第四十六話 名前を着る者
帽子の下には、誰もいなかった。
それでも椅子の座面が沈み、背もたれが軋んだ。見えない人間が腰を下ろしたようだった。
三つの緑星が、一つずつ光る。
交換機の空札へ文字が浮かんだ。
〈監察〉
大橋が素焼き片を手に取った。
「これも外すか」
「地上の接続先が分かりません」律は止めた。「先に外せない」
軍帽が律へ向く。
声は交換機からではなく、壁に保存されたすべての顔から出た。
「手順を学習したか」
男とも女ともつかない。町の何十人分もの声を重ね、どれか一つを本人確認へ使えないようにしている。
「あなたは田正雄ですか」律が聞いた。
「その名は管理口に属する」
「人の名前です」
「人が使っていた。ゆえに使用に適した」
軍帽の下に、薄い輪郭が生まれた。
人間より頭が小さく、肩が狭い。皮膚はない。緑の線だけで体の形を描いている。顔の位置には何もなく、軍帽だけが浮いて見えた。
「そこに座っている人から、名前を奪ったのか」佐和が尋ねる。
「停止した器から、機能を継承した」
「死んだ人を器と呼ぶな」
佐和の声が硬くなった。
監察者は怒らなかった。意味を測るように首を傾けた。
「呼称は機能を変えない」
「呼称を変えたから、十年もこの人を使えた」律が言った。
人ではなく器。盗用ではなく継承。命令ではなく未来。言葉を替えるたび、相手の拒否が記録から消える。
田正雄の遺体の右手が動いた。
爪が机を一度掻く。
監察者の輪郭が、その手首を押さえた。
実体はないはずなのに、骨が軋んだ。
「管理口九は閉鎖対象となった。記録庫を返還せよ。耀盌二器を接続せよ。水城律を観測席へ置け」
三つの命令が、交換機の札へ同時に現れる。
大橋は拳銃を抜かなかった。
「誰の権限で命じる」
「境界監察権限」
「どこの境界や」
「到達前の種へ説明する必要はない」
「到達したら説明するんですか」律が聞いた。
監察者は沈黙した。
壁の顔のいくつかが、口を閉じる。質問を理解できないのではない。答える範囲を選んでいる。
「到達は許可されていない」
「なら、説明される日は来ない」
「それが境界の目的である」
石黒が息を呑んだ。
この存在は侵入者を捕らえる番人ではない。こちらが境界へ着く前に、着く可能性そのものを摘むためにいる。
「何をもって到達とする」大橋が尋ねる。
「恒星域外航行。独立精神伝送。因果外観測。三条件のいずれか」
律の右目が疼いた。
耀盌で未来を見ることは、三つ目に触れたのかもしれない。鉄道、電話、暗号を用いて離れた人間が協力することは、二つ目へ近づく過程と判定されたのかもしれない。
「この町が、そんなものを持っているように見えるか」大橋が周囲を示した。「地震で線路も井戸も壊れとる」
「現在の能力は判定に含まれない。到達確率を持つ構造を監察する」
「確率だけで、人を十年も盗むのか」佐和が言った。
「到達後の損失より小さい」
誰にとっての損失かは答えない。
監察者の理屈では、まだ起きていない未来の危険が、現在の人間の拒否より重い。律が耀盌で陥りかけた考え方を、宇宙規模まで拡張したものだった。
「観測した未来を理由に、今の人を閉じ込めるな」
「個体感情は境界運用を変更しない」
「変更できない規則なら、誰が間違いを止める」
「監察上位が停止する」
「その上位を誰が止める」
三つの緑星が強く光った。
返答はなかった。
律は監察者の沈黙も記録した。答えがないことを、こちらに都合のよい答えへ変えないためだった。
律の右目が冷えた。
宇宙の像は見えない。ただ、監察者が〈到達〉という言葉を使った瞬間、月より遠い暗闇と、その中に置かれた小さな門の感覚があった。
律は紙へ〈遠隔・境界・到達前の種〉とだけ書く。想像した門は記録しなかった。感じたものと相手が実際に言ったことを混ぜないためだ。
「拒否します」
監察者の頭が律へ向く。
「拒否権限は設定されていない」
「なら、今設定します」
「個体が設定を変更することはできない」
「あなたがそう決めただけです」
交換機の〈監察〉札から、九本の緑線が伸びた。
鉄道、警察、寺院、配給、軍、窯、学校、新聞、そして円と九点の記号。隔離した〈警察〉だけは素焼き片の前で止まる。残る八本が光った。
地上で板の割れる音がした。
一回。
二回。
三回目が来ない。
「戻ります」石黒が即座に言った。
地上との時間共有が失われたら撤退する。入る前に決めた条件だった。
監察者が壁の顔を一斉に笑わせる。
「地上は、すでに田正雄の命令を受領した」
「何を命じた」大橋が聞く。
「第九観測口を封鎖し、内部の四名を焼却する」
入口側から、油の臭いが流れてきた。
本当に地上の誰かが命令を受けたのか。監察者が不安を作るため言っただけか。確かめるには戻るしかない。
佐和は〈監察〉札へ出た三命令を写した。返還、接続、着席。どれも期限がない。誰が完了を確認するかも書かれていない。
「従ったふりをして時間を稼げる」大橋が小声で言った。
「できます。でも、どこまで従えば完了かを相手だけが決める。永遠に追加されます」
記録庫を一冊返せば、次の一冊を求める。耀盌を近づければ、接続が足りないと言う。律が椅子へ座れば、立つことを違反にできる。
終わりを定義しない命令は、交渉ではなかった。
大橋は「従うふり」を撤回した。短期の欺瞞で逃げられても、後でその言葉を同意として保存される危険がある。
四人は命令札の横へ〈受領せず〉と書こうとした。しかし律が止めた。
相手の装置へこちらの拒否を書けば、それ自体が接続になるかもしれない。拒否は自分たちの紙へ書き、地下には残さない。相手の欄に反対意見を書けることと、相手の制度へ参加しないことは別だった。
大橋は〈監察〉札を撃とうとした。
律が銃身をつかむ。
「撃てば、八本全部へ何が流れるか分かりません」
「このままなら入口を焼かれる」
「だから戻る。ここで相手の装置を壊すより、外で命令を受け取らないようにする」
田正雄の遺体が、もう一度机を掻いた。
一回。間を置いて二回。さらに一回。
佐和が傷の位置を見る。
机の縁には、同じ並びの古い傷が何列もあった。
「この人、前から何か伝えようとしてる」
監察者が遺体の腕を引いた。
律は数字として読もうとしたが、佐和が止めた。
「決めつけない。紙を置く」
遺体の指先へ鉛筆を挟む。自力で握れる状態ではない。佐和が紙を机へ固定し、指が動けば線になるよう位置だけを合わせた。
監察者の輪郭が揺れた。
田正雄の指が、ゆっくり動く。
文字にはならない。
縦線が一本、横線が一本。その下へ円を描こうとして途切れる。
「何や」大橋が言った。
石黒が入口の表示を思い出した。
「人名の横にあった管理口の印やない。戸籍の死亡印に似とる」
大橋も気づいた。
古い戸籍簿で、死亡した者の名へ引く線。田正雄は、自分の名前を死者として記せと求めているのかもしれない。
監察者の声が低くなる。
「その器は活動中である」
遺体の指が、机を強く叩いた。
「本人が違うと言ってる」佐和が答えた。
監察者が初めて、感情らしい反応を見せた。
緑の輪郭が膨らみ、部屋の壁へ広がる。保存された顔が膜を突き破ろうと前へせり出した。
律たちは証拠を増やそうとしなかった。
遺体も運べない。
紙だけを持ち、退路へ走る。
背後で交換機のベルが一斉に鳴った。
通路の番号十二を過ぎたところで、前方が赤く明るくなった。
炎ではない。
入口へ、百本以上の蝋燭が並べられていた。
その中央に王仁三郎が座っている。
「焼却命令なら来たで」
王仁三郎は一枚の紙を掲げた。
「せやから、火ぃを持って迎えに来い、と書いてあった通りにした」
百本の蝋燭は入口を焼くためではない。
地下から出る四人の顔を、百人の町民が別々の角度から見るための灯りだった。
命令を受け取った者たちは、命令どおりの火を、自分たちの目的へ使い直していた。




