第四十話 二つの空の器
機関車はまだ動いていなかった。
煙突から黒煙が上がり、罐の下で火が強くなっているだけだ。だが運転台では加減弁へ誰かの手が掛かっていた。
顔は見えない。
車掌が笛を吹き、制動手へ手ブレーキを締め直す合図を送った。十六両の貨車に散った乗務員が、それぞれの制動輪へ飛びつく。
「機関車へ行く!」機関士が走り出した。
大橋が一緒に行こうとする。
「来るな!」機関士は振り返らずに叫んだ。「罐を触れる者だけでええ!」
正しかった。人数を増やせば、無面が紛れ込む顔も増える。機関士と機関助士、それに乗務前から二人と行動していた制動手一人だけが前へ向かった。
律は医薬品箱の耀盌から離れた。
緑の光は器の内側から出ているのではない。釉薬の細かな亀裂へ沿って走り、一筋ずつ貨車の鉄板へ移っていた。床、車輪、レール。線路の先では、偽の律が掲げるもう一つの耀盌から同じ線が伸びてくる。
二つの光が、列車の中央でつながった。
右目の視界が反転した。
停止している貨車が、崩れた路基へ落ちている。
血漿の瓶が割れ、赤黒い液が谷へ流れる。機関士の腕が石の下から出ている。安達は連結器に挟まれ、佐和は配給所で首を吊っていた。
像は一瞬では消えなかった。
律が目を閉じても、瞼の裏に続く。
「列車を動かせ!」誰かが叫んだ。「ここにいたら崩れる!」
片山の声だった。
律が目を開けると、片山は自分の口を押さえている。
「俺は言うてへん」
周囲の者たちも、別々の方向を見ていた。安達は貨車の下を覗き込み、車掌は空の線路へ赤旗を振っている。誰もが、まだ起きていない事故を現在の出来事として見せられていた。
箱の中の耀盌は像を見せる。
路基に立つ耀盌は、その像に合う命令を声へ変える。
どちらが過去で、どちらが未来かという話ではなかった。一つが恐怖を置き、もう一つが恐怖から出る行動を用意する。二つをつなげれば、人は自分で選んだと思いながら同じ方向へ走る。
「見えたものを言ってください!」律は叫んだ。「命令ではなく、見えたものだけ!」
「路基がもう崩れた!」
「機関車から火が出た!」
「後ろから別の列車が来る!」
「箱が爆発する!」
像は一致していない。
多数決では決められない。全員が同じ像を見る必要もない。大事なのは、目の前の計器と触れられる物がどうなっているかだった。
ところが像ごとに必要な行動は正反対だった。
後続列車を見た制動手は、最後尾の赤旗を持って線路へ走ろうとする。箱の爆発を見た消防組は、医薬品車へ水を掛けようとする。路基崩壊を見た駅員は、列車を少しでも後方へ戻せと叫ぶ。機関車火災を見た者は、反対に前へ切り離せと言った。
どの行動も、その像が本当なら間違いではない。
同時に実行すれば、人が線路へいる状態で列車を前後へ動かし、水を掛けられた箱から薬を運び出そうとすることになる。無面が命令を一つに揃えなくても、互いの善意だけで事故を作れた。
片山は貨車の側板へ白墨で四つの枠を描いた。
〈目で確認〉〈計器で確認〉〈二人目が確認〉〈未確認〉
報告を声だけで飛ばさず、いずれかの枠へ書く。後続列車は未確認。罐圧上昇は計器で確認。路基の亀裂拡大は片山と保線員が確認。箱の発熱は、手を近づけた二人とも確認できず。
「書いてる間に起きたらどうする!」赤旗を持つ制動手が怒鳴った。
「見えた本人は逃げてええ」片山が答えた。「ただし、全員を一緒に走らせる命令にはせん」
恐怖を否定しない。だが恐怖の見せた方向へ、列車全体を動かさない。白墨の枠は耀盌の光を止めなかったものの、誰の幻がどの操作へ入り込んだかを見える形にした。
律は自分の見た死体を紙へ書いた。その横に〈未確認〉と大きく記す。
片山は路基へ石を投げた。石は亀裂の手前へ落ち、地面はまだ保っている。車掌は列車の最後尾を見た。後続列車の煙はない。安達は箱から距離を取り、温度と臭いを確かめた。爆発物の兆候はない。
一人ずつ、像と現在を分け始める。
前方で蒸気が噴いた。
機関車の動輪が半回転する。
今度は幻ではない。連結器が張り、第一貨車が揺れた。後方の手ブレーキが抵抗し、車輪が甲高く鳴る。
「加減弁が開いとる!」機関士が運転台で叫んだ。
機関助士が石炭庫の陰へ組みついた。そこに隠れていた男が、罐焚き用の火掻き棒を振り回す。顔は機関助士と同じだった。
本物が二人いるように見える。
制動手は殴りかからなかった。二人とも運転台から離れるよう命じる。片方が従い、片方は加減弁へ手を伸ばした。
機関士がその腕を火掻き棒で払う。
「従った方が本物とは限らんぞ!」偽の助士が叫ぶ。
「せやな。けど弁を開ける奴は、どっちでも止める!」
顔ではなく行動へ対処した。
本物の助士が主蒸気弁を閉じ、機関士が逆転機を中立へ戻す。制動手は砂撒き装置を開き、動輪とレールの間へ砂を落とした。罐の火はすぐには消せない。だが動力を車輪へ渡さなければ、列車は進まない。
偽の助士は運転台の窓から飛び出した。
着地したときには、制服姿の子供になっていた。線路脇を走り、偽の律が立つ受損路基へ向かう。
「同じ無面が二人おる」安達が言った。
律にもそう見えた。
一体が同時に二か所へいるのか。それとも無面という名の存在が複数いるのか。製糸場で見たものを、唯一の敵だと思い込んでいた。
路基上の偽律が耀盌を傾けた。
緑の線が強くなる。
全員の視界に、別の像が重なった。
列車は止まっている。だが医薬品車だけが存在しない。最初から編成に含まれていなかったように、前後の貨車が直接つながっている。
「箱を列車から降ろせ」車掌が呟いた。
「誰が言いました?」律が聞く。
「俺や。いや……そうせなかったら、あの車両が消える」
消えるという像を見せ、箱を外へ運ばせる。
無面の目的が分かった。
耀盌を列車へ乗せたいのではない。人間の手で、箱の器を路基上の器へ近づけさせたいのだ。
「箱は動かさない」律が言った。「ただし僕の命令にはしません。輸送責任者が決めてください」
車掌は息を整え、運行票と箱の位置を見た。
「未記載品は本来、積み下ろして検査する。だが今は近づける方が危険や。車両ごと隔離する」
前後の連結器を外すことになった。
機関車と前方五両を安全側へ数間移し、医薬品車との間を空ける。後方十両は手ブレーキで固定したまま残す。問題の車両だけを、その場に孤立させる。
動かす前に、全員が担当を紙へ書いた。機関士は加減弁、助士は罐圧、制動手は車輪、車掌は距離。誰か一人の「止まれ」「進め」だけでは動かさない。
二つの耀盌が事故の像を流し続ける中、機関車は一尺ずつ前へ出た。
路基の偽律が叫ぶ。
『今動かせば、医薬品が届かず二人目が死ぬ!』
車掌の手が揺れた。
「運ぶ先へ遅延を知らせます」律は言った。「どの薬が何時間遅れるか、別便へ移せるかを調べる。死ぬと決めるのはあいつやない」
前方五両が離れた。
連結器が外され、医薬品車の前に空間ができる。後方も切り離される。
緑の線が、列車全体から孤立した一両へ縮んだ。
人々の視界から事故の像が薄れる。
偽律の顔が崩れた。
緑色の皮膚。その下に透ける細い骨。目だけが黒く、人間の瞳を真似るのをやめている。
子供の姿をしたもう一体が、その足元へ着いた。
二体は同時に耀盌へ手を置いた。
器の光が白へ変わる。
律の右目から、血が一筋流れた。
そして初めて、過去が見えた。
軍需操車場。青鉛筆を持つ男。第四六九号箱の記載を刃で削る手。
男の胸元には、輸送監督官の名札があった。
〈田正雄〉




