第四十三話 第九観測口
律は右目を押さえた。
数字はすぐ消えたが、痛みだけが残った。
「何が見えた」大橋が聞く。
「二、です」
安達の顔から血の気が引いた。
「二人目や」
「まだ、誰も死んでいません」佐和が言う。
「ここで死ぬいうことやろ!」
声が通路へ反響した。
壁の顔が、安達の叫びを一拍遅れて口だけで繰り返す。音はない。それでも何を言っているか分かった。
律は入口へ戻る選択を考えた。
二時間の期限までは、まだ一時間以上ある。顔の標本庫を確認し、無面が複数いる理由も分かった。これ以上進まなくても、調査は失敗ではない。
だが第九観測口という名称、管理名田正雄、暗号表と軍用輸送のつながりは残る。ここを放置すれば、別の出口から標本や器を運び出されるかもしれない。
「奥へ行くか、戻るか。一人ずつ書いてください」
狭い通路で相談すれば、声の強い者へ引かれる。律たちは小さな紙へ理由を記した。
石黒は戻る。地盤と空気の安全が確認できない。
大橋は進む。公的輸送への侵入証拠を確保する必要がある。
佐和は進む。ただし次の区画まで。
安達は戻る。〈二〉を恐れていると明記した。
片山は進む。最後尾を守る者が必要。
律は進む。ただし安達を一人で帰さない。
結果は四対二ではない。
多数決で進めば、安達と石黒の停止理由が消える。全員で戻れば、進むと判断した者の責任も消える。
二隊に分かれた。
石黒と安達が入口へ戻る。二人が地上へ着いた合図を糸で送るまで、残る四人は動かない。戻る者を敗者にも臆病者にもせず、地上の王仁三郎へ途中記録を渡す役にする。
糸が二度引かれた。
無事到着の合図だった。
律、佐和、大橋、片山は奥へ進んだ。
顔の窪みが途切れ、円形の部屋へ出る。中央に低い机があり、その上に古い電話交換機に似た装置が置かれていた。だが配線は銅ではない。緑色の透明な糸が壁の穴へ一本ずつ伸びている。
机の前には椅子が九脚。
八脚は空で、一脚だけに人が座っていた。
軍服姿の男。
頭を垂れ、両手を膝へ置いている。胸には輸送監督官の名札があった。
〈田正雄〉
大橋が拳銃へ手を掛ける。
「動くな」
男は動かなかった。
片山が横から近づき、鏡で顔を見る。人間の顔だった。律が共鳴で見た男より二十歳ほど若い。
首へ指を当てる。
脈はない。
皮膚は冷たい。
「いつ死んだ」佐和が聞く。
大橋が軍服の襟を開いた。首の後ろに縫合跡があり、緑の細い糸が一本だけ外へ出ている。糸は交換機につながっていた。
男の内ポケットから身分証が出た。
田正雄。明治四十四年生。陸軍輸送関連の嘱託。写真も目の前の顔と一致する。
しかし紙は黄ばみ、発行年は昭和九年だった。
十年前の身分証。
軍服も当時の型で、肩には埃が積もっている。遺体が十年ここに座っていたとは思えないほど皮膚は保たれていた。
「田正雄は、もう死んでる?」片山が言った。
律は断定しなかった。
名前と身分を持つこの男が死んでいる。それだけだ。現在、同じ名を使う別人がいるかもしれない。無面が身分を継いだ可能性もある。
佐和は椅子の脚元を調べた。
床に引っかき傷があり、椅子は定期的に前後へ動かされている。軍服の袖口も、片側だけ新しく擦れていた。
遺体は飾られているのではない。
使われている。
佐和は遺体の爪を見た。右手の人差し指だけ、爪が短く割れている。机の縁にも細い傷が何本もあった。
死んだ体が動かされただけなら、同じ場所を自分で掻くことはない。
「この人、途中までは生きていた」
椅子の下から、小さく折った紙が見つかった。
〈名を使わせるな。顔を焼いても止まらない。線の先にいる者を先に外せ〉
署名はない。筆跡は身分証の申請書と似ているが、同一と断定できる資料は足りなかった。紙には歯形があり、手を使えない状態で口から落としたようにも見える。
田正雄という男自身が協力者だったのか、最初の被害者だったのか。十年前のある時点で抵抗し、その後は名と体を管理口に使われた可能性が生まれた。
大橋は遺体の緑糸へ刃を当てた。
律が手をつかむ。
「切らないでください」
「これで命令を送っとる」
「線の先にいる者を先に外せ、と書いてある」
「無面が書いた罠かもしれん」
「だから先に、線の行き先を調べます」
糸を断てば交換機は止まるかもしれない。反対に、警察や駅で精神干渉を受けた者へ何かが流れ込むかもしれない。装置を壊すことと、接続された人を救うことは同じではなかった。
交換機の前面には、小さな札を差す枠が並んでいた。
〈鉄道〉〈警察〉〈寺院〉〈配給〉〈軍〉〈窯〉。
町で命令が流れた系統と同じだった。
空いている枠も三つある。
一つには〈学校〉。
一つには〈新聞〉。
最後の一つには、見慣れない記号が刻まれていた。円の外を、小さな九つの点が回っている。
「第九観測口の印か」大橋が言う。
律は首を横へ振った。
入口の表示とは形が違う。
緑の糸の一本が光り、〈鉄道〉の札へ入った。
交換機のベルが鳴る。
誰も受話器へ触れない。
ベルは二度、三度と続いた。
田正雄の遺体が顔を上げた。
目は閉じたままだった。
口だけが動く。
「列車番号、四一七。停止命令を解除」
今朝届いた電文と同じ内容だった。
声は老人のものでも、無面のものでもない。府の統制所で電文を読み上げた係員の声だった。
遺体が交換機を通じ、人間の声を再生している。
「こいつが暗号を送ったんか」片山が言った。
「暗号表を知っていたのは、これだけではありません」律は装置を見た。「誰かが今日の表をここへ入れた」
机の引き出しを開ける。
中には、日付順に束ねた暗号表があった。
昭和九年から、今日まで。
十年分。
毎日ではない。鉄道の運行が変わる日、軍需輸送がある日、町で大きな行事がある日だけ抜き取られている。
一番新しい表には、青鉛筆で丸がある。
第四六九号。
その下に、人名が三つ書かれていた。
一人は操車場の積荷係。
一人は府の鉄道統制所員。
最後の一人は、片山だった。
片山の名の横には、協力、監視、排除のどれを示す印もない。ただ〈接続候補〉とある。
その下に条件が三つ記されていた。
命令へ疑義を挟むこと。
組織の内部に残り続けること。
水城律を信じ切らないこと。
「なんや、これは」片山が紙を握りしめた。
無面は従順な者だけを欲しがっているのではなかった。異議を唱えられる人間さえ、組織の信頼を得るための顔として利用しようとしている。片山が律を疑うたび、それは健全な検証にもなり、二人を切り離す刃にもなる。
「条件に当てはまることは、敵である証拠ではありません」律が言った。
「お前がそう言えば言うほど、俺を庇ってるように見える」
「だから、僕の判断からも外します。片山さんの記録は大橋さんと佐和さんが持ってください」
片山はすぐに紙を渡さなかった。
自分の名がある証拠を自分で持てば、隠したと疑われる。渡せば、無実を決める権利まで他人へ預けることになる。
最後に二つ折りにし、大橋と佐和の間へ置いた。
「俺を外すなら、理由と期限を書け。戻すときも同じや」
疑われた者自身が、停止手順を要求した。
片山が紙を奪うように取った。
「俺は知らん」
大橋の拳銃が、わずかに片山へ向く。
佐和がその銃身を下へ押した。
「名前が書かれていることと、協力したことは別」
壁の顔が一斉に目を開けた。
今度は片山の顔だけが、何十枚も並んでいる。
交換機の〈警察〉札が光った。
町の方角から、遠く鐘が鳴った。
王仁三郎との約束の合図ではない。
火災を知らせる乱打だった。
地上で、警察詰所が燃えていた。
大橋が交換機の〈警察〉へ伸びる糸を見た。
「切れば火は止まるか」
誰にも分からない。
逆に火勢が強まるかもしれない。詰所にいる者の首へ、産院の春夫と同じ仕掛けがあるかもしれない。
片山が入口側の糸を三度引いた。
緊急帰還の合図。
糸は途中で止まった。
返事がない。
もう一度引く。
今度は反対側から、二度返ってきた。
無事到着の合図だった。
だが石黒と安達は、すでに地上へ戻っている。合図を返したのが王仁三郎とも限らない。
交換機の田正雄が、閉じた目のまま笑った。




