第四十二話 追う前に残すもの
地下の穴へ最初に向かったのは、律ではなかった。
保線員が長い測量棒を差し込み、崩れた土がさらに動かないか確かめる。消防組は谷へ縄を下ろし、排水管から流れ続ける水を別の溝へ逃がした。駅長は貨物列車の前後へ見張りを置き、機関車の火を落とすよう命じた。
誰も敵を追っていない。
追えば間に合うかもしれない。それでも、止めた列車をもう一度事故へ戻すわけにはいかなかった。
機関車では、偽の助士に殴られた本物の助士が額を縫われていた。消防組の男は後頭部を打ったが、意識も手足の動きも正常だった。若い乗務員は母親の幻声が消えず、医薬品箱を見るたび耳を塞いでいる。
志乃の産院から来た医者が、三人を順に診た。
「穴へ入る人数を増やしたら、戻ってきたとき誰が無面か分からんぞ」大橋が言った。
「入るのは後です」律は答えた。
大橋が意外そうに見る。
「田正雄の名まで出た。急がんのか」
「急ぎます。でも、ここに残すものを先に決めます」
律たちは、発見した物を三つの場所へ分けた。
暗号表の断片と積荷表は駅長が保管し、写しを警察詰所と東寺へ送る。第四六九号箱は医薬品車から出さず、車両そのものを本線から離れた側線へ移す。箱内の耀盌には触れず、扉へ新しい封を三か所つける。
一つは鉄道、一つは警察、一つは町の者の印。
三つのうち一つだけが切れても、開けない。
「町の印は誰が持つ」駅長が尋ねた。
安達が手を上げかけ、下ろした。
自分の札の欠片を奪われたことを思い出したのだろう。
配給係の老婆が言った。
「持たんでええ。配給所の帳面に印の形を描いて、皆に見せとく」
鍵や印を一人が守れば、その一人の顔を奪われる。ならば町の封は、秘密にしない。形と位置を公開し、変われば誰でも気づけるようにする。
律は賛成した。ただし公開した形を真似られる危険も記した。今の方法が永く使えるとは限らない。
正規の医薬品は、別の有蓋車へ積み替えた。血漿瓶四十八箱のうち、一本が作業中に割れ、二箱は耀盌の光を浴びたため隔離された。残る品は箱番号と封を照合し、午後の臨時列車で送る。
車掌は遅延理由へ「地震による路基損傷」と書き、その下に「不正電文による再発車あり」と加えた。
「化け物のことは書かんのですか」安達が聞いた。
「見てへん者が読んだら、そこだけ嘘やと思う。まず確認できる事実を書く」
「見た者の話は消すんか」
「別紙にする。消さん。混ぜん」
運行記録と異常現象の証言を分け、同じ封筒へ入れた。どちらかを信じるために、もう片方を捨てない。
昼を過ぎ、貨物列車の前方五両と後方貨車が安全な線へ移された。崩落箇所の両側には、物理的にレールを外す工事が始まる。正式電文が再び来ても、列車は通れない。
その作業を見届けてから、律は地下入口へ向かった。
同行者は片山、佐和、大橋、安達、保線員の石黒。王仁三郎は行かなかった。
「先生なら、入口の字を見れば何か分かるかもしれません」律が言った。
「分かる者が全部中へ入ったら、帰らんかったとき誰が話を残す」
王仁三郎は地上で記録を預かり、二時間ごとに合図がなければ入口を封鎖する役を選んだ。
「助けに来ないんですか」安達が聞く。
「来てほしいなら、そう決め直す」
安達は黙って考えた。
「封鎖してください。中のもんが外へ出る方が怖い」
自分たちを救うことより、町へ広げないことを選んだ。その選択も紙へ残した。
入る前に、五人は外見だけでは答えられない確認項目を作った。
秘密の思い出や家族の名ではない。無面に一度読まれれば、かえって長く使われる。入口を通る直前、各自が石を一つ拾い、見た者にだけ分かる傷をつけ、別々の袋へ入れた。帰還時には石そのものを出すのではなく、袋を開ける前に傷の位置を描く。
さらに、隊列を替える時刻をあらかじめ決めなかった。先頭の石黒が危険を見つけた時だけ、自分の後ろにいる者を指名して交代する。その指名と理由を最後尾の片山が記録する。
「無面が全部見ていたら終わりやないか」安達が言った。
「終わりです」律は答えた。「だから、この方法で本人だと証明できる、とは書きません。出入りの途中で何か変わった可能性を増やして見つけるだけです」
大橋は拳銃の弾数を片山へ見せた。片山は警棒の傷を佐和に見せる。武器を本人確認の印にはしない。誰が何を持って入ったかを、戻った者だけでなく地上にも残すためだった。
安達は何も持ちたくないと言った。
「俺の持ったもんは、また使われる」
佐和は首を振った。
「持たないことも記録にする。帰ってきたあんたが何か持っていたら、そこで止まれる」
安達は空の両手を紙へ押しつけ、炭の手形を残した。
完全な識別法はない。それでも彼らは、自分たちが地下で何へ変えられるか分からないまま入ることを、分からないままにはしなかった。
入口の「田正雄」は、彫った文字ではなかった。
石の表面に別の薄い板を埋め込み、そこへ黒い線で記されている。泥を落とすと、字の下に小さな数字が現れた。
〈第九観測口 管理名 田正雄〉
「人名やないんか」安達が言った。
「管理名、とある」佐和が紙へ写した。「人の名前を場所につけたのか、役職を名前にしたのかは分からない」
石黒が入口の幅を測る。人一人が屈んで通れるほどだが、奥へ行くと四尺四方の管になっている。壁は石に見え、叩くと金属音がした。
地震より前から地中にあり、排水管はこの構造を避けるよう後世に曲げられている。鉄道を敷いた者の誰かは、地下に何かあると知っていたはずだった。
内部へ糸を張り、五十間ごとに白布を結ぶ。帰路が変わっていないか確かめるためだ。先頭は石黒。次に大橋、律、佐和、安達。片山は最後尾で、背後の変化を記録する。
二十間ほど進むと、外の光が消えた。
カンテラの炎が緑に傾く。
空気は冷たく、湿り気がない。地下なのに土の匂いもしなかった。
壁の両側に、小さな窪みが並んでいる。一つ一つ、人の顔ほどの大きさ。石黒が灯りを近づけると、窪みの奥に薄い膜が張っていた。
膜の向こうで、目が開いた。
右隣でも、その次でも。
無数の顔が壁の中に埋まっている。
野村。大橋。片山。佐和。安達。律。
今まで無面が使った顔だけではない。町で見かけた配給係、産婆、駅員、子供、名も知らない老人。眠るように目を閉じた顔もある。
「人を閉じ込めてるんか」安達が後ずさった。
律は一番近い膜へ手を伸ばさなかった。
顔は瞬きするが、呼吸で膜が曇らない。目が律を追う一方、頬も口も動かなかった。
佐和が鏡を取り出し、横から光を当てた。
顔には奥行きがない。
皮膚一枚分の薄い像だった。
窪みの下に数字がある。
採取日。場所。接触時間。記憶深度。
無面は顔をその場で作っていたのではない。触れた人間の外見と記憶を、ここへ標本として蓄えていた。
佐和は窪みの数字を十件だけ写した。
古いものは昭和九年。新しいものは今朝。接触時間が短い標本は、目と口しか動かない。長いものほど表情が細かく、記憶深度の数字も大きかった。
片山の標本は三つある。
最初は昭和十二年、場所は警察詰所。二つ目は昨年、駅前。三つ目は今朝の窯場だった。同じ人間へ繰り返し接触し、顔だけでなく職務上の言葉や判断の癖まで更新していた。
「俺は七年前から見られてたんか」
片山は窪みの自分と向かい合った。
標本の口が動く。
〈知らん〉
声はない。それでも片山がよく使う言い方だった。
律の標本は一つしかない。採取日は空欄、場所には〈耀盌〉、記憶深度には測定不能を示す斜線がある。
無面は律の過去を読み切れていない。
だから二つの器を共鳴させ、前世らしき像を外から流し込もうとしたのかもしれない。
一体の怪物が何人にも変わるのではない。
複数の器が、同じ標本庫から顔を借りている。
「なら、さっきの二体も……」片山が言った。
「同じ無面ではなかった。同じ顔を使える別の個体です」
通路の奥で、何かが擦れる音がした。
壁の顔が一斉に律を向いた。
すべての口が、同時に開く。
声は出なかった。
代わりに、律の右目の奥へ一つの数字が刻まれた。
〈二〉




