理由と損失を書く。
配給係の老婆も、署名できない者が命令を受けた場合を尋ねた。文字が読めない者を制度の外へ置けば、無面はそこを使う。
そこで書面は読み上げられ、聞いた者は名前の代わりに自分の道具の印を残せることにした。鍬、杓子、金槌、糸巻き。印を作れない者は、二人の聞き手が本人の異議をそのまま記す。
形式を増やすほど偽造の形も増える。それでも署名一種類だけへ権限を集めるより、異なる確認経路を残す方を選んだ。
田正雄を今日死亡させるのではない。
十年間、死者の上で活動してきた名前の権限を死亡させる。
文書には百人全員が署名しなかった。
署名を集めれば、名簿そのものが次の標本庫になる。各組織から二人ずつが自分の範囲だけ確認する。残る者は内容を読み、異議があれば別紙へ書く。
駅長は輸送命令を止める範囲へ署名。
大橋は警察命令。
志乃は医療搬送。
配給係の老婆は配給票。
寺は避難所、窯場は燃料と器、消防組は火災指揮。
学校と新聞の代表は、今すぐ集まらなかった。二つの系統は保留と書かれた。
午後三時、写しが各場所へ置かれた。
一枚を中央で守らない。
警察詰所は燃えたが、寺の写し、駅の運行帳、産院の患者記録、窯場の焼成帳は残っている。野村の死亡時刻も、偽逮捕状も、列車停止理由も、別々の紙から再構成できた。
無面が原本を焼いても、出来事そのものは消えなかった。
地下へ戻る前に、律は第四六九号箱を確認した。
三つの封は切れていない。箱内の耀盌は光っていない。だが器の底に、新しい文字が浮かんでいた。
〈管理名更新失敗〉
その下に、小さく〈代替候補 片山〉とある。
片山は自分で読んだ。
「俺を田正雄にするつもりか」
「名前を継がせるだけかもしれません」律が言う。
「同じことやろ」
「違います。片山さん自身が田正雄になるわけではない。でも命令が片山さんの声と信用を使う」
だから危険だった。
片山を殺す必要はない。失脚させる必要もない。町に信頼されたまま、名前の入口として接続すればよい。
片山は自分の名義について、追加の停止文を書いた。
〈私の声、筆跡、印、過去の記憶だけを根拠として、田正雄または境界監察に関する命令を受理しない。私自身が撤回を求めても、本日の日没までは解除しない〉
自分の未来の意思まで、期間を限って信用しない。
午後四時、律、佐和、大橋、志乃が地下へ入った。田正雄の遺体を診るため、今度は医者である志乃が同行する。石黒は地上で時間と入口を管理する。
円形室へ着くと、〈警察〉に続いて〈軍〉の札が暗くなっていた。
〈鉄道〉も明滅している。
名前の命令資格を複数の現場で止めた効果が、地下へ現れていた。
軍帽の監察者はまだ椅子にいる。
輪郭は薄くなったが、消えてはいない。
「局地的拒否は、境界管理を変更しない」
「局地で生きる人には、局地の拒否で十分です」律が答えた。
志乃は田正雄の遺体へ近づき、瞳、皮膚、関節を診た。首の緑糸には触れない。
「死後十年の体やない。保存されとるとしても、組織が時々入れ替わってる」
腕の内側に、新しい注射痕があった。
遺体へ、今も何かが運び込まれている。
志乃が軍服を開く。
胸の中央に、緑色の薄い板が埋め込まれていた。
板の下で、心臓が一度だけ動いた。
監察者が立ち上がる。
「管理名の廃棄を確認。器を再起動する」
田正雄の遺体が、大きく息を吸った。
目が開く。
瞳は人間の黒だった。
彼は律を見て、最初の一言を発した。
「私を、田正雄と呼ぶな」




