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第四十一話 田正雄という名前

像は三秒で消えた。


律は見えたものを、すぐ口にしなかった。


地面へ膝をつき、紙に書く。操車場らしき場所。青鉛筆。名札。第四六九号箱。田正雄。


最後に〈耀盌共鳴中に律のみ観測。真偽未確認〉と加えた。


「誰やった」片山が聞く。


律は紙を渡した。


大橋が名を読み、眉を寄せる。


「田正雄。聞いたことがない」


車掌は首を横へ振った。駅長も知らない。軍の輸送監督官なら階級か所属部隊が併記されるはずだが、律が見た名札には名前だけだった。


片山は列車関係の書類を、もう一度最初から調べた。


運行票、封印記録、積荷表、前駅で受け取った通過指令。田正雄という署名はない。だが積荷表の左上に、通常の受付印とは違う楕円の穿孔があった。紙へ針で小さな穴を開け、光へかざすと文字になる。


〈田・特扱〉


車掌は初めて見る印だと言った。駅長も知らない。一方、大橋は軍需輸送の照会書で似た穿孔を一度見たことがあるという。


「憲兵の検査を省略するとき、封筒に穴を開けた印があった。名前までは書いてなかった」


「省略する権限の印ですか」律が聞く。


「少なくとも、現場はそう受け取る」


正式な規則か、現場だけで通用する慣行かも分からない。だが第四六九号箱は、封印を破らずに積み込まれたのではない。最初から「検査しなくてよい荷物」として通された可能性があった。


医薬品箱の内蓋にも、鉛筆で小さく〈TM〉とある。製造所の記号か、担当者の頭文字かもしれない。田正雄の証拠とはいえない。それでも律が見た名と、独立した二つの痕跡が同じ方向を指した。


片山は名前の横へ丸をつけなかった。


〈実在未確認。関連記号二件〉


一度の像を、二件の証拠が証明したことにはしない。名前を探す価値が生まれただけだった。


「無面が見せた像かもしれん」安達が言う。


「そうです」


「罠やと分かっとるのに調べるんか」


「名前が実在するか、像と関係なく調べられます」


過去を見たから信じるのではない。照合できる手がかりを得ただけだ。


受損路基の上で、二体の無面が器を挟んでいた。


白い光は強くなり、足元の砂利が少しずつ谷側へ動く。光に重さがあるのではない。二体が立つことで、もともと水を含んだ盛り土へ負荷がかかっている。


「追えば崩れる」片山が言った。


「追わなくても崩すつもりや」大橋は機関車を見た。


孤立した医薬品車は路基から四十七間。地面が連続して崩れれば届くかもしれない。中には正規の血漿も入っている。箱だけではなく、一両分の医薬品を人質にしていた。


二体のうち、律の顔だった方が口を開いた。


『田正雄を知りたいか』


声は律自身のものだった。


『器を持って来い。二つを合わせれば、彼がどこにいるか見える』


「持っていけば、何をする」


『過去を返す』


「誰の過去を」


無面は答えなかった。


代わりに、耀盌の白光が像を作った。


賀茂静が見えた。


律が知るはずのない女だった。古い装束をまとい、暗い部屋で狐の形をした紙を折っている。傍らには白い狐。右目には律と同じ痛みが宿っていた。


次に、別の女が見えた。


白い囚人服。欧州の収容所らしき鉄条網。その手には、銀色ではない、赤い紐に結ばれた小さな珠がある。


さらに、見知らぬ中国の河辺。白い龍。血に濡れた男。


像は互いに関係なく流れ、最後に三つの輪が重なった。


律の頭の奥で、知らない記憶が開こうとした。


懐かしい。


その感情だけが先に来る。


「見るな!」佐和の声がした。


ここに佐和はいない。


配給所に残っている。


では、この声は誰のものか。


律は左手で右目を覆った。像は消えない。瞼の内側へ直接流れ込んでくる。


『お前は水城律ではない』


二体の無面が同時に告げた。


『名を変え、時代を変え、同じ器を追ってきた欠片だ。思い出せば、迷う必要はない』


未来を命令に変えられなくなった無面は、今度は過去で律を命令しようとしていた。


前世が誰であれ、その記憶が本物であれ、今ここで何をするかの答えにはならない。


律は右目を覆ったまま、地面の砂を握った。


冷たい。湿っている。今の感覚だった。


「僕の名前は水城律です」


『仮の名だ』


「仮でも、今使っている」


『田正雄は、お前の本当の名を知っている』


「なら、本人に聞く」


律は立ち上がった。


耀盌を近づけるつもりはない。無面を追って路基へ乗るつもりもない。先に医薬品を退避させる。


問題の箱を車両から出さず、正規の箱だけを反対側の扉から降ろすことにした。二つの器を近づけず、薬を人質から外す。


車掌が箱番号を読み、乗務員が一箱ずつ渡す。地面側では消防組が受け取り、十間離れた場所で別の者が再確認する。誰か一人の記憶に頼らない。


無面が耀盌を傾けるたび、作業員の目に異なる像が入った。


箱が燃えている。


血漿の瓶に毒が入っている。


受け取った相手の顔が無面へ変わる。


そのたび作業を全面停止せず、該当する一箱だけを地面へ置き、別の者が確認した。像を見た本人には続行を強制しない。交代して水を飲ませる。


十四箱目で、若い乗務員が母親の声を聞いた。


「その瓶を運べば、私が死ぬ」と泣いていたという。彼は箱を放さず、反対に胸へ抱え込んだ。運べば死ぬのなら、誰にも渡せないと考えたのだ。


律は取り上げなかった。


箱を地面へ置くよう頼み、母親がどこにいるか尋ねた。鳥取の実家で、ここから何十里も離れている。今の声を確認する手段はない。


「確認できないなら、嘘だと言うんですか」乗務員の目には涙があった。


「言いません。あなたが運べないことだけ決めます。箱をどうするかは、別の人が瓶と番号を確かめて決めます」


乗務員は責められずに役目を外れ、ようやく箱を置いた。代わった車掌が封を調べ、正規品として運び出す。母親の声が本物かどうかを決めなくても、作業は続けられた。


遅い。


だが四十八箱のうち、三十箱が列車から離れた。


路基の亀裂が広がる。


二体の足元で、砂利が谷へ落ちた。


安達が叫んだ。


「もう時間がない! 車両ごと引っ張れ!」


機関車は前方五両の先にいる。医薬品車との間は切り離した。再連結するには、機関車を後退させ、緑の光へ近づけなければならない。


「後ろの貨車で引けんのか」大橋が聞く。


後方十両は動力を持たない。だが路線は駅側へわずかに下っている。手ブレーキを少しずつ緩めれば、自重で後退させられる。医薬品車へ連結し、安全側へ引くことはできる。


失敗すれば十両すべてが坂を走り、駅構内へ突っ込む。


車掌は勾配標と貨車重量を確かめた。


「三両だけ使う。残り七両は固定。三両の後ろに制動手を一人ずつ置く。速度が歩くより上がったら、全員締める」


律は口を挟まなかった。


鉄道の判断は鉄道員へ返す。


三両が切り離された。車輪止めを外し、手ブレーキを半回転ずつ緩める。貨車は動かない。


さらに半回転。


鉄輪が低く鳴り、ゆっくり後退を始めた。


医薬品車との間が縮まる。


路基上の無面が、賀茂静の顔になった。


『近づけば、この女の記憶を返す』


律は見なかった。


連結器が触れる直前、医薬品車が一尺だけ谷側へ動いた。


地面が沈んでいる。


「今や!」


連結器が噛み合う。制動手が確認し、三両のブレーキを少しずつ締める。自重で坂を下ろすのではなく、つながった四両を安全側へ引く形になる。


車輪が軋んだ。


医薬品車が一尺、二尺と動く。


路基の亀裂が追うように広がる。


箱の耀盌と、無面の耀盌を結ぶ白い線が伸びた。


限界まで細くなり、切れた。


その瞬間、二体の無面の間で耀盌が割れた。


片方ではない。


二体が持つ一つの器が、縦に二つへ割れた。


白い光が消える。


医薬品車は安全側へ引き出された。


受損路基が谷へ崩れた。


二体の無面も、割れた耀盌とともに土砂へ呑まれる。


律たちは谷底を見下ろした。


緑の姿はない。


割れた器も見えない。


代わりに、崩れた排水管の奥から地下へ続く石造りの穴が現れていた。


穴の入口に、軍用箱と同じ印が刻まれている。


その下には、漢字で三文字。


田正雄。

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