第三十九話 本物の暗号
倒れた男は、胸を刺されていなかった。
無面の指は上着を貫き、内ポケットの手帳を抜いていた。男は足を滑らせ、後頭部を枕木へ打っただけだった。意識はある。
「二人目やない」安達が呟いた。
安心した声ではなかった。誰かが死ななかったことより、次に誰が数えられるかを恐れている。
無面は奪った手帳を開き、消防組の名前を一度見た。次の瞬間、顔が倒れた男へ変わる。
本物と偽物が、線路の両側に一人ずついた。
貨物列車から車掌と制動手が降りてくる。彼らには、どちらが襲撃者か分からない。
「そいつを捕まえろ!」
二人の消防組員が同時に叫んだ。
律は谷のこちら側から両手を上げた。
「どちらも捕まえないでください! 列車の周りから離して、別々に座らせて!」
無面が笑う。
「そいつは列車を止めた妨害者だ!」
車掌は迷った。軍需列車を止められた責任がある。目の前には正式な解除電文があり、線路上には赤布を張った者たちがいる。法律だけを見れば、律たちの方が妨害者だった。
機関士が運転台から顔を出した。
「線路は本当に壊れとるんか」
片山が受損箇所から叫び返す。
「自分の目で見てください。ただし、一度に来ないで。機関車を固定し、二人ずつ!」
車掌は逮捕より先に、列車防護を選んだ。制動手を各貨車へ残し、機関士とともに亀裂へ向かう。
無面は、その判断を待っていたように身を翻した。
赤布の陰へ入り、次に出たときは車掌の顔になっている。制服までは変わらない。消防組の法被を着た車掌が、貨車へ向かって走った。
目的は逃走ではない。
列車へ乗るつもりだった。
本物の消防組員が足へしがみつく。無面は蹴り飛ばし、無蓋車へ跳び乗った。律と安達は落ちた橋を渡れない。
「貨車を切り離せ!」律が叫ぶ。
どの貨車か分からない。
無面は屋根の間へ消えた。全十六両。前方四両は医薬品、中央は味噌と乾物、後方は機関部品。封印された有蓋車もある。無闇に扉を開ければ、中に仕掛けがあるかもしれない。
車掌は全車両の手ブレーキを掛けさせ、列車の前後へ赤旗を置いた。動かさないことだけを決める。捜索は、乗務員と片山側が一両ずつ組み、外から封印番号を照合してから行う。
律と安達は上流の仮橋を回り、三十分後に列車へ着いた。
その間、死者は出ていない。
欠片を見張る佐和からも、文字の変化なしと伝令が来た。
「無面は二人目を殺せなかった」安達が言った。
「殺さなかったのかもしれない」律は答えた。
脅しを保つには、すぐ死者を出すより、待たせる方が効く。次の決断のたび、全員が周囲の命を数えるようになる。
捜索は最後尾から始めた。
機関部品の木箱は重く、釘と鋼帯で封じられている。封印番号は運行票と一致した。味噌樽も、乾物袋も異常がない。
六両目の医薬品車で、番号が一つ飛んでいた。
運行票には「陸軍衛生材料 第四六八号箱」まで。その次は第四七〇号。車内には、記載のない第四六九号箱が積まれている。
箱は他と同じ寸法で、同じ軍用印が押されていた。だが木が新しい。釘も錆びていない。
大橋が開けようとした。
「先に重さを量ります」律が止めた。
駅から台秤を運び、同型箱三つと比べる。血漿の箱は一つ二十六貫前後。四六九号だけが三十二貫あった。
側面へ耳を当てると、液体の音はしない。
箱の底に、細い緑の毛が挟まっていた。
車掌が顔色を変えた。
「積み込みは前駅やない。始発の操車場で封印されとる」
「途中で載せ替えた可能性は」片山が聞く。
「軍用封印を切れば記録に残る。だがこの車両の封は切れていなかった」
つまり記載のない箱は、列車が出る前から中にあった。
無面が今朝だけで用意したものではない。
大橋は工具を用意させた。箱を貨車から降ろし、線路から離れた砂地へ置く。四方に人を立てず、一方向だけから長い釘抜きを使う。板が跳ねても誰かへ当たらないよう土嚢を積んだ。
最初の釘を抜くと、箱の内側で金属音がした。
二本目で、律の右目が冷えた。
未来の像ではない。
耀盌の底へ指を入れたときと同じ、深い場所へ引かれる感覚だった。
「待ってください」
大橋が手を止める。
「何が見えた」
「何も。僕が反応しただけです」
見えないことを、見えたように扱わない。律は箱との距離を取り、右目を布で覆った。それでも冷たさは消えない。
安達が箱の底を調べた。
「ここだけ二重や」
側板ではなく底板を外す。中には乾燥血漿の瓶が二段、正規品と同じように詰められていた。その下に鉛板があり、さらに小さな空間がある。
鉛板を持ち上げると、黒い焼き物が現れた。
耀盌だった。
佐々木窯に残したはずのものと、形も欠け方も同じだった。表面は空の器になったまま光を返さない。
「偽物や」安達が言う。
「どちらが?」律は聞いた。
誰も答えられない。
窯場に置いた耀盌を最後に確認したのは、夜明け前。無面が大橋の顔で来るより前だ。その後は窯と町の火を守ることに追われ、器そのものを見張る者はいなかった。
箱の耀盌の中には、紙が一枚入っていた。
〈二つの器のうち、一つは過去を見る。一つは未来を作る〉
裏面には、府の鉄道統制所が使う暗号表の断片が印刷されている。
正式電文の符号は、無面が統制所から盗んだものではなかった。
この箱を軍用列車へ紛れ込ませた者が、最初から符号を一緒に渡していた。
駅長は解除電文と暗号表の断片を並べた。
鉄道統制の暗号は、文章を丸ごと秘密にするものではない。列車番号、進行、停止、優先順位を短い数字へ置き換え、日ごとに照合欄を変える。今日の照合数字を知らなければ、命令らしい文面は作れても正式電文として受理されない。
箱の断片には、今日を含む三日分が印刷されていた。
「これは駅に置く表やない」駅長が言った。「操車場と統制所、それから軍の輸送係にだけ配られる。用が済めば焼く決まりや」
紙の裁断面を合わせると、断片は元の表の右下だった。端に青鉛筆の丸が半分残っている。解除電文の控えにも、同じ色の青鉛筆で列車番号が囲まれていた。
筆圧まで同じかは分からない。それでも、暗号表を箱へ入れた者と解除電文を作った者が、同じ机か同じ作業系統にいた可能性は高い。
車掌は封印記録簿を持ってきた。医薬品車を閉じた時刻、確認した二名の名、鉛封の番号がある。数字は現物と一致する。記録上、封印後に扉は開いていない。
「なら箱は封印前に積まれた」片山が言った。
「積荷表から番号だけ消したんやろ」と安達が続ける。
消された跡を探すと、第四六八号と第四七〇号の間だけ行間がわずかに狭い。紙を光へ透かせば、削った繊維が見えた。最初から記載がなかったのではない。一度書かれた第四69号を、積み込み後に刃で削っている。
箱を載せた者、番号を消した者、暗号表を渡した者、解除電文を打った者。同一人物とは限らない。全員が無面とも限らない。命令されただけの者、脅された者、目的を知って協力した者が混じっているかもしれない。
律は四つを一本の線で結ばず、それぞれ別の欄へ書いた。
無面の顔が一つだからといって、敵の手が一つとは限らなかった。
「内側に人がおる」片山が言った。
緑星の化け物だけではない。
鉄道の輸送計画、軍用封印、医薬品の箱番号に触れられる人間が、無面へ道を開いている。
列車の前方で笛が鳴った。
短く一度、長く一度。
捜索班の合図にはない。
全員が貨車の方を見た。
運転台から黒煙が上がり始めている。固定したはずの機関車へ、誰かが火を戻した。
そして線路の先、崩れかけた路基の上に、一人の男が立っていた。
水城律と同じ顔で、佐々木窯の耀盌を頭上へ掲げている。
箱の中にも、耀盌はある。
二つの器が、同時に緑の光を放った。




